第三章 復帰摂理

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第三章

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第六章

第七章

目次

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第一節 復帰の公式

一、三権復帰から見た復帰の公式

a)神主管圏(本然の秩序)とサタン主管圏

本然の秩序とは神がアダムを主管し、アダムがエバを主管し、エバがカインを主管し、カインがアベルを主管するというものであった。従ってアダムは神の声を聞いて、その声のとおりにしていけば完成するようになっていた。次にエバは直接神の声を聞かなくても、アダムの言うことだけを聞いてアダムと一体化すれば、アダムと共に完成するようになっていた。同じように長男は母であるエバの言うことに従っていけば完成し、末の子どもは兄の言うことに従って一体となっていけばよかった。これが本然の秩序であった。

本然の神主管圏の秩序もサタン主管圏の秩序も型としては同じであり、中心が異なるだけである。サタン主管圏の主管主はサタンである。しかしサタンにとってもこの世界を主管することは容易なことではなかった。その一つの理由は堕落したサタン主管の世界にあっても、第二の神として原理的に作用する人間の良心は常に善を指向するために、サタンの非原理型秩序を嫌って反発するからである。サタンもこの良心の力を抑えてしまわない限り、サタン世界を保つことができない。サタンは愛によって主管することができないために、外的な力すなわち権力や武力で恐怖心を与えて主管しようとする。それでも従わない場合には生命を奪ってしまう。さらにもう一つの難しい理由はサタン主管圏の構成要因の相互間が怨讐関係になっていることである。一面では愛の関係を結びながらも、根底において怨讐になっていることである。 サタンは六千年という長い期間にわたって様々な問題を内にもちながらこの世界を主管してきた。サタンはこの地上のみならず無形世界まで、すなわち天宙を主管し続けてきたのである。

b)対応的相対関係

創造原理は小さい一点から始まってより大きく次元の高い段階へと展開するようになっている。原子を見ればマイナスの電子がプラスの原子核と一体となって原子を形成し、全体としてマイナスイオンを形成し、さらにプラスイオンと一体となることによって、次の段階の分子を形成するようになる。このようにして最後は神と一体化する。このような関係を対応的相対関係という。これは創造原理の法則であるから、再創造摂理である復帰摂理もこの公式が適用されるのである。カインとアベルによる長子権復帰、父母権復帰、王権復帰の三権復帰もこの公式の応用である。

c)長子権復帰

1、アダム家庭

神は復帰摂理を始めるにあたって、自分に近いところから、すなわちサタンから一番遠い位置にあるものから始めなければならなかった。堕落世界であるサタン主管の世界にあって、サタンから最も遠い位置にあったのはアベルである。そのためまずアベルを立てて復帰摂理を始めざるを得なかった。しかしアベルもサタンの子女という立場にあることに変わりはない。方向としてはサタンの方を向いているのである。それで神はアベルの首をつかむことができず、アベルの尻尾をつかむようにして摂理を出発せざるを得なかった。アベル自身が自ら向きを変えるようにさせるのが信仰基台の条件である。信仰基台を立てることによってサタンとの親子関係を切り、神との親子関係を復帰するようにされた。次に神と一体となったアベルがカインを神の側に連れ帰さなければならない。これが実体基台である。この二つの基台が実体基台となる。このように見たときメシヤの為の基台は神と一体となったアベルが長子カインを神の側に復帰する摂理となるので、内容としてはアベルの長子権復帰摂理である。

復帰摂理におけるカインとアベルの転換が長子権復帰である。エバの堕落の実であるカインとアベルが一体となって神側に戻る条件が立てば、その基台の上にエバが神に戻る道が開けてくるのである。

アベルがカインから長子権を復帰しようとするとき、全てを主管しているカインと神にも屈服しなかった背後のサタンが簡単にアベルに屈服して長子権を引き渡すことはありえない。

サタンはカインを通してアベルを殺すことにより長子権を守ったが、神のやり方は殺してしまうのではない。愛によって復帰するのである。神の道はサタンとは反対の道である。長子権を復帰するには真の愛によって愛する以外に方法がない。犠牲の愛によって怨讐を愛する。怨讐の中に住み、怨讐を主管しているサタンを感動させて屈服せしめるのは犠牲の愛以外にはないのである。

