はじめに 長旅 短旅 新婚旅行 雑文 掲示板 更新 我々 メール


麗江とその周辺・摩峻族の濾沽湖



1996/05/20
<世界遺産・麗江旧市街>

大具から麗江まで20元。最初の2時間ぐらいは大変な山道で、口を開けていると舌を噛みそうであった。途中、イ族の村を数多く通過した。写真を撮りたかったが、イ族は剽悍で知られた民族。バスの中から撮るのは失礼なような気もあり、撮らずじまい。 2時間を過ぎたころから道がややましになり、山を完全に下って盆地へ出ると、道はまっすぐ麗江まで一直線。右手に玉龍山脈を見ながらの快適なドライブである。

ここからは貝の化石が多く取れるため。「乾海子」という地名がついているそうである。まったく突然に「雪花飯店」という小さくないホテルがあり、景色がいいので泊まってみたいと思ったが、地元民に聞くと、観光客相手の「紅灯区」だそうだ。

麗江到着。玉泉賓館の前で下車。麗江賓館のドミが空いているのを確認してチェックイン。10元+地震保険料2元。この保険料は麗江のどのホテルに泊まってもつく。終日、とりあえず休む。

麗江旧市街を近郊の丘から眺めおろす。灰色の屋根なみが、たとえようもなく美しい。




1996/05/21
本日は洗濯日。一時間かかった。たいそう天気がよく、白沙村へ行きたいのだがちゃりでは行く気がしない。バスを探すと運良くミニバスが来た。とりあえず乗ってみた。2元。

バス停前の毛沢東。

白沙には明代と清代の壁画があり、明代のものは参観可能である。門票は1元。 きわめて均整の取れた壁画で、唐代の遺風を残していると説明人は誇らしげに語った。もっとも、門外漢の私にはそれが妥当な評価なのかはさっぱりわからない。私にとっておもしろかったのは、絵の中央部が完全に中国風の絵かと思えば下の方はなにやらチベット絵画風であったり、また別の絵にはインドのカーリーそっくりのものがあったりして、なにやらいろいろな作風が混ざっているように見受けられたこと。

そして、白沙村といえば忘れてはならないドクター・フー(和医者)。自慢話にあけくれるかわいいおじいちゃんである。一種の名物なので、白沙を訪れる外人はたいてい彼を訪れる。そして「東洋」に関する過剰な思い入れ(たいていは無知と裏あわせ)から、完全に傾倒してしまう人も少なくないらしい。豪州で教育を受けたマレーシア華僑が、やはりエライ感心のしようでおかしかった。我が相棒は残念ながらそれほどお育ちが良くないので、20秒で飽きたらしく、勧められたナゾの薬茶を見て「その茶、飲むなよ」と広東語で私に命じた。

白沙村から三輪で玉峰寺へ向かう。てっきり門まで付けてくれると思っていたら、大変なでこぼこの小道を玉峰山の下の小村まで連れていってくれて、ハイお終い。仕方なく30分ほどの登山となる。

玉峰寺は万朶山茶(万の花をつける椿)で有名。花の季節は終わっていたが、奇怪な枝振りの椿の巨木はおもしろかった。寺はチベット仏教で、本尊も脇侍も中国風とはちがっていた。ここは空気がいいのか水がいいのか、まつぼっくりが長さ20センチ直径10センチほどもあり、びっくりである。

CITSのワゴンに便乗(10元/一人)、麗江まで帰ってきた。CITSの職員の一人が摩峻族の女性で、歌を歌ってくれたがほれぼれするような声と声量であった。 摩峻族の歌い手というのは、北雲南では有名らしい。


1996/05/22
体調がすぐれず、休む。夕方、食事のために世界遺産にも指定されている旧市街へ行き、TOWER CAFEとやらで親子丼を食す。誰が教えたのか知らんが、良くできていた。8元。石畳の美しい市街を散策する。麗江布のマフラーを買い、風呂に入って早々に寝る。
















1996/05/23
6時半起床。本日の課題は洗濯と両替。両方済ませた後、9時半のバスで石鼓へと向かう。2時間ほど。石鼓は金沙江ぞいの納西族の小村である。金沙江は長江の重要な支流の一つで、金沙江はここでぐぐっと見事にヘアピンカーブしている。よってここを長江第一湾と称す。

