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1996/06/29 天水到着は5時半ごろの予定だが、5時前には服務員にたたき起こされ、枕・枕カバー・シーツ・毛布・タオルケットの有無を確認させられる。相棒なんか「そこの若いの、タオルケットを探しなさい」と、「若いの」扱いされる始末である。北方語ではこれがフツーなんかい。 さて、駅から15キロ離れた市中心までミニバスが出ており、昼間は一元、夜間は2元であった。我々は荷物代を5毛/個とられた。バスターミナル付近でおろしてもらい、建新飯店にチェックイン。まだ6時にもなっていないのでフロントが無人であり、宿直室で寝ていた服務員を起こしてチェックイン。(ごめんね。)相棒の回郷省だけを登記したので誰も私を日本人とは知らない。なんだか変な気分だ。 とりあえず寝直す。9時過ぎ起床。麦積山へ行ってみる。 まずは宿からミニバスで北道站へ。そこでバスを乗り換えて麦積山まで5元。北道からしばらくの道のりは、景色は黄色く乾いていたのに、麦積山に近づくにつれて山に緑が濃くなってくる。そして麦積山の周辺は、緑滴る見事な風景となった。麦積山というのは、山の形がこのあたりで麦を収穫後に積んだ「麦積(まいちー)」の形そっくりなところからきたそうで、その「まいちー」が小麦の取り入れシーズンらしく、あちこちに積んであった。 さて麦積山でかかった費用は二人合わせて64元。意外とかからなかったなあ。 ミニバスで麦積山に向かうと、途中に「麦積山風景名勝区」というゲートがあり、そこでチケット6元なりなりを購入せねばならない。内訳は入場料5元と保険料1元。甘粛省では保険ビジネスが発達しており、外国人がホテルや交通期間を利用する際には7日なり15日間なりの保険を購入することを義務付けている。なんでも、けっこうな額らしい。(私はまだ外国人とバレていないので購入していない。)どこの外国人が事故の後にこんなところで保険がおりるまでじっと待つかって―のだ。 チケットが6元と聞いて意外な安さにびっくりしたが、そんなはずはないのであった。このチケットは麦積山見学用チケットではなく、地元の公安が観光客からとくに理由も無く勝手に徴収しているもの。石窟を見学するチケットは石窟の保護・修復・参観などを管理している団体からさらに買わなければならない。甲票25元・乙票10元。甲票はガイドつきだが10人まで集まらないと出発しない。外国人料金が無いのはオドロキだが、甘粛省には見所が他にもいっぱいあるから、外国人観光客はここまでこないんだろうな。来ても日本人ぐらいだと思う。 それにしてもここで払う10元なり25元なりは、少なくとも石窟の保護に役立つわけだし、石窟の価値から行っても安いほうだと思うが、さっきの6元は公安どものポッポにナイナイというわけで全くの捨て銭、納得いかんよなあ。 麦積山には手ぶらで行くことをおすすめする。入り口にてすべて預けさせられる。その際、かばんをあけて中を見せるよう命ぜられるが、素直に見せるとカメラひとつにつき2元を徴収されるので要注意。相棒がカメラとビデオ、私がカメラで計6元である。誰も預かってくれなんて頼んでないし、だいたいもしそっちで紛失しても弁償してくれるはずなんて無いのだ。相棒のはニコンの一眼レフにソニーのビデオ、私のバカチョンだって実はカールツァイス搭載である。先進国では普及品だが、ここでは管理人の年収よりまだ高いと思います。 すったもんだの挙句、結局金だけ払って持って入る。が、中になぜかもう一度手荷物強制預かり所があり、相棒のカメラバッグはついに預けさせられることとなった。すでに学習済みなので中を見せろといわれる前に「カバンひとつね、ハイ2元」と素直に預け、私のカメラはポケットに押し込んで持って入った。 