「サタンを屈服させるためにはサタンに優らなければならない。サタンに優るためにはサタンのもたないものをもち、サタンができないことをやらなければならない。それは真の愛であり、自己否定と自己犠牲であった。真の愛を中心として己を否定し、己を犠牲にして怨讐のために生きるならば、サタンは屈服せざるを得ない。サタンの本性は自己中心であるためにサタンがサタンである限り、サタンは自らを否定し他者の幸せのために生きることはできない。それ故にそういう者の前にサタンは屈服せざるを得ない。しかも感動して屈服せざるを得ない。」 (アベルの正道)

サタンは打つことによって滅び、神の側は打たれて勝利していくので、迫害されることは恐れるべきことではない。迫害は迫害される者が迫害する者の所有権を相続するための神の第二の戦法である。だから恐れるべきは迫害それ自体でなく、迫害される自分が本当に正しい道を歩んで迫害されているのか否かを問題にすべきである。

2、ヤコブ路程

メシヤの象徴であるヤコブは打たれて勝利した人である。打たれて、ある蕩減の量が満ちれば、その時からサタン圏は崩れ始める。ヤコブが叔父ラバンに不当に打たれてある期間を経過し、蕩減条件が満ちるようになるときラバンの家族の中からヤコブに同情する者が現れてくる。

d)父母権復帰

1、エバの復帰

アベルをプラスとしカインをマイナスとして両者が一体化してより大きなマイナスとなり、より大きなプラスであるエバを復帰するようになる。

復帰されたエバの代表的人物がリベカでありタマルであり、イエスの母マリヤであった。

ヤコブの家庭において男のカイン・アベルも女のカイン・アベルも共に一体となることによって母を復帰していくのである。以上のことを母の立場からみた場合、男のカイン・アベルのみならず女のカイン・アベルをも一体化させて、メシヤを迎える準備をするのが母としてのリベカの責任であったが、前者においては勝利したが後者においては勝利できなかったのである。すなわちレアとラケルを一体化させることができず失敗したのである。このことが後に大きな問題となり、歴史に大きな傷跡を残すことになった。

アダム家庭のエバの失敗を蕩減復帰する使命をもつリベカは母子協助によって男のカイン・アベルすなわちエソウとヤコブを一体化せしめることができたのではあるが、エサウとヤコブが一体となったのが四十歳であったために、四十歳以前の一体化においては未完成であった。この未完成の部分を担当したのがタマルであった。

次に神の立場から復帰されたエバの姿を見ることにしよう。神は性相的男性格主体であり、陽陰を内包しながらも格としては男性である。それ故に神の願いはその実体であるアダムの中に住んで女性であるエバを迎え神の子女を生んで神の家庭をつくり、地上天国、天上天国をつくることであった。

しかしながら神が未だ結婚できないうちに神の愛するエバは天使長により貞操を奪われ、サタンの実体となったアダムと共にサタンを中心として夫婦生活をなして、サタンの子女を生み殖やしていったのである。その血統を受け継いだ女性たちもそのエバの分身として無数のサタンの子女を生み殖やして、地上も霊界も一杯にしてしまったのである。神は許すことのできない愛の怨讐である姦夫サタンのために創造を絶するまで傷つきながら、そのサタンと幾十万年、幾百万年も夫婦生活をしてきたその女を復帰する以外に道がない神なのである。

2、復帰されたエバの使命

長子権復帰の摂理において、アベルの使命は自らの犠牲の愛によって、カインとその背後のサタンを感動させて屈服することにあった。しかしカインは何もしなくてもよいというのではなく、堕落性を脱ぐという使命を果たさなければならなかった。これと同じようにアベルとカインが協力してエバを復帰するのが子女としての使命であるが、同時に復帰されたエバにも使命が生じるのである。

復帰されたエバの使命を知るためにはエバの失敗が何であったかを明確に知らなければならない。エバの失敗は神とアダム、すなわち父と夫または父と長子を裏切って天使長と性的関係を結び、サタンとなった天使長の種を受けてサタンの子女を生み、彼らを連れて地獄に行き、地上地獄と天上地獄をつくり出したことにあった。