またここは急流の金沙江がめずらしくゆるやかに流れているところなので、古来渡し場として有名だった。古くは蜀漢の諸葛亮孔明が雲南征伐の時にここを渡り、またフビライ・ハンも雲南を攻めるときにはここを渡っている。新しくは1935年4月23日、賀龍将軍率いる中国工農紅軍第二方面軍が長征の途中でここを渡っている。って看板をそのまま書き写してるだけ。賀龍将軍ってだれや? あとで相棒に聞いてみよう。

石鼓という名は、太鼓に似た丸い石碑から付けられたもの。この石碑は16世紀頃に麗江の土高という納西王が、蔵族(チベット族)と戦って買った記念に、1561年に作られたそうだ。

しかしこの石鼓、石碑と金沙江以外何も見るべきものがない田舎である。見るべきものが無いのは別にいのだが、帰りのバスが無いのは困ったさん。本日は定期市が立つ日らしく、坂の上の道いっぱいに出店が出ているのでそれをみて時間を過ごす。

能舞台のようなものがあり、中国のほかの地方では見たことが無いので興味深かった。なにに使うのだろう? 演劇? 人形劇? または演説台?








古い木造民家が多く、面白い。一軒の民家が、門神として関羽と張飛のセットを張っていた。門神は普通は秦涼(玉へん)と尉遅恭が多く、関羽と張飛なんて見たことない。

などと時間をつぶすも、バスは来ない。仕方なく、バス通りまで出て待つ。空気カラカラのかんかん照りで、とても日向には立っていられない。別に空腹ではなかったのだが、飯屋にへたりこんで麺を注文。そしてゆっくり食べた。バスはこない。食べおわって、ビールを頼んだ。バスは来ない。客が立て込んできたので店を出た。バスはこない。駄菓子屋でアイスクリームを買って店先にへたり込んだ。バスはこない。水を買って飲んだ。バスが来た! 喜び勇んで走って行くと、麗江行きではなかった。戻ると、さっき座っていた所には別の人が座っている。バスはこない。

・・・とかしているうちに3時間半後、バスが来た。よかったなあ。

麗江に帰って3週間ぶりに自宅へ電話するも、誰も出ない。10分おいてまた電話。誰も出ない。くそお、また二人で仲良くゴハンでも食べに出とるなあ。仕方なく友人Kに電話。うちに電話しといてもらうよう頼む。

さて、宿代を前払いすべくフロントで順番を待っていると、大理で有金を全部とられたとか言って同情を引いてきたオランダ人がいた。食事時なのでとりあえずおごってやることにして、食事がてら話を聞く。ドミで寝ている時に同室の旅行者に取られたようだ、食事もできなくて困っているとオランダ人フランク・デ・ローイ、ゴハンを5回もおかわりしたが、外弁(外国人弁事局/外人対応専門の役所)の知人に話つけたるわと相棒がカマをかけると、とたんにそわそわ落ち着きがなくなった。おおかた、私が日本人女性なのでマヌケだと判断して声をかけたのだろう。まあ、私ってお育ちよさそうに見えるしなあ(<言っとれ)。で、今まで何例ぐらい成功してるのであろうか。


1996/05/24
朝7時10分のバスで寧浪へ向かう。日本人の女性が二人乗っていた。バスは案の定見事な破車(ひどいボロボロの車)で、永勝を経由して寧浪に到着したのが4侍。私はぐうすか眠っていて知らなかったのだが、麗江盆地を出てすぐものすごい峡谷を走り、あまりの危なっかしさに相棒は震え上がっていたのだそうだ。

私が目を覚ましたときには永勝の一つ手前の盆地で、青い山々に囲まれた中に一面の水田が広がり、美しく装飾された家々が点在する集落を抜けるところだった。家の造りから判断して、ここと永勝は漢民族の集落らしい。

さて、寧浪はイ族自治州。永勝を抜けると、途中経過した村もイ族の集落が多かった。女性はイカのような形の、黒い布を張ったでかいでかい帽子をかぶり(中に板でもはいっているのか、棒でもつっかえてあるのか?)、長袖の上にベストを着て、縦シマ模様の帯をしめている。スカートは細かいひだが無数に入ったくるぶしまであるロングスカート。切り替えが二段入っていて、真ん中と上下の布の色が違う人も多い。老婆たちは40センチほどもありそうな長い長いキセルを吸っている。

男性はほとんど民族衣装を身につけていないが、黒い服に黒いズボン、黒いターバンに黒い帯の老人を2度見かけた。相棒が言った。「"黒イ"や。」黒イとは何ぞや?