麦積山石窟はなかなかよかった。こっそり写真も撮ってきた。しかし記念撮影屋がどっさり中にいて、この人たちの生活を保護するために手荷物預かり所は厳密に運営されているんではないかとも思った。 夜。天水の思いがけない一面を発見。中央広場の夜市がすごいのだ。商店と食べ物の屋台が分かれており、屋台のほうがよりどりみどりだった。蒸籠に入った排骨と回鍋肉、韮と骨付き肉の炒菜、干豆腐と肉の炒菜、ごはんとスープがしめて12元と安い安い。それから麻辣湯串、うー! 1996/06/30 朝6時のバスで臨夏へ向かう。しかし、バスターミナルでいくら待ってもバスは来ない。私たちと同じバスを待っているのは白い帽子をかぶった回族のおっちゃんばっかりで、この人々がまた、見事なぐらい漢族とは違う顔立ちなのであった。彫りが深く、目が明るい茶色で、南方(広西とか福建泉州とか)で見かけたベタな顔(漢族とかわらん)回族とは全く違う。髪もひげも、なんだかくるくる渦巻いてるしなあ。 バスは7時を過ぎてやっと来た。しかし、ここがバスターミナルで始発のはずなのに、なぜか客も荷物もどっさり乗せているのであった。謎。とにかく乗りこみ、外国人の振りをして(<外国人やって)、運転席後ろの眺めのいい席に陣取り、荷物も席の周りに上手く固定してさあ出発!と思ったら、さっきの回族のおっちゃん&おにいちゃんズがサンタクロースのように巨大な袋をひとり二つ三つぐらい抱えて乗ってきた。袋はでかい割に何やら軽そうだ。席はもうひとつも残っていない。回族集団は袋をドアのあたりに積み上げ、ホウ!ホウ!と掛け声をかけながら、袋の上に勢いよく寝転がった。袋はクッションのように柔らかく、彼らはポンポン跳ね上がりながらホウ!ホウ!と高い声をあげている。分かった。袋の中は刈ったばかりの羊毛だ。 7時半、ようやく出発。朝5時版起床の私はすぐにぐーすか眠りに落ちた。 8時半ごろ、回族のおにいちゃんの歌う、歌詞は全く聞き取れないが何やら哀調をおびた民歌で目を覚ます。というか、真後ろで歌われたのでたたき起こされる。高い高い裏声を使った歌い方で、一節一節の最期は消え入るように低くなって終わる、実に旅情をそそる歌で、それをひとりひとりが入れ替わり立ち替わり輪唱のようにつなぎ、また時にはグレゴリオ聖歌のように何人かで声を合わせて歌ったりして、それだけで鳥肌が立つぐらいの贅沢な瞬間だというのに、気がつくと窓外にはさらに黄土高原の大峡谷が360度にわたって広がっていて、もはやどんな言葉も無力でしかない。世界にはまだ私が見たことのない風景がたくさんあって、それらはみな私に見られるのを待っているのだ。 歌詞は即興で、あんたたちのことも歌ってるよと、漢族の男が教えてくれた。見知らぬ若い旅人が、自分たちの土地を旅しているという内容だそうだ。方言なので私たちには全く聞き取れない。が、しかし、なんという贅沢。 9時半、第一の通過点、甘谷を通過、絶壁に巨大な塑像仏があり、その手のひらは8人が乗れるサイズなのだという。 バスは所々で忘れず故障を繰り返しながら、夜7時半、臨夏西バスターミナルに到着。臨夏飯店にチェックイン。バス・トイレなしのツイン、なんと共同シャワーも無しというツインが60元もしてびっくり。相棒が広東人のふりをして値段交渉にあたる。半額まで下がったが、登記時に香港の回郷証を出すと、香港人は40元と、何の根拠もなく気分で決められてしまった。 しらんぷりんこして部屋へ行こうと思ったが、私の身分証も要求してきた。日本のパスポートを出したらまた高くなるなあ。とりあえず香港のIDカードを出してみる。小姐はなんの疑いもなくID番号を登記して返してくれた。おお、これは使えるぞ。 というわけで臨夏に1泊。ここは完全に回族の町で、道行く人々のほとんどが頭にふち無しの白い丸い帽子(男性)・黒いレースのベール(女性)をかぶっている。