従って復帰されたエバの使命はサタン側の父と夫または父と長子を裏切ってでもサタンとの関係を断絶し、その子女を一体化させ、彼らを抱いて真のアダムと一つになり重生して神に帰れことである。

堕落によりサタンはアダムを主管し、堕落したアダムはサタンの体となってエバの至聖所を犯し、神の心情を想像もできないほど傷つけてしまったのである。

エバの奥深くに侵入したサタンを分別するためにはその至聖所を聖別する以外にないのである。それ故復帰されたエバの使命はサタンの血統によって汚された性関係を断絶することから始まる。ここに復帰されたエバの使命をもった宗教がその理由を十分説明できないまま、独身生活を要求してきた根本的な理由があるのである。さらに血統のみならずサタンとの心情関係までも切るためにはサタン主管圏を脱出して神主管圏に向かわなければならない。これが宗教でいうところの出家である。

エバがサタン主管圏を脱出し新婦圏を造成するときに、神はアダムを天から送られるのである。これがメシヤである。メシヤが来られたとき復帰されたエバは自らのみならず子女を一体化させて彼らを連れて真のアダムのもとに来て共に重生されなければならない。加えて、非原理的な所有権を原理的な神側に返す所有権返還をもなさなければならない。その上で完成期を通過して神と一体となり、神の直接主管圏に入って創造理想を復帰完成していくのである。

終末にはサタン主管圏が崩壊し、神主管圏が現れてくる。しかしサタンとその実体の立場に立つ堕落したアダムの立場からみれば、メシヤは幾十万年も幾百万年も愛してきた最愛の妻と子女及び万物の全てを奪う者として見えるのである。それ故滅びゆくサタンは全存在をかけて、その主管圏の全てを動員してメシヤ一人を殺そうと打ってくる。これがメシヤが全世界から迫害を受けざるを得なくなる理由である。

3、父母権復帰 

真のアダムが復帰されたエバの代表としての新婦を娶るとき、真のアダムとその新婦は真の父母の立場に立つことができ、父母権復帰となるのである。

e)王権復帰

復帰されたエバが子女と共にアダムの種を受けて重生すれば、その後は残された完成期を通過して神の愛と一体化し、四大心情圏及び天的な万物の主管権を与えられて王権復帰、さらには創造理想の復帰完成となっていく。

このようにして長子権復帰、父母権復帰、王権復帰の三権復帰が成就すると、神からアダム、アダムからエバ、兄(アベル)から弟(カイン)という本然の神主管圏の秩序が復帰されて、復帰摂理は完成されるのである。そして再臨主は自らの勝利基準を男性に相続させて天使長圏からアダム圏に復帰し、新しいアダムとして再出発させて下さるのである。

二、縦的な復帰の公式の横的な展開

                 神の直接主管圏                         王権復帰(第三祝福)          神
―――――――――――
                        ↑                                                                                     父
――――――――――― メシヤを迎え重生 父母権復帰(第二祝福)  母
↑\           /                   
――――――――――― メシヤの為の基台                                        実子
|    \        /                信仰基台               長子権復帰(第一祝福)  庶子
―――――――――――   実体基台                                                        僕
           \/                                                                                                  僕の僕

復帰の公式の三つの様式 (メシヤの為の基台) (三権復帰)    (縦的八段階復帰)

サタン主管圏は個人から始まって天宙にまで広がっているので、サタンを完全に屈服させるにはこの縦的復帰の公式を横的に展開し、個人からサタンに至るまでの全ての段階を勝利しなければならない。従ってこの復帰の道は個人として行かなければならない道であると同時に、家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙とサタン屈服までの全てが勝利されなければならない道である。

メシヤの為の基台、三権復帰、縦的八段階復帰などいずれの様式であったとしても、その縦的蕩減条件を個人から天宙さらにサタン屈服までの横的八段階に展開して勝利しなければサタンは屈服しないのである。