やっとこさたどり着いた寧浪はめちゃくちゃ暑かった。同行の日本人女性が30分歩いただけで日射病らしき症状を訴えたぐらいだ。我々は「中暑(日射病)にはビール!」の合い言葉通り、明日のキップの手配も後回しに、とりあえず飯屋でビール瓶をかたむけた。飯屋の従業員に話し掛けるも、そこの従業員ときたら全員見事な四川語しか話せなくて、向こうはこっちの言ってることがわかるのだが、その返答が我々には全く聞き取れない。そこで、通訳をしてくれたのがなんと客のイ族の男性。彼はでかいでかい碗で麺を食べながら、ゆっくり私たちの相手をしてくれた。私は先ほどの疑問を口に出してみた。「黒イ」とは何ぞや?

イ族には黒イと白イの別がある。これは部族や住んでいる地域による区別ではなくて、社会的な地位、つまり階級による区別なのだという。黒イは貴族、白イは平民に当たる。解放前のイ族は奴隷制社会の段階にあり、白イは平民といっても売買の対象であったので、史学的に言えばやはり奴隷である。馬一頭と女一人がほぼ等価、男は4〜5人ぐらいだったそうだ。子を産むほうが価値が高いというのは、鶏といっしょである。

イ族の本拠地は四川なので、成都でイ族関連の文献が手に入るだろうか。

飯屋で教えてもらった通りに明日のキップを手配、小さな宿で早寝をする。


1996/05/25
昨日よりもっとひどい破車で、座席は砂だらけ。彼は勇ましいうなり声をあげて、急な坂道に突っ込んでゆくのだが、悲しいかな馬力が全く足りず、時速5キロ出てる〜? ぐらいの人より遅い速度で、数ある山をやっとこさ越えてゆくのであった。

濾古湖へは70キロを5時間かかった。

湖は想像していたよりずっとずっと美しく、私は満足だ。海抜2,690m、透明度は11mである。かすかに打ち寄せる湖畔の水はうす青く透き通っていて、小魚たちが泳いでいるのがはっきり見える。大理の湖で泳いでみたいとは思わなかったけど、ここでなら泳いでみたい。子供たちが素っ裸で泳いでいた。

対岸は四川省である。

濾古湖周辺には摩峻族という納西族の支族が住んでいて、母系性社会を保持していることで有名である。完全な通い婚が残っていて、男性は夜だけ女性のもとに通うという。子どもはすべて母親に養われ、財産は女性から女児へと引き継がれる。摩峻語には「父」に相当する語がなく、母親の本に通ってくる男性(単数とは限らない)はすべて「叔父さん」に相当する語で呼ばれる。

彼らの言語は納西語と近縁関係にあるが、納西語ほどは漢化していない。摩峻語の表記にはチベット文字が使われる。宗教としてはチベット仏教を信仰しており、バター茶を飲む・タルチョをあちこちで見かける・石を積んだ塔が村の周辺に多いなど、かなりチベット文化圏に属するという印象が有る。

ただし、女性たちの服装はチベット族とは大きく異なっていて、むしろイ族に近い。頭にはターバンを巻き、数珠状のかざりと大きな房を片側に垂らしている。チベット風のえりの上着に、縞模様の帯を巻き、ひだの入ったロングスカートをはいているところはイ族と同じである。ただし、スカートの切り替えは一ヶ所のみで、色も白ばかり。切り替え部分には赤い線が入っている。脇の下まで届くような長い長いイヤリングも、イ族とは異なっている。


1996/05/26
対岸にモンゴル族(フビライの雲南攻めの帰りに置いてきぼりを食らった兵士の末裔)の村があるらしいが、今では言語・習慣ともに摩峻族に同化しているそうなので、行くのはやめにする。なにしろ馬で一日かかるっていうし。

村にはレストランが一軒もなく、食事に非常にこまる。なんとはなれば、宿の女主人の料理の腕がもひとつなのであった。おまけに朝、窓から外を見ていると、湖に造ったいけすの横で宿の下働きとおぼしき少女が洗剤を派手に泡立てて洗濯、いけすの魚が全部腹を見せて浮いてしまった。女主人がそれに気づいて魚をすべて厨房に回収。本日はきっと魚料理の夕べとなると予測されたが、相棒と二人でぜったい魚だけは食べないでおこうと確認し合う。

静かな村、静かな湖を散策して日が過ぎる。


1996/05/27
さらに奥地にある、摩峻族の中心地、永寧へ向かう。永寧はイ族自治県なので、こんな表札つーか看板を見かけた。漢字にイ文字のふりがながふってある。呪術用などではなく、実用文字なのだろうか?現在でも使用されているのか?