回族以外には、回教徒のサラ―ル族とパオアン族が住む。 1996/07/01 昼食を臨夏で食し、2時のバスで夏河へ。9元。しかしながらこのバス、個体戸(個人経営)であるため、時刻表どおりにバスターミナルから一旦出るものの、その後満足できる数の客を集めるまで街なかで客を引いて廻り、結局臨夏を離れたのは3時過ぎとなった。 臨夏を出てしばらくは小麦畑が広がっているのだが、標高が上がるにつれて毛の長い青裸麦(ハダカムギ)畑が多くなってくる。青裸のほうが耕地での栽培に向いているんだそうだ。また、遊牧チベット族の主食がこの青裸の粉末を、バター茶で練ったツァンパである。 夏河は海抜2700m、盆地を取り囲む周囲の丘は3000mを越える。バスは3時間ほどで夏河に到着、降りるなり輪タクに取り囲まれた。どのホテルが安くて評判がよいのかよくわからんので、とりあえずバスターミナル向かいの友誼飯店に行ってみた。さて、フロントの価格表はバス・トイレつきツインが外国人120元・中国人60元、トイレつき共同シャワーのツインが外国人60元・中国人30元であった。相棒、昨日と同じく価格交渉にレッツトライ。 バス・トイレ付きを50元で。相棒、おそるおそる回郷証を取り出して登記。小姐、香港と中国の違いがよく分からなかったらしく、没問題。ラッキー。 しかしこの町、見事なぐらいめし屋がなく、口に合わない物は本当に食べられない相棒が途方にくれる。私は味と栄養は別と割り切れる方である。単に食い意地が張ってるとも言う。さて、回族料理屋には炒菜がないし、蔵族(チベタン)は料理の方面の才能には残念ながらあまり恵まれてない。(「解放」前のラサの金持ちは、みな漢族コックを雇っていた) とりあえず見つけた白飯のある、あまり衛生的で無さそうなめし屋で食事、やはりというか美味くなく、しかも高い。もっと歩いて探さねば。 そしてこのホテル、夜、湯が出なかった。なんのために風呂付きに泊まったのか。 1996/07/02 本日も湯が出なければくそったれなので、宿替えを考える。しかし、えらい雨である。相棒がバスターミナルから屋根付きバイクタクシーを呼んできたので、それで町外れの夏河飯店まで。10元。夏河飯店は青裸麦と菜の花畑の真ん中にあり、中国ではこれ以上望みようもないすばらしい眺めと空気のロケーションであったが、なにしろ町の中心まで徒歩で一時間という抜群の便利さである。ちなみに公共交通機関も無し。10元のドミがなければいったい誰が泊まるだろうか。 8人部屋バストイレ付き。ベッドは清潔だが硬かった。相客はおらず、貸しきり状態。夕食をとりに一時間歩く。また一時間歩いて戻ってくる。シャワーを機嫌よく浴び、大量に溜まっている洗濯をして今日は終わり。 1996/07/03 知り合った韓国人の女の子が泊まっている四合院(伝統的な建築の一種)の方が、部屋はともかく風情があるので、そっちへ移ることにする。完全にチベット風の内装で、外側へ向かった窓がひとつもなく、窓はすべて中庭に面して開いている。中庭には田の字に道がついているほかは花と草が綺麗に植わっていて、たんぽぽ・ボタン・アネモネ・ポピーなどなどの花が咲き乱れている。実に目にいい。 しかし同じ24元のツインでも、部屋によってベッドに大きな差があり、ふわふわベッドの部屋はすべて埋まっていて、私たちが泊まったのは昨日と同じ、鉄線ベッドのツインであった。寝てから分かったのだが私のベッド、昨日よりも敷布団が薄く、綿が片寄っていて、寝ると鉄線の一本一本が背中に感じられる…。そしてそれは冷たく、いつまで寝ていても冷え冷えしていてちっとも暖まらない。夏にはいいが、今はセーター着用での就寝が必要だ。 部屋替えのあと、ラプラン寺の参観に行く。