真の父母が人類を代表して天宙的長子権復帰の勝利を決定されたのが1989年8月31日のアラスカにおける八定式であった。八定式によって真の父母は人類史上初めて人間の責任分担を勝利された方として、サタンのざん訴できない神の直接主管圏に入ることができるようになった。そして翌9月1日に天父主義宣布がなされ、天宙的父母権を復帰され、1991年7月1日神様祝福永遠宣布式においては天宙的王権復帰の条件を勝利され、ここに天宙的三権復帰を成し遂げられたのである。

1990年4月文鮮明師が世界的な悪の天使長の立場にあったゴルバチョフ大統領から迎えられ、1991年12月サタン側のアダムの立場にある金日成主席を真の愛で屈服させることにより、天宙的な長子権復帰は実体的となったのである。そして1992年4月10日の世界平和女性連合創立大会において真の母が真の父の勝利圏を相続されて真の父と同等の立場に立ち、真の父と共に天宙の真の父母として立たれることによって、天宙的父母権復帰も実体的なものとなったのである。この真の父母の天宙的勝利の基準を全人類に相続させる摂理が氏族的メシヤ活動であり、それを成し遂げて、創造理想を全うする時代が成約時代である。

このような勝利の前にサタンは完全に屈服し、真の父母が行かれる所、サタンは崩れて行かざるを得なくなったのである。ここに真の父母を中心として天運が到来することになった。

第二節 復帰の公式の歴史的展開

1、アダム家庭におけるエバの使命

エバは父サタンとサタンの実体となった夫アダムとの関係を断ち切って、悔い改めて、聖別生活を行い、二人の子女の仲立ちとなって母子協助し、それによってカインとアベルを和解させなければならなかった。 しかし聖書にはエバの悔い改めの記録はない。泣きながら神のもとを去って行ったエバはその後もずるずると性関係を続けたのである。堕落したアダムはサタンの体であるから、サタンはアダムの体を通してエバとの性関係を続けたのである。それ故に二人の間に生まれた子女はサタンの子女であった。

エバはサタン分別ができず、母として子女を一体化させることもできなかった。そしてカインがアベルを殺害することによってメシヤの為の基台は消えてしまい、メシヤ降臨の可能性を失ってしまった。そうしてエバは完全に失敗してしまったのである。

2、リベカの使命

リベカは男のカイン・アベルについては母子協助によって勝利することができたが、女のカイン・アベル、すなわちレアとラケルについては母子協助することができず失敗してしまった。

レアとラケルの二人の女性が一体化できるかどうかがヤコブ路程が真の意味で完成されるか否か、その後ヤコブの子孫であるイスラエル民族が使命を成就できるか否かを決定する極めて重要な鍵を握っていた。一体化できれば二つの流れになった女のカインと女のアベルがアベルを中心として一つになり子女も一つとなって一つの流れとなって共に救われていくのである。

ラケルは奪われた長女権(正妻の位置)をレアから復帰しなければならない。そのためにラケルはレアを自己犠牲の愛で愛していかなければならなかった。それがラケルの使命であった。怨讐を愛するということはただ耐えるだけでよいということではない。ラケルは積極的に、直接または間接的な方法で仲保者(母及び叔母のリベカ)を通して父と姉に抗議すべきであったが、内向的なラケルにはそれができなかった。そのためにレアを屈服させることができなかったのである。おとなしいだけでは使命は果たせなかったのである。

一方レアの系列はサタン主管圏であるために、どんなに広がってもサタン主管圏であり、ここには復帰の可能性はなく地獄に向かっていくしかない。そうならないためには方向転換しなければならない。転換して行く方向はラケルの方向である。復帰摂理の観点からみればラケルがレアを屈服させて自分の方に引いてこなければ摂理を進めることはできない。

サタンは神に対して「ラケルを立てて摂理をするのであれば、ラケル自身が長女権を復帰しなければならないし、そのためには怨讐を愛さなければならない。怨讐を愛するためには怨讐を置かなければならないではありませんか。私がそれを置きますよ。」と言うのである。そしてラケルに対する愛の怨讐としてサタンはサタン側の長女レア立てたのである。

それに対して神はサタンの言い分を認めざるを得なかった。神の了承のもとにサタンはラバンを通してレアをヤコブのもとに送り込み、ヤコブの初愛をレアを通して奪ってしまった。