チベット仏教の寺がひとつあり、かなり大規模なのだが坊さん(耳が遠い)と作男が1人づつしかいない。耳の遠いお坊さんと必死に会話すると、文革前には700名からの僧侶がいたという。


寺を出ると、雨が降り出した。見る間にざざぶりになり、寒い寒い。帰りのバスが運行を中止したので、不本意にもこの寒村に一泊することになってしまった。宿を探すもロクなのがなく、長いこと換えてなさそうなシーツをめくるとわらを編んだベッド。しかし、他に選択の余地がある訳でもなく、仕方なく眠る。夕食は抜きである。







1996/05/28
朝食をとれるところも見つからないまま、8時のバスで永寧を離れ寧浪へ戻る。本来ならば寧浪で悠々と夕食をとれる筈だが、昨日の雨で道がひどくぬかるんで安全運転を強いられているところへ、崖崩れで道路が埋まっている個所が途中あり、復旧作業のためさらに一時間ほど足止め。皆お腹がへってイライラしているところへ、乗客の1人がおごそかに言った。

「インスタントラーメンがダンボール一箱ある。」

相棒が「湯は!?」と阿呆なことを聞き返したが、あるわけないだろうが。たちまち乗客から注文が相次ぎ、ラーメンの持ち主は買い付け時の原価を記したメモ帳をう〜んと眺めながら、非常にリーズナブルな価格でラーメンを小売りした。アイツはきっと漢民族の商人じゃないぞと、相棒が妙な感動をしている。我々も2袋づつ購入。私はベビースターラーメンを思い出しながら食べた。

永寧到着。食べて、ビール飲んで寝る。

1996/05/29
麗江へ戻る。本日のくそったれバスと来たら、バスターミナルから出るなり、いや、まだ出切ってない、尻がまだバスターミナルの敷地に引っかかっている状態でさっそく故障。そのまま頭を道路に突き出した状態で2時間40分の修理に入った。

・・・・・・・・・・・・・・・・・ <歯噛みをする音。

しかしその分運転手も気が焦ったらしくがんがんとばし、昼食時間も半分にしてとばしまくったせいで、5時過ぎには麗江に入ることができた。行きと違って今回は私も眠っていなかったので、相棒が繰り返し語った例のキョーフの大峡谷をしっかり見ることができて震え上がった。中国の運転手というのは、内輪差ということを余り考慮していないのではなかろうか。それと、坂を降りるときにギアを空にするのはやめて欲しいです・・・

麗江賓館にチェックイン。夜は納西古楽の演奏会が開かれる夜なので、早速聞きに行く。20元。5年前と違って風情のある古い民家の中庭ではなく、彼ら自身の練習所とおぼしき場所での室内演奏であった。見覚えのあるおっちゃん(納西古音楽会会長の宣科先生である)が出てきて、英語と中国語で説明をしてくれた。両方とも難なく聞き取れるようになっているのでちょっとうれしい。5年前は中国語は全くだめ、英語も半分ぐらいしか聞き取れなかったものなあ。

灯りが消えて音楽が始まった瞬間、5年前と同じように鳥肌が立った。荘厳な調べ。にもかかわらず、隣の中国人ときたらずっとしゃべってるのだ。シンガポール人の団体も半時間遅れで入ってきて、やはりしゃべるのであった。おもわず注意しちゃったよ。都市部の知識層はまたちがうんだろうけどなあ。


1996/05/30
本日は洗濯日。昨日は4日ぶりのシャワーでしみじみうれしかった。

1人で旅行中のイスラエル人にはしみじみいい奴が多い。団体行動中のは百発百中で最悪だとしみじみ実感。さしさわりがあるのでもう書かない。ああ、しみじみ。


麗江は四川省にかなり近いので、こんな屋台も町に出る。からーい味のついたスープに、串にさした具をさっとくぐらせて食べる。麻辣鍋という。















戻る■ ■進む