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漢蔵混住の地、中甸・馬幇の里、徳欽



1996/05/31
7時のバスで中甸行きのバスに乗る。バス上で、夕べ用意しておいたジャムぱんと干しぶどうパンをぱくぱく食べ、お腹一杯になったのでくうくう寝てしまう。途中、時々頭を上げて景色をみると、山の中には花がたいそう一杯咲いていて、見事な眺めであった。バスが速度を出して走るのでじっくりとは眺められないのだが、白・ピンク・紫のつつじのようだ。

標高があがるにつれ木々の背は低くなる。小中甸を越えたあたりに、地面を這うような背の低いつつじが一面に咲き乱れた高原があり、見たこともないような光景だった。白い大降りの花は夾竹桃だろうか、薄いピンクのもあった。それから黄色い、小ぶりのダリアに似た高山植物。花の好きな相棒はとても機嫌が良い。

またしてもくーすか眠り、目を覚ますともう中甸市街地。バスターミナルで降り、チベットホテルを目指す。人民解放軍OBのチベット族経営の宿。2階のダブルベッドの部屋が30元であった。

さっそくゴハンを食べに行く。中国人は牛をこう区別する。黄牛・水牛・[女乃]牛・毛牛。毛牛はほんとは牛へんに毛だが、フォントがない。そしてこの毛牛が、牛の中では一番美味いとされているのであった。日本語では「ヤク」ですね。

大理の喜州から来ているイスラム教徒の店で毛牛料理にありつく。普通の牛より肉が赤く、食べてみると軟らかい。紅焼牛肉と紅焼内臓、芹と香菜と牛肉のいためもの、キャベツと大根のおつけもの、ゴハンどんぶり2杯で18元。

しかし、標高3300mだけあって空気が薄い。少し歩くと息切れがする。とりあえず無理をせずに眠ることにする。5時半頃までぐうすか眠り、再び外出するも田舎なのでもう店がみんなしまっとる。宿に帰り、宿のレストランでフレンチフライズなぞをもそもそ食べ、本を読んで日記を書いて、10時半、消灯。


1996/06/01
起床。本日は中国の子供の日、子どもがみんな一張羅を来ていてかわいらしい。チベット族の少女たちはおでこにビンディーみたいなのを付けていて、側頭部でみつ編みをしている。ほっぺたも赤く化粧していて、みなお稚児さんのようである。

この子供たち、ほんとは前から写したかったのだが、チベット風の晴れ着を着てる子だけ撮るわけにも行かず、人見知りする子供たちのようで、みんな並ばせて撮るのも撮れそうになかったので、やむなく後ろから。スッゴイかわいかったのでとても残念。







松替林寺まで歩く。5キロちょっとの道のりであるが、標高と登り路のせいもあり、ややつらい。途中の景色はばつぐんであった。広がる高原になだらかな丘。丘の向こうにそびえる雪山・高原にはチベット族の集落が点在し、人々が日本の鎌のような短い柄の鍬で、腰をかがめて畑を耕している。どうして柄をもっと長くしないのかなあ。







さてチベット寺。ラマだらけ。ラマというのはたいてい日焼けしていて(高地は太陽光線がきつい)体格が良く(肉食をするから)、とくに若い衆は何することもなくブラブラしている人が多いので、信者ではない私からするとめっちゃ俗っぽい感じがする。声もでかいし、ゲハゲハ笑ってるしなあ・・・などと思いながらあるラマの右腕を見ると、「O.K.!」と刺青がしてあった。

OK!ってあんた・・・。そこで私は納得した。この人たちは「和尚さん」ではなく、「比叡山の僧兵」なのだ。だからこんなにいっぱいいるのだな。きくと、この寺のラマは600人ほどだという。その僧兵たちがまた手に手にボートのオールのような木製の棒を持って階段を上がってゆく。武器かなあ?と思いながら私たちも登ってゆくと、上では本殿の修理をしていた。