一人の男ヤコブを中心に置いて、姉と妹でありながら、夫を奪い合う愛の怨讐同士となってしまった。ここでレアとラケルは本来どのようにすべきだったのだろうか。

本来なら良心の呵責を感じて妹の所へ行き、父に言われてやったこととは言え申し訳ないと思い、涙ながらに謝るのが当然であった。もしレアがそうしていれば、心の優しいラケルは姉を許したに違いない。心から悔い改めたレアが二度と再びヤコブと一緒になることなく、ラケルの手を引いてヤコブのもとへ連れて行き、自分は僕のようにして二人に仕えていくことができれば、カインがアベルに屈服し、長女権が復帰されたことになる。その後ラケルを正妻として摂理が進んでいけばラケルから生まれた者の子孫からメシヤが来るはずであった。

レアは長女権をラケルに与えなければならなかったが、そうすることができず、多くの子女をヤコブに生んでしまった。

ラケルは次子ベニヤミンを生むとき難産のため死んでしまい、ヤコブ路程における女のカイン・アベルの一体化の摂理は失敗に終わってしまうのである。

その後ヤコブの子孫がラケル自身が生んだ二人と他の十人の間で争うようになり、ヨセフを他の兄たちが殺そうとし、またカナン偵察で不信のカイン側の十人と信仰を立てた二人が分かれて争い、南北王朝分立時代にはカイン側の北の十部族とアベル側の南の二部族が抗争するようになった。南北王朝分立時代の半ばになると信仰が低下し偶像崇拝にはしった人々の中にあって特別予言者エリヤが現れカルメル山でバアルの予言者450名とアシラの予言者400名合わせて850名と対決しはん祭に火をおろしてイスラエルの神の正当性を証すことができたのであるが、バアルとアシラの予言者たちを捕らえて殺してしまったことで、アハブの王妃イザベルに追われる身となったとき、神はホレブの山で「私はイスラエルの内で七千人を残すであろう。」(列王記上19/18)と言われたのである。しかしエリヤが絶対信仰を立てることができず、神殿信仰を立て直すことができなかった。そして使命未完成のまま火の車に乗って昇天したのである。

イエスの時代にエリヤの使命を蕩減復帰して実体神殿であるイエスを迎えるために遣わされた人物が洗礼ヨハネである。神は洗礼ヨハネに従う七千人を準備していたが、その七千人と団結することができず、またイエスを信じることもできなかった。これを再び再臨時代に蕩減復帰する摂理が文鮮明師を支えるキリスト教を代表した七千人の牧師たちであった。

イエスの十字架の背後関係を歴史的にさかのぼってみると、その出発点にレアとラケルが一体化できなかったというこの一事があったことが分かる。

二人を一体化させる上で最も有力な存在であったのがラバンの妻である。彼女は二人の娘の母として、特に姉のレアに対して、レアを説得してラケルに対して行った行為を悔い改めさせるべきであった。そしてレアに対して、再びヤコブの所に入らず、それ以後は僕として仕えていくようにすることもできた。彼女をそうさせるための重要な役割を担っているもう一人の女性がリベカであった。リベカは彼女の所に行き、レアがラケルに屈服する道を教え、説得して、ラバンの妻と一緒にレアとラバンに働きかけなければならなかった。リベカは一面においては勝利者であったが、他の一面においては失敗者となった。

3、タマルの使命

サタンの種がエバの胎中に蒔かれてそこから全てが出発したために、胎中まで帰って分別しておかなければ、メシヤを胎中から生み出すことができない。そのためにヤコブとエサウの善悪交差の時点でまだ分別されていない0歳から四十歳までの期間について、サタンを分別する責任をもった女性がタマルであった。タマルは戒めに反することによって焼き殺されるかも知れないということをはっきり知りつつもタマルは義父と関係した。そのことによってタマルの胎中において善悪が交差し、転換し、胎中分別がなされたが、タマルは何故そのような行動をとったのであろうか。