チベット仏教の寺はどこも見慣れない仏様がいっぱい並んでいて壮観だ。一番の呼び物は高さ13mの大仏で、清代にか河南省で鋳造されてここまで運ばれたもの。その他、もう少し小型の大仏が3体ましましていた。 チベット仏教の弥勒菩薩は、すべて椅子に座っているという。それって日本も同じだよね。というか、弥勒菩薩を勝手に大腹べんべんの布袋さんにしている中国人のほうがおかしい。あと、観音菩薩は中国人で、地蔵菩薩は朝鮮人とか、勝手なひねりを加えすぎ。しかし、仏像は日本か韓国に限るなあ。(日本人の感想ですね。) チケットは中国人8元、外国人21.5元。なんでこんなハンパな数字なのだろう。払ってないけど。 ラプラン寺の周りには、蔵族・回族が経営する商店が門前市をなしており、仏具専門の回族商店などがあって不思議である。一番おかしかったのは「清真佛学院餐庁」という学食的な店で、イスラム教徒がラマ僧を相手にしている商売だが、外国人向けメニューにPork Chopなどがあって、他人事ながらおいおいええんか!?というつっこみを入れずには済まされない。ええんか、ほんまに。 夜、冷たい冷たいベッドで寝る。 1996/07/04 8時起床。本日は自転車を借りて草原へ行ってみることにする。ホテルで聞くと、「30分」。朝食をとった飯屋で聞くと、「2時間は、いらんやろう」。いったいどうやねん〜。とりあえず走ってみることにする。45分過ぎてまだたどりつけんようであれば一旦停止することにする。走り出してから35分、草原についた。 草原にも門票(チケット)あり、一人一元。別にチケットがあるわけでもなく、門が有るわけでもないが、テントを張ってる蔵族に支払わねばならない。ここで相棒が余計な一言、「草原は国家のものだろう?」などとぬかしてけつかったため、テントのチベタンが怒って「草原は俺たちのものだ」と繰り返して言い、私は冷や汗をかいた。阿呆、相棒、周りの状況をよう見ぃっちゅうねん。こんな無人の草原で、無用のトラブルをおこしてどうするか。おまえは漢族でむこうは蔵族やっちゅうのに、わかってなさすぎじゃい。 漢族には自分たちが少数民族を抑圧しているという意識のない人が多く、また中国人は人種差別をしないということを平気で言う人がよくいてビックリする。意識がないというか興味がないのだろう。中華意識というやつだ。人民元に表記されてる5種類の文字、何族の何文字か聞いて答えてくれた中国人、まだ一人もいない。広西壮族自治区に住んでた頃、鉄道駅名のローマ字表記がピンインじゃなく、あとにzとか付いた不思議な表記になってるがあれはなんなのか、大学教授に聞いても答えられなかった。広西は壮族自治区であるため、あれはピンインではなくて壮語表記なのである。 とにかく、この世に人種差別をしない民族なんて存在しません。みんなします。しかしながら中国人はこのへん意識のない人が多く、いつぞや「香港人は人種差別をしない」と公言した香港人がいて、香港に住む外国人の私としては、あまりの発言に相手にするのもアホらしかった。「香港人はコスモポリタンだから〜」ってなニュアンスでの発言なので、ちゃんちゃらおかしかったっす。バスや地下鉄ででインド人の隣の席が最後まで埋まらないのはナゼかとか、気がついてみたこともないのだろうか。「香港人特有の不用意なレイシストジョーク」という言い方を、アメリカ人がするのを聞いたことがあるので、私だけの感想ではなかろう。 ま、それはそれとして、私が「チベット人にああいうことをいうのはやめろ。彼らは「中国人」じゃないんだから。」と相棒に言うと、相棒「ここに住んでる限りはチベット族だって中国人だ。」だと。あ〜あ、基本的な認識が違う。 「誰が好きで中国人にされてるねん」と言うと、「あいつらは野蛮だ」と全然違うことを言い出すので、「そういう言い方だったら中国人だって十分野蛮