原理講論試験
総序
堕落論
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参照:原理講論 堕落論
()内の数字は原理講論のページを示す。 1、木の実が象徴である理由を5つあげよ。(92-93)
2、生命の木とは何か、また善悪知る木とはなにか説明せよ。(94-97)
聖書のみ言によると、堕落人間の願いは生命の木の前に行き、生命の木を完成するところにある。箴言13:12にはイスラエル民族は生命の木をその願望の対象として眺めていた。黙示録22:14の記録によると、キリスト教信徒達の願望も生命の木に至ろうとするところにあるということがわかる。また創世記3:24を見れば、堕落前のアダムの願いもまた生命の木であったことがわかる。故に、この生命の木が堕落したアダム以後、すべての堕落人間の望みとして残されてきたことがわかる。完成するその時を仰ぎ見ながら成長していた未完成のアダムにとって、生命の木とは彼が堕落せずに成長して、神の創造理想を完成した男性になるということでなければならない。即ち、生命の木とは創造理想を完成した男性であり、完成したアダムを意味している。
エデンの園の中に創造理想を完成した男性を比喩した木があったとすれば、同様に女性を比喩するもう一つの木が当然存在してしかるべきである。これが生命の木と共に生えていたと記録されている善悪知るの木であった。従って善悪知るの木は創造理想を完成した女性、完成したエバを意味する。 蛇は人間と会話を交すことができ、霊的な人間を堕落させ、人間に善悪の果を食べさせまいとされた神の意図を知っていた。また黙示録12:9に「巨大な龍、すなわち、悪魔とかサタンとか呼ばれ、全世界を惑わす年を経た蛇は(天)より地に投げ落とされた」の記録から、この古い蛇はエデンの園においてエバを誘惑したその蛇であり、天から落とされた霊的な存在であることがわかる。 4、天使の堕落と人間の堕落、およびそれらの関係を説明せよ。(100-103)
ユダ書6〜7節に天使が姦淫によって堕落したという記録がある。しかしながら姦淫は独りでは行うことができない。従ってエデンの園で行なわれた天使の姦淫において、その対象となった存在がいたに違いない。
罪を犯す前、アダムとエバは、裸でいても恥ずかしく思わなかったが、堕落した後には、裸でいることを恥ずかしく思い、無花果の葉をもって下部をおおった。人間は恥ずかしいところを隠すのがその本性だから、この事実は彼等の下部で罪を犯したことが科となったために、それを恥ずかしく思ったということを現わしている。 また、死ぬということを明確に知っていながら、それを乗り越えることのできる行動は、愛以外のなにものでもない。神の創造目的を中心として見るとき、愛は最も貴い聖なるものであったが、人間は歴史的に愛の行動を、何か卑しいもののように見なしてきたというのも、それが、堕落の原因となっているからである。従って、人間もまた淫乱によって堕落したという事実を知ることができる。
人間が天使の誘惑に陥って堕落したという事実、人間も天使もみな淫行によって堕落したという事実、被造世界において、霊的存在であって、お互いに情的関係を結ぶことのできる存在は人間と天使以外にはないという事実を結びつけて見るとき、人間と天使との間に淫行関係が成り立ったことを知ることができる。 5、堕落人間が、神の血統でなくサタンの血統をもっていることを聖句を引用して説明せよ。(102-103) ヨハネ8:44に「あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって、その父の欲望通りを行おうと思っている」と記録され、黙示録12:9には「この巨大な龍、すなわち悪魔とかサタンとか呼ばれ、全世界を惑わす年を経た蛇は」から悪魔は即ちサタンであり、サタンは人間を誘惑した古い蛇であることが明示されている。ここから人間は悪魔の子孫であり、サタンの子孫であるが故に結局蛇の子孫であることになる。全ての人間がサタンの血統より生まれるようになったのは、人間の祖先が天使と淫行を犯したからである。 堕落した人間は神の血統ではなくサタンの血統をもって生まれたので、ロマ書8:23には「御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、体のあがなわれることを待ち望んでいる」と記録され、マタイ3:7には、洗礼ヨハネがユダヤ人達を見て、「まむしの子」、即ちサタンの子孫であると叱責し、またマタイ23:33においてイエスが「へびよ、まむしの子らよ、どうして地獄の刑罰を逃れることができようか」と叱責されたことが聖書に記録されているのである。 6、人間の堕落が淫行である証拠を5つの点から述べよ。(104-105)
7、霊的堕落と肉的堕落を説明せよ。(107-111) 神は霊的部分と肉的部分をもって、人間を創造されたので、堕落においても霊肉両面の堕落が成立した。天使とエバとの血縁関係による堕落が霊的堕落であり、エバとアダムとの血縁関係による堕落が肉的堕落である。