タマルの行動の動機が極めて重要である。タマルがそのような行動をとったのは情欲からでも、ユダとの情的因縁からでもない。ただユダの血統を守るためであった。第二の夫オナンが死んだ理由が兄エルの子を得させないようにしたことで、神の怒りに触れたと知っていたのはタマルだけであった。タマルはその時ユダの血統を残すことが深刻な神の願いであることを悟った。

重要なことはただ神のみを喜ばせるために、自分の生命がどうなろうとも、また自分の名誉や地位がどうなろうともかまわないという、タマルの心情の動機である。これがタマルの勝利した信仰基準であった。そこには私という存在意識は全くなく、完全に無私の世界だけがあった。

血統だけなら、後でシラが他の女と結婚すればそれは可能であった。しかし胎中分別はタマルの信仰が条件なのであった。

ちなみにタマルの完全無私の信仰は現在においても祝福前の女性が勝利しなければならない理想の基準であり、また国家基準においてもエバ国家として立てるべき基準である。

日本はエバ国家として、国家的にタマルの信仰基準を立てなければならない。何年経っても日本にその基準が立たないので、文鮮明師は仕方なしに、外からでもその基準を持ってきて、移植しなければならなかった。四千年前のタマルの話をしても日本人にはなじみがなく分からないので、タマルと同じような信仰基準、すなわちその女性の信仰基準によってメシヤが地上に来ることができた烈女、柳寛順の精神を日本に導入して、ここに柳寛順精神、タマルの精神ありという基準を立て、これによってメシヤを日本に迎えることができたのである。

タマルは父ユダと二人の夫、エル、オナンを裏切った立場に立って、胎中の二人の子女を一つにして、メシヤを迎える準備をした。このようにして復帰された女性としての使命を果たした。日本も同じように、ペレズとゼラに相当する在日本大韓民国民団と在日本朝鮮総連合界を一つにしなければ、エバ国家としての使命を果たすことができない。

イギリスがエバ国家としての使命を果たすことができなかった理由の一つはアイルランドの旧教とスコットランドの新教を一つにすることができなかったことである。

4、マリヤの使命

マリヤを中心としてマリヤとエリサベツ一体となれるかどうかという問題はレアとラケルの時以上に重要なことであった。これによってイエスの家庭とイエスの運命が決定されたといっても過言ではなかった。 マリヤ、エリサベツ、そしてマリヤが受けた天の啓示について相談を受けたザカリヤも、マリヤから生まれる子供がメシヤであることをはっきり知った。三人はメシヤを迎えることの喜びと共に、そのことの重大性を深刻に話し合ったに違いない。相談の結果マリヤはザカリヤの家にとどまることになった。エリサベツとマリヤの関係は実際は母方の従姉妹であったが、摂理上は姉(女のカイン)と妹(女のアベル)の関係にあり、レアとラケルを蕩減しなければならない関係であった。

ヤコブの家庭においてレアはラケルの手を引いてヤコブの所へ連れて行き、さらに自分は身を引いて仕えなければならなかったが、レアはそうすることができず失敗してしまった。それをエリサベツはマリヤに対して行い、レアの失敗を蕩減したのである。このようにすることができたのは三人が霊的に一番高まっているときにそのようにせよとの天の啓示を受けたためであった。霊的に高まっていたために、常識では考えられない内容であっても、感動と共に無条件に信じて行うことができたのである。

エリサベツはマリヤの手を引いてザカリヤのところへ行き、マリヤもまたエリサベツについてザカリヤのところへ行った。その時のマリヤはタマルの心情と全く同じであった。それが天の願いであるならば、たとえこの身がどのようになってもよいという心情だけがそこにあった。

しかし最初の頃には使命を果たしていたエリサベツも心に沸き上がる嫉妬をどうすることもできなくなってしまった。そのようなエリサベツの思いをマリヤは敏感に感じとっていた。母と娘のように、また姉と妹のように愛し合った二人の女性が、一人の男、ザカリヤを中心にして、神のみ旨の故に愛の怨讐となってしまった。そのような中エリサベツがマリヤを追い出したのか、マリヤがたまり切れずに出て行ったのかは定かではないが、「マリヤはエリサベツのところに三ヶ月ほど滞在してから、家に帰った。」(ルカ1/56)と聖書に記されている。その時以来、聖書で見る限り、マリヤとエリサベツは一度も会っていない。二人の女性、カイン・アベルの決定的な決裂となってしまった。