本殿は木で骨組みを組んだ後 れんが(恐らくは日干し煉瓦)を積み、その上に泥を塗り、最後に漆喰を塗った上に絵や模様を描くという工程でできているかと思われるのだが、ラマ僧たちは何かの事情で窪んだ部分に岩をくだいて撒き、水をかけてさっきの棒で突き固めているのだった。えいえいおうーという感じでがんがんやっているのを見て、おいおい、底はぬけへんのかと心配になる。

そうこう見物していると、片目の悪い若いラマがやってきて、「ハタ」を知っているかと声をかけてきた。ハタとはマフラーのような長い(多くは)白い布のことで、これをを客人の肩にかけることによって歓迎を現すチベット系民族の風習がある。私はピンときて相棒の顔を見たが、相棒が嬉しそうなので仕方なく付いてゆくことにする。

案内されて部屋に入るとラマたちが何人もいて、私たちに白いハタを一本ずつかけてくれた。この部屋は68歳の活仏の部屋なのだという。活仏はただいま本堂で礼拝中。かわいいチベタンの女の子も何人かいて、チベット仏教は確かダライラマの属する教派以外は妻帯が許されていたはず、この女の子達も大黒なのかな?

さて、このラマたち、ほとんどは見事なぐらい漢語が話せないのであった。何歳?とかいつ?という程度の極めて単純な質問でも、いろんな言い方で聞いてみないと分からない。小坊主のころからここで蔵文教育受けてりゃそうだろーなー。ここは行政的には雲南だが、実際には明明白白にチベット文化圏である。こんなとこも中国って言うのは、ちっと無理があるよねえ。

相棒が35歳だというと全員にびっくりされた。このへんの35歳よりはかなり若かろう。私が26歳だというと「身体不錯!」直訳すると「ええ体やな」だが、いったいどういうイミで言ったのであろうか・・・

そのうち相棒のカメラをとりあげていじりはじめたので、あわてて私のを貸してあげた。相棒のはニコンの一眼レフ、安物だが彼にとっては宝物だ。別のラマは相棒のサングラスを気に入って離さない。そして記念撮影。ピースを出すラマ。完全にヤンキー状態のラマ。笑いそうであった。 ↓どーだヤンキー4連発↓





「このサングラスは中甸で買ったのか?」冗談ではないぞ、それはレイバン。「いくらだ?」この辺の平均月収の三倍ほどするのである。返ってきたときにはサングラスの鼻あてが大きくゆがめられていた。相棒が「いくらやったかなあ、忘れたなあ。」と答えながら必死で鼻あてをもとに戻す。カメラを貸さなくてよかった、よかった。

そうこうしているうちに、ついに、というかやはり、請求のときが来た。「そのハタは一枚10元だ。」さらにおかしいのは、「中甸で買ったら一枚11元なんだよ。」と何度も付け加えること。そらきたなあと相棒の顔を見て笑うと、蔵族姑娘たちもクスクスわらっていた。

我々は20元献納して部屋を出た。相棒はまだサングラスの鼻あてと格闘をしている。

昼兼夕食を、町に一軒しかない羊肉館で食べた。この辺のチベット族は羊肉を食べないそうだ。(家畜はヤクのみ。チベット族農家では、気を付けて観察した限り鶏も見なかった。)だから、この店で食事をするのは外地人ばかり。

経営者は楚雄から来たというイ族の一家で、またもや黒イとか白イとか言う話になったところ、自分は「紅イ」だと言い出した。言葉が涼州イ族とは全くちがうんだそうだ。服装も、女性はあの黒いイカ帽子をかぶらないのだと言って、イトコの女の子の写真を見せてくれた。あっさりした苗族のような衣装である。石林のサニ族もイ族の一支系だというから、それに近いのかもしれない。

食事後、少数民族の言語に関する本と、牛に付ける鈴を買って帰った。


1996/06/02
本日は休息日。昨日、丘の上の寺まで往復したピクニックのせいで顔が焼けて痛い。気温が低いので日焼け止めを塗り忘れたのである。

この宿はスターTV(衛星放送)が見られることがウリのひとつなのだが、1)中文台 2)MTV 3)スポーツ台 4)BBC のうち中文とBBCのニュースチャネルが本日から見られなくなった。あさっては6月4日やし、自主規制やなあ。MTVも香港で見てたやつとはちがって、インド系。英語とヒンディーで踊りくるってます。