ルーシェルは天使世界の愛の基となり、神の愛を独占するかのような位置にいた。しかし、人間創造後は、神が子女としての人間をより一層愛されたである。ルーシェルは、神から人間の創造以前も創造以後も変わらない愛を受けていたのであるが、神が自分よりもアダムとエバをより一層愛されるのを見たとき、愛に対する一種の減少感を感ずるようになった。ルーシェルは、自分が天使世界において占めていた愛の位置と同一の位置を、人間世界に対してもそのまま保ちたいというところから、エバを誘惑するようになった。 愛は被造物の命の根本であり、幸福と理想の要素となるので、天使がエバに対したとき美しく見えたエバがルーシェルの誘惑に引かれていく気配が見えたとき、ルーシェルはエバから一層強い愛の刺激を受けた。こうして矢も盾もたまらず、ルーシェルは死を覚悟してまで、より深くエバを誘惑するようになった。愛に対する過分の欲望によって自己の位置を離れたルーシェルと、神のように目が開けることを望み、時ならぬ時に、時のものを願ったエバとが互いに相対基準を造り、授受作用をするようになったため、それによって非原理的な愛の力は、彼等をして、不倫なる霊的性関係結ぶに至らしめた。
エバは天使との霊的な堕落によって受けた良心の呵責からくる恐怖心と、自分の原理的な相対者が天使長ではなくアダムであるということを悟る、新しい知恵を受けるようになった。ここにおいて、エバは、自分の原理的な相対者であるアダムと一体となることにより、再び神の前に立ち、恐怖心から逃れたいと願うその思いから、アダムを誘惑するようになった。このとき、不倫なる貞操関係によって天使長と一体となったエバは、アダムに対して、天使長の立場に立っていたので、神が愛するアダムは、エバの目には非常に美しく見え、再び神の前に戻る望みを託しえる唯一の希望の対象であった。アダムがエバと相対基準を造成し、授受作用をすることによって生じた非原理的な愛の力は、彼等は肉的に不倫なる性関係を結ぶに至った。アダムは、エバと一体となることによって、エバがルーシェルから受けたすべての要素を、そのまま受け継ぐようになり、この要素は子々孫々に遺伝され、サタンの血統を継承した人類が生み殖えてきたのである。
人間は原理をもって創造され、原理軌道によって生存するように創造された。故に、原理の力それ自体が、人間を原理軌道より脱線させ、堕落せしめることはありえない。しかし、それ自身を成長させる原理の力よりも強い、ある力がそれと異なる目的をもってぶつかってくれば堕落する以外にない。この原理の力よりも強い力が、愛の力である。神の愛がなければ、人間創造の目的である四位基台が成就されないために、愛は人間の幸福と命の源泉である。神は原理によって創造された人間を、愛によって主管しなければならないので、その愛が愛らしく存在するためには、愛の力は、あくまでも、原理の力以上に強いものでなければならない。
神が未完成期にいた人間に、戒めを与えられたのは第一に、彼等が堕落しないようにするためであった。愛の力が原理の力よりも強いため、まだ未完成期において神の直接的な愛の主管を受けることができずにいたアダムとエバが、天使長の相対的立場に立つようになれば、目的を異にする非原理的な愛の力によって堕落する可能性があった。しかし、アダムとエバが神の戒めに従い、天使を相手にせず、神とのみ相対基準を造成して授受作用をしていたならば、その非原理的な愛の力は作用することができず、彼等は決して堕落するはずがなかった。 第二に、人間が、自分自身の責任分担として、そのみ言を信じ、自らの力で完成することによって神の創造性に似るようになり、万物に対する主管性を持てるようにさせるためであった。この戒めを天使長に与えず、人間に与えられたのは、神の子女としての立場から、天使までも主管しなければならない人間の創造原理的な資格と威信とを、立てさせようとされたからである。 9、サタンと堕落人間について聖句を用いて説明せよ。(115-116) ルーシェルと人間始祖が血縁関係を結び、一体となったので、サタンを中心とする四位基台が造られると同時に、人間はサタンの子女となってしまったので、イエスはユダヤ人達を「悪魔から出てきた者」(ヨハネ8:44)といい、マタイ福音書の3:7、12:34、23:33において彼等を「へびよ、まむしの子らよ」といわれたのである。また、人間始祖の堕落によって、その始祖が、一人残らず、神の血統を受け継ぐことができず、サタンの血統を受け着いてしまったので、ロマ書8:23では「御霊の最初の実をもっている私たち自身も、心のうちでうめきながら、子たる身分を授けられること」を待つと記されている。 アダムとエバが堕落し、サタンを中心とする四位基台を造ったので、この世界はサタン主権の世界となってしまった。それ故、ヨハネ12:31には、サタンを「この世の君」といい、コリント・4:4において、サタンを「この世の神」といったのである。このようにして、サタンは、被造世界の主管主として創造された人間を逆に主管するようになったので、ロマ書8:19に「被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる」と記録されている。 10、罪を定義し、その罪を分類せよ。(121) 罪とは、サタンと相対基準を造成して授受作用をなすことができる条件を成立させることによって、天法に違反するようになることをいう。