マリヤが家に帰ってきたとき、子女を宿していると知ったヨセフが胎内にいるのは誰の子かと追求するのは無理からぬことであった。しかしマリヤは自分の夫となるべきヨセフと、息子の嫁としてマリヤに希望を託していたヨセフの父を裏切って、絶対に口を開かず、「聖霊によって身ごもりました。」とそれだけしか言わなかった。それ程までみ旨に徹底した女性であった。

マリヤのお腹が大きくなって、周囲の人々の知るところとなったとき、ヨセフがマリヤのお腹の子は自分の子女でないと訴えれば、マリヤは殺されてしまっただろう。文鮮明師は「ヨセフはマリヤを守ってあげた。」と語っておられる。そのことはアダムがエバを守ってやれなかったことの蕩減であった。

生まれたばかりのイエスを見たヨセフの心情はどれほど複雑であったか計り知ることができない。生まれたときからヨセフとイエスの関係はとても難しいものとなった。そのためにマリヤとしても、ヨセフに気兼ねして思いどおりに十分にイエスを愛することができなかった。このことを考えるとイエスの生涯は初めから悲惨な立場に置かれていたことがよく分かる。 

堕落は双子の兄妹であった妹のエバを天使長が奪って結婚してサタンの妻にしてしまったことである。従って復帰はアダムの代わりに降臨した天使長の妹を奪って真のアダムの妻としなければならなかった。従って天使長の立場に立っていた洗礼ヨハネの妹を妻として迎えなければならない。これがメシヤとしてのイエスの立場であった。

文鮮明師は洗礼ヨハネに妹がいたと言われている。アダムが16歳で堕落したのでイエスはそれを越えた17歳の時、母マリヤに対して摂理に基づいて洗礼ヨハネの妹と結婚しなければならないことを詳細に説明した。イエスがどのような関係で生まれてきたかをよく知っているマリヤはこの結婚が近親結婚であるために厳しく反対したという。

それから十年待ってイエスが27歳になったとき再び母マリヤに対してヨハネの妹を娶らなければならないことを深刻に話したのであるが、マリヤの態度は変わらなかった。最後にイエスが三十歳になったとき、痛哭しながらそのことを訴えたのであるが、マリヤは頑として聞く耳を持たなかったのである。

イエスの結婚に反対するマリヤとかつては霊肉の生死を越えて絶対信仰に立ってイエスを生み出したときのマリヤとの間にあまりにも大きな信仰と心情の隔たりがあった。

それはイエスと洗礼ヨハネの妹との結婚が常識を越えているためというだけではないもっと深い理由があった。ヨセフとマリヤはアダムとエバの堕落を蕩減復帰する立場であった。アダムとエバの失敗は許されない時ならぬ時の性関係をもったことである。従ってそれを蕩減する立場にあるヨセフとマリヤは約婚はしなければならなかったが、性関係を結んではならなかった。ヨセフはイエスが生まれるまではマリヤと関係を結ばなかった。しかしながらイエスが生まれた後にも、変わらぬ愛をもって結婚を迫ってくるヨセフに対して、それを拒絶するだけの力は年若いマリヤにはなかった。一面においてはいけないと思いつつも、現実はそれを許さなかった。マリヤはヨセフと結婚し、二人は性関係を結ぶようになり、アダムとエバの失敗を再び繰り返したことと同じ結果になった。

これを条件としてサタンはヨセフとマリヤに侵入し、さらに二人の間に生まれた子女たちに侵入するようになった。イエス一人を残して、全てがサタンの手に落ちてしまった。イエスを守るはずの父も母も兄弟姉妹もサタンの側となり、神の側に立ったのはイエス一人であった。

サタンの侵入を受けるようになったマリヤは霊的無知になってみ旨が分からなくなってしまった。マリヤはみ旨の分からない単なるこの世の母親となってしまった。そのためイエスがメシヤとしての使命を果たすために絶対に不可欠であった結婚に対して反対してしまったのである。