1996/06/03
碧塔湖へ日帰りで行くことにする。ジープを包車して200元。アメリカ人の男の子、フランス人のじいさんの4人でシェア。

碧塔湖一帯は自然公園になっており、その入り口まで中@から25キロ。ただし舗装されていない岩だらけの道なので、ジープ以外の車は行きたがらない。ジープで舌をかみそうな振動に絶えつつ1時間半。馬の方が早いかも。

さてチケット8元、外人20元、アメリカ人の男の子がカンカンに怒っている。そりゃそうだよなあ・・・、お気の毒。入場すると納西族とチベット族混成の馬幇(馬子)が寄ってきて、馬に乗るなら湖まで往復40元、外人50元だという。外人二人が外人料金にぷんすか怒っており、乗らないという。私も40元は結構高いなあと思い、とりあえず歩いてみることにした。元謀で落馬しかけた経験があるので、ちょっと恐かったせいもある。

しばらく歩いてブッシュにさしかかり、歩きづらくなってきたところへ馬幇が35元と言い、私は乗ることにした。標高3300m、やはり運動はツライ。

乗ってよかった。山あり谷ありせせらぎありぬかるみあり薮あり。道が悪くて馬は駆け足にならないので、落馬の心配はなさそうだ。しかも私の乗ってる馬は特別おとなしく、決して小走りにならない。馬幇がいうには馬にももちろん性格があり、先頭を勤める馬はおとなしく他の馬の後ろを歩くことができず、反対に私の乗ってる馬のような性格では、先頭に立つことができずにすぐの後続に道を譲ってしまうそうだ。

外人二人も、悪路にあきらめて乗馬。

私の馬がどうにも遅いので、私が重いから遅いのかと尋ねると、「そんなことはない。この馬は300キロまでは乗せられるんだ。オレが見るところ、アンタは重くても100キロぐらいだろ?」だと!そんなにないぞ!!!

楽しく馬に乗っていると、草原に出た。相棒は早速馬にムチをくれてとっとと走り出した。あわてて私も追う。草原には馬やヤクが放牧されていて、やはり羊はいない。草原の終わりに小屋があり、馬幇が休憩!と叫んだので馬を下りた。小屋の中ではチベタンのじいさんがヤクミルクを煮立てていた。一杯2元。安くはないが、浮いてる油をみてもしぼりたてで、中@の町なかで売っている水で薄めたやつとはみるからに味がちがいそう。飲欲(そんな言葉あるのか)をそそる。

実は同宿のシンガポール人が、ゼッタイ飲むな、下痢するぞと忠告してくれていたのだが(彼の兄さんは下痢で寝込んでいた)、「ちゃんと沸騰してるし〜」「飲みなれない人は普通の牛乳でもお腹こわすんやし〜」と自分に言い訳をしつつ、結局二杯ずつ飲んだ。たいそう濃い味で、実においしかった。そして我々のお腹にはなんの異変も起こらなかった。

さて、ヤクミルクもおいしかったし、さあ進もう!と立ち上がると、「馬はここまで。湖まで行きたかったらあと5元」と言い出した。くっそぉ、やられた〜。馬を下りた我々の負けである。ヤクミルク爺が湖まではあと1キロというので、歩くことにする。

ところがこれが大間違い。1キロどころではない上に、山を一つ越えるハメとなり、たいそう辛苦な道のりであった。フランスじいさんが「いや、普段なら、こんな山、たいしたことは、ないのだが、さすがに、これだけ標高がたかいと、酸素が、薄くて、キミ、分かるだろう、いやあ、ふだんなら、こんな道、私は山歩きが好きだからねえ・・・しかし、これだけ酸素が薄いと・・・」と、いつまでもくどくどと言い訳がましくしゃべり続けてくるので、「黙って歩いた方がラクなんちゃう?」と喉元まででかかった。