すべての罪は、その根に該当する原罪から生ずるので、原罪を清算しない限りは、他の罪を根本的に清算することはできない。しかしながら、隠されているこの罪の根は如何なる人間も知ることができないもので、ただ真の父母として降臨されるイエスのみがこれを知り、清算することができる。 11、堕落性本性を定義し、分類して説明せよ。(122-124) 天使が神に反逆して、エバと血縁関係を結んだとき、偶発的に生じたすべての性亶を、エバはそのまま継承し、天使長の立場に置かれるようになったエバと、再び血縁関係を結んだアダムも、またこの性亶を受け継ぐようになった。この性亶が堕落人間のすべての堕落性を誘発する根本的な性亶となった。これを堕落性本性という。 堕落性本性が生ずるようになった根本的動機は天使長がアダムに対する嫉妬心を抱いたところにあった。元来、天使長にも、創造本性として、欲望と知能とが付与されてあり、天使長は知能をもっていたので、人間に対する神の愛が、自分に注がれるそれよりも大きいということを比較し、識別することができ、その上に欲望をもっていたから、神からそれ以上に大きい愛を受けたいという思いがあった。この思いは自動的に嫉妬心を生じせしめたのである。嫉妬心は、創造本性から誘発されるところの、不可避的な副産物である。 堕落性本性は四つに分類することができる。
天使長が堕落するようになった動機は、神が愛するアダムを、神と同じ立場で愛することができず、彼を妬んでエバの愛を蹂躪したところにあった。ねたみきらう性質。
ルーシェルは、神の愛をより多く受けるために、天使世界において持っていたと同じ愛の位置を、人間世界においても保とうとして、その不義なる欲望によって、自己の位置を離れ、堕落した。不義な感情をもって、自己の分限と位置を離れる行動。
人間の主管を受けるべき天使が、逆にエバを主管し、アダムの主管を受けるべきエバが、逆にアダムを主管するようになった。人間社会の秩序の乱れ。
エバは、自分の罪をアダムにも繁殖させ、アダムをも堕落させてしまった。天使長は不義の言葉をエバに伝え、エバはそれをアダムに伝えて堕落した。 12、自由と堕落を説明せよ。(自由の原理的意義、自由と人間の堕落)(125-127) 自由とは、自由意思とこれに従う自由行動とを一括して表現した言葉であり、前者と後者が一体となって始めて完全な自由が成立する。自由行動は、自由意思によって現われるものであり、自由意思は心の発露で、創造本然の人間においては、神のみ言、即ち、原理を離れてはその心が働くことができないので、原理を離れた自由意思とそれに基づく自由行動はありえない。従って、原理を離れた自由なるものはありえない。 第二に、原理によって創造された人間は、それ自身の自由意思をもって、その責任分担を完遂することによってのみ完成するので、創造目的を追求していく人間は、常に自由意思をもって自分の責任を全うしようとするので、責任のない自由はありえないのである。第三に、人間が、自由をもって、自身の責任分担を完遂しようとする目的は、創造目的を完成して、神を喜ばせ得るような実績をあげようとするところにあり、自由は常に実績を追求するが故に、実績のない自由はない。 このように自由意思による自由行動は、善の結果のみをもたらすようになるので、人間は決して自由によって堕落することはできない。このような自由を、本心の自由という。エバが原理を脱線しようとしたとき、原理的な責任と実績を追求する本心の自由は、彼女に不安と恐怖心を生ぜしめ、原理を脱線しないように作用した。また堕落したのちに置いても、本心の自由は、神の前に帰るように作用したのである。人間の堕落は、本心の自由が指向する力よりも強い非原理的な愛の力によって、その自由が拘束されたところに起因する。堕落によって自由を失ったのである。 13、神が人間始祖の堕落行為を干渉されなかった理由を説明せよ。(129-132)
創造原理によれば、神は人間が完成したのちにおいて、はじめて彼等を直接主管されるようになっていた。もし、神が成長期間に、彼等の行為を干渉し、直接主管されれば、創造原理を、自ら無視する立場に立たれることになる。神は絶対者であり、完全無欠なる創造主であられるが故に、神が定められた創造原理も、絶対的であり、完全無欠でなければならない。
神は自ら創造された原理的な存在とその行動のみを干渉される。神の干渉を受けるその存在や行動は、既に、創造の価値が付与され、原理的なものとして認定されたもののような結果をもたらす。もし神が、堕落行為に干渉されるとすれば、その堕落行為にも創造の価値が付与されることになり、犯罪行為をも原理的なものとして認定されるという、もう一つの新しい原理を立てる結果をもたらす。そうなればサタンも一つの新しい原理を創造したということになり、創造主の立場に立つことになる。
人間が万物を主管することのできる資格を持つためには、神の創造性を持たなければならない。従って、神は人間に創造性を付与し、万物を主管し得る資格を得させるために成長期間をもうけ、この期間が満ちるときまで、人間がそれ自身の責任分担を遂行することによって完成するように創造された。もし、未完成にいる人間を神が直接主管し、干渉されるとすれば、人間の責任分担を無視する結果となり、神の創造性を持つこともできなくなるために、万物を主管する資格も失うことになる。 |