エリサベツもイエスと洗礼ヨハネの妹との結婚は近親結婚であり、倫理や法律に反しているとして賛成するはずがなかった。さらに深い反対の理由として、イエスがマリヤの子供であると言うことであった。二人の関係は決裂し、怨讐となっていた。二度と会うことのなかった怨讐の息子に自分の愛するかわいい娘を与えることはエリサベツには到底できなかった。ザカリヤもその関係を知っているために賛成するはずがなく、また自分の過去の露見するのを恐れないはずがなかったのである。

イエスとして最後の頼みの綱が兄の洗礼ヨハネであった。しかしその洗礼ヨハネも賛成はしなかった。イエスのために自分の家庭がめちゃくちゃに破壊されたことを知っている洗礼ヨハネはイエスに自分のかわいい妹を紹介してあげる気持ちには到底なれなかった。

自分の父の犯した不倫の罪によって生まれた子供がどうしてメシヤであろうか。ヨハネは悶々として苦しみ、ついにはメシヤであろうはずがないと思うようになった。

もともと天使長はアダムとエバに侍り、彼らを結婚させるのが使命であったように、ヨハネは自分の妹をイエスの新婦として結婚させることにより、それを蕩減すべきであった。しかしその使命は完全に失敗してしまった。

イエスは母マリヤから反対され、エリサベツから反対され、ザカリヤからも反対され、最後は洗礼ヨハネからも反対されどこから摂理を開いていけばいいのか分からないまま、どうすることもできなくなってしまった。そして肉身の関係を中心に使命を果たすことを断念し、霊的基盤を求めて再び復帰摂理を立て直すために再出発せざるを得なかった。これがイエスの出家の理由である。

こうしてイエスの寂しい孤独な道が始まった。肉的基盤を失ったイエスはそれに代わる霊的基盤を探した。すなわち母に代わる母を探し、兄に代わる兄を探して、そこに新しい基盤を探していった。これがイエスの三年間に及ぶ伝道生活であった。

しかし代わりに探した霊的基盤もサタンに侵害され、追われに追われて、ついに弟子たちも散り散りばらばらになってしまった。ヨセフの代わりの人物として立てようとしたユダに裏切られたときには、イエスを支える基盤は何もなかった。このようにして最後に残った三人の弟子を連れてゲッセマネで祈られた祈りの深刻さはいかばかりであったであろうか。

最後の談判祈祷をされたイエスであったが、神は何一つ答えてあげることができなかった。この時血の叫びをしたイエスの苦しみもさることながら、その叫びにじっと黙ったまま答えることのできなかった神の胸の痛みはそれ以上にもっと苦しいものであった。三度祈って頼んでも天が答えないときにそれが何を意味するかを悟ったイエスは従容として十字架の道を選んだ。

十字架の痛みの絶頂においてイエスは全ての者から捨てられた。母はあっても母はなく、兄弟あっても兄弟はなく、親戚あっても親戚はなく、民族あっても民族はなく、国家あっても国家はなく、世界あっても世界はなく、弟子あっても弟子はない。全てから捨てられたイエスであった。たった一人天涯孤独なイエスにとって頼ることのできる存在は天の父なる神たったお一人だけであった。しかし孤独と痛みの絶頂においてその神までが顔を背けてしまった。

イエスはメシヤとして地上に来たけれども、新婦を迎えることができず、真の父母となることもできず、その使命を全うすることができなかった。イエスが十字架でなくなったのは神の子としてであって、メシヤとしてではなかった。メシヤとして降臨しながら、たった一人にも祝福を与え、原罪を解決することができず、天にも地にも顔を向けることができずに死んでいったイエスがどれほど無念であったか、今日まで誰一人として知る人はいなかった。

イエスが失敗した主な原因が母にあったこと、愛する母が使命を果たせなかったことにあったということがイエスの悲しみをどれほど深いものにしたか計り知ることができない。

このようなイエスの悲しみを解放するのが氏族的メシヤの摂理である。結婚できなかったイエスに代わって、結婚したイエスの立場から出発して、イエスの悲しみを解放するのが氏族的メシヤの使命である。