このじいさんはさっき馬から降りたときも「いやあ、私はヨーロッパではジョッキースタイルの乗馬にしか慣れていないものだから、こういうマウンテンホースにはちょっと戸惑ったよ・・・」などと笑かすことをほざいてくれたのである。乗馬する階級の人種には全く見えんぞ。こっちが東洋人やと思って無茶なはったりをかますんではない。

峠を徒歩で越えているときでも、ずいぶん遅れて後ろの方から私を呼び止めて、「キミの靴と私の靴はいっしょじゃないかね?」「・・・違うと思いますけど(全然違うやんけ)」「どこで買ったのかね?」「香港です」「メーカーは?」「Hi-tecですが。」「聞いたこと無いなあ、スペイン製かね?」「・・・」待ってほしいなら待ってほしいと素直に言え、フレンチじじい。

峠を越えると、再び草原に出た。草原の向こうに美しい湖が広がっている。湖畔にはバンガローがいくつか建っていて、またこのこうるさいフレンチじじい、「こんな美しいところにこんな醜い建築物を建てるなんて! こんな不格好なものを! 実に残念だ!」と大仰に騒ぎ立てるのでうんざりした。完全に西洋風に建ててある木造のバンガローである。キミの国にこういうバンガローが無い訳ではなかろう。西洋人に中国人の感性をバカにされる筋合いはない。

こやつは要するに東洋人をバカにしたいだけなのだ。この手の白人は実に多い。いい年してるんだから、それを表に出さないだけの洗練を早く身につけるがよい。このフレンチじじいは、昔香港のドミに長居をしていたころの同室だったジャーマンじじいを思い出させる。タイで働いているそうだが、アメリカ文化のことを「ミッキーマウス的な」「極めてミッキーマウス的な」とけなしまくり、返す刀でアジアをちらりちらりと皮肉るのだが、言葉の端々に自分の回りの世界に対する鬱屈と、有色人種への救いようのない蔑視がうかがえて、慄然とさせられたものだ。(ドイツ人だしネ。)

別の同室のイギリス人の男の子が「不愉快にならんのか」と聞いてきたことがあった。「友人という訳でなし、一時的なルームメイトなのだから、態度と行動が紳士的であれば私はかまわない。あの歳で、こんなとこに泊まってあんなこと言うタイプを相手にしたってしょうがないでしょ」と答えると、彼は「それが東洋的なやり過ごしかたなのかなあ」と肩をすくめた。

湖の淡水魚をスープにしてもらい、昼食とする。湖の回りの潅木に花が咲き、湖に落ちる時期には、この魚は食べられないそうだ。花に毒があり、毒に免疫を持つ魚がそれを食べるからだという。


1996/06/04
外国人には開放されていない徳欽に行くことにする。正確には、公安の許可を得てツアーに参加すれば行けるらしい。現在、ここから雲蔵(川蔵?)公路を通ってヒッチでラサに入る外国人が多いため、取り締まりがちょっと厳しいらしい。見つかった場合の罰金が一日あたり70元だか90元だかというウワサがとびかっている。

7時20分、中甸出発。3時20分到着。途中の景色が見事であった! 道は舗装なしの土路だが、バスが新しいせいで比較的乗り心地よし。あと一時間ぐらいで徳欽に着くという地点で、この道はもっとも海抜の高い峠を通過する。海抜4000m強。そこから標高5640mの白茫雪山が見事に見渡せるのだ。バスの運転手が車をとめて「休息芭ー、休息!」と我々に下車を促した。おかげで雪山を心行くまで眺めることができた、なんて粋なはからいだろうか。運転手さんは自分もジュースを一本あけて、雪山の良く見える斜面にどっこらしょと腰をおろした。

15分後、バスは再出発。ほどなく徳欽到着。徳欽は山の斜面沿いに開けた小さな小さな町であった。平らな土地が全く無い。

さて、宿探し。普段なら田舎では通常最も大きな宿、政府招待所を目指すのだが、なにしろ我々はこっそり来ている外国人なので今回はそういうわけにはいかない。個人経営の民宿をあたる。チベット人家族経営の宿、居間には素敵なチベット家具があり、ビンボたれのくせに家具好きの私は目がハート型になった。で、今夜の部屋はは4人部屋25元と安いがトイレがなく、道端にある公衆トイレ(キョーレツな汚さ)まで用を足しにゆかねばならない。しかしゼイタクはいっとれん。



目的の梅里雪山を目指すも、出租汽車(タクシーや白タクや運転手付きレンタカーなど)が全く見当たらない。政府招待所に聞けばあるんだろうけどなあ・・・しかし公安に通報されて一巻の終わりである。仕方なくその辺の車やオートバイなどに声をかけまくり、最後に緑色のサイドカー付きバイクに声をかけたところ、「行ってもいいけど・・・」やたっ!

で、値段交渉。乗合バスだとそんな短距離では乗せてもらいにくく、よくて1人10元ぐらいと聞いていた私は、往復30元でどう?と言ってみた。するとそのハンサムなチベタン兄ちゃんは、「うーん、それじゃあ、今とりあえず行ってみて、天気が悪くて良く見えなかったら明日の朝もう一度行ってみるというので30元でどうだい?」と、夢のような提案をしてくれた。我々に異存のあろうほどもなく、さっそく横と後ろに乗せてもらう。





雲が多くて雪山の全貌が見えづらく、時間的に逆光で写真を撮るにはツラかったが、しかしやはり期待通りの美しさであった。

この山は

この山は地元のチベット族にとっては信仰の対象で、シーズンになるとふもとをめぐる巡礼が途切れないほどだという。これらの話をするとき、チベタン兄ちゃんの漢語はかなり訛っていて私たちには聞き取りづらく、何度も聞き返しているうちに彼は万年筆を取り出して手のひらに聞き取れない単語を書いてくれた。その字が(彼の普通語の発音と比較すると)見事な達筆だったので、「達筆だね〜、中甸でもこんなうまい字を書けるチベット族はなかなかいないよ〜」と思わず誉めると、「仕事が仕事だからなあ」と彼は照れたように言うのであった。

「仕事?」と聞き返すと、彼は黙って手のひらに書いた。「公安」 う・・・こんなに注意深く公安を避けまくっているというのに、ナゼだ・・・なんで寄りによって公安をヒッチしちゃうのだ、我々は・・・。動揺を必死で押し隠す私と相棒であった。

「ではこの緑色のサイドカーは・・・?」「うん、公用車。」(がーん・・・)「ほら、こんなのも持ってるよ。」と、上着のすそをあげて見せてくれたのはなんと拳銃。(がーんがーんがーん・・・<まるでさぶいシャレのようだが)

にわかに言葉少なになりかけた私と相棒であったが、それもマズイと思い直し、このへんの住民がラサへ巡礼に出るときの準備などの世間話を続けてやがて帰途についたのであった。


1996/06/05
天気非常に悪し。全天暗雲垂れ込め、今にも降りそうである。朝から昨日の公安にいちゃんに、今日はやめとく、と言いに行く。天気が良くなったらいつでもおいでと言われる。

相棒は公衆トイレで用(大きい方)を足す気になれず、山に中へ場所を探しにゆく。しかし、いい場所にはどこもすでに先客の落とし物があり、笑ってしまう。なお本日の相棒は全ての用を外で足していた。

トルコ石がとてもたくさん売られている! 大小あわせて10個購入。陶器のビーズもあり、その店で糸をもらっておそろいのネックレスをつくり、二人でかけた。また、ここの名産は「冬虫夏草」、略して「虫草」。渋澤龍彦の本で読んだことがあるやつだ。これは漢方薬としてとっても貴重らしく、二つ一組で4元ぐらいする。相棒は15対も購入、言うとくが私は食べへんで。

結局、天気の余りの悪さに行ってもムダだと判断した我々は、昨日の公安の人にお礼を言ってすぐ寝た。本日はこれで終わり。


1996/06/06
7時出発のボロバスで中甸へ帰還。途中のチベット寺から、マレーシア華僑の男の子が乗ってきた。英語がばりばりうまかった。うらやましい話だ。


1996/06/07
朝から市場でヤクミルクを1.5リットルも購入。二人でまずは500mlずつ一気のみ。相棒は問題無かったが、私のお腹かキッチリるーなうった(お腹を壊した。)。昼のバスで麗江へ。途中の景色は見事というか、悲惨というか・・・見事な自然と、それが見事に破壊されつつある様子と・・・

中甸は漢民族と蔵民族(チベット族)が混住する地帯。チベット文字の春聯があって、なんだかほのぼのさせられた。福建省泉州では、回族民家の門にアラビア文字の春聯をみたこともある。みんながこんなに仲良く出来たらいいなあ。

麗江にてR嬢に再会、相棒を寝かしつけて一晩語り明かす。中甸でこっちから声をかけてよかったなあ。


1996/06/08
大理へ出発。MCAへ行くも。ドミがぎっちぎち。なんでも、台湾人が1人で8人部屋を包房してるのと、白人が3人で7人部屋を包房してるのが原因とか。このホテルはドミ代で儲けてる訳ではなく、客がレストランに落とす金がメインであろうから、そういう客ばかり続くと商売あがったりであろう。とりあえず空いてるベッドをドミのすみっこにくっつけて入れてもらって、眠る。

昆明で会ったK嬢と再会。瑞麗からミャンマ行きルートは、ミャンマサイドの問題で閉鎖されており、仕方なく引き返してきたんだと。ゴハン食べて、寝る。


1996/06/09
日曜だが銀行が午前中だけ開いているというので両替。昆明行きのチケット手配してプールサイドで貸本を読む。相棒がまたしても放し飼いの鶏を入手してきたので、スープにして食す。6時半にK嬢と夕食の約束だと言ってあったろうが。案の定K嬢との会食では我々はなにも食べられず、日本酒を飲みながらK嬢の食事を見物という失礼な事態となってしまう。しかし、放飼いの鶏は美味いなあ。

店ではおおたか静流の「花」がかかっていた。無理を言ってCDを借り、近所のテープ屋でダビングしてもらう。以後この曲は我々の旅のBGMとなった。向かいに座っていた男の子が飲みさしの酒をそのままに、突然走っていって一時間ほど帰ってこない。飲み逃げかと思いきや、郵電局まで走っていって、ガールフレンドに国際電話してきたのだと。「1200元かかった。」と、実に嬉しそうに語る彼。若いなあ。

白人カップル、ドミでやるのはやめてくれ。

1996/06/10
大理から昆明へ。11時間。途中で6件の交通事故を目撃。一台のバスなどは、腹を見せて池の中に突っ込んでいた。えれえこった。雨がひどく、道を迂回した個所が1個所、二車線のうち1.5車線ぐらいががけくずれで埋まっているところが1ヶ所あった。

茶花賓館へ行くと、ドミは空いているが香港人は中国人だから泊まれない、とぬかす。じゃあツインを取るいうと、外国人料金でなら泊まっていいという。

おもわず広東語でフォーレターワードが出てしまう私であった。R嬢が我々に残してくれたメモをメッセージボードからひきちぎって、茶花を去る。R嬢は所要時間30hの夜行バスで南寧へ向かったそうだ。タフなお人よのう。

古巣昆湖のドミに投宿。

1996/06/11
雨が続く。昨夜同室のO氏、非常に若く見えるが結構なおトシのはずとヒソカに踏んでいたら、やはりそうだった。O氏自身からどう思うかと話を振られて、「60年代以前にに青春をお過ごしでしょう」と控えめに答えたら、ばっちり。なんと御歳59才ということであった。1939年生。それって父より年上ではないか!わっかーい!!! ご職業は「水商売」とのこと。私の感じでは美術教師かジャズ喫茶のマスターのような印象である。知識も教養もありげな人であった。

本日同室は韓国人二人。内1人が漢語ばつぐんにうまい。しかも留学経験なしだという。どーやって勉強したんだ。韓国では短波ラジオは違法だという話(北韓のスパイとみなされるため)などを聞き、隣国に関する知識の無さに我ながら恥ずかしい思いをする。

さて本日の同室はほかにイギリス人男が1人とスペイン人女性が二人。このイギリス人がタチが悪く、瑞麗でK嬢に言い寄って断られたあげく(当たり前)、一晩中彼女の部屋のドアを蹴り続けたといういわくつきの男であった。お行儀も悪く、熱い熱いポットのお湯をいきなり窓から下へ(通行人は・・・)ブチまけて我々を驚愕させたり、人の洗濯物を次々と床に落として自分のを掛けたりと、要は体力のある電波系。本日は韓国人二人および我が相棒と非力ながらも男手が3人居るので、あきらめて就寝。

1996/06/12
韓国人二人が去った。K嬢がイギリス人におびえることはなはだしく(そりゃそーだ)、なんとか部屋を替わりたいという。服務員のおばちゃんにイギリス人の言動を吹きまくると、気の毒がって空きベッドを調べてくれた。3人同室の空きはなく、1人+2人となる。K嬢の部屋は同室が全員日本人となり、K嬢、安心。

我々の部屋は4人部屋。日本人男性+カナダ人男性が同室である。カナダ人と少し話をする。少し常軌を逸した所があるよーなのでケーカイ。なんでこんな変なガイジンばっかりあたるねん。帰ってきた日本人男性T氏と話をすると、ゆうべこのカナダ人は昨夜一晩中、本日の相棒のベッドに寝ていたアメリカ人女性に繰り返し誘いをかけており、そのたびに「気違い!近寄んないでよ!」と怒鳴られては自分のベッドに戻り、またしばらくたつと「ワーオ!」と叫んでは女性のベッドに行き・・・ということを繰り返していたという。アメリカ人女性はT氏からめざましを借りて、今朝早くチェックアウトしたそうだ。かさねがさね、なんでこんな変なガイジンばっかりあたるねん。

昆明には行くところもあまりない上、雨ばっかりで嫌になる。晴れ間を待って、老街へゆく。道の両側に二階だての古い建物が並び、1階部分にはすべて何がしかの店舗が入っている。昔は食べ物屋が多かったが、今回行くとめっきり減っていた。あちこちに「析」と大書された紙が貼られている。とりこわし予定なのだ。もうすぐこの往時の雰囲気を残す通りはきれいに取り壊されて、あとにはタイル張りに青いガラスの中国の最近風のビルに街に生まれ変わるらしい。高さと色とデザインをあわせて建築されたこの美しい木造建築たちも、細かい意匠をほどこされてずらりと並ぶ2階部分の窓の手すりも、全部なくなってしまうのだ。 惜しいなあ。北京の瑠璃廠の用に観光用にでも保存するほうがお利口に思えるが。しかし外人の我々には惜しみつつ眺め歩くしかなく、端から端までゆっくり流した。途中、甘い黒砂糖入りの焼餅がおいしかった。米線(米の粉で作った細いうどん)にはついうっかりスプーン一杯分の山椒を入れてしまい、唇の周りまで痺れて感覚がなくなった。でもやはりうまかった。

1996/06/13
変なカナダ人が去り、空きベッドに彼女に国際電話1200元のSくんが入ってきた。

1996/06/14
こないだ買った短波ラジオの入りがいいのでうれしい。夜、同室4人で食事。帰りに市場ですいかを発見。皆たらふく満腹にもかかわらず、吸い寄せられるように選んでしまったのが7.5Kg玉。重いので交代で持ち帰り、机の上に置くとそのデカサにしみじみほれぼれしてしまい、意味もなく愉快になる。私の愛刀VictrinoxのPicnicerでまっぷたつにすると、見事に赤く熟れており、真ん中がきれいに中落ちしていた。味の方もちょっとなかなかお目にかかれない、一流のすいかであった。

1996/06/15
昆明最後の夜。外文書店で普通語の俗語についての英語のパンフレットを発見。珍しかったので買おうと思い、値段を見ると270元!ペラペラの、パンフレットみたいな黒白印刷の本であるが・・・。

同室T氏、同窓であった。大学のマークの入ったノートに日記をつけてたのだ。物持ちのエエ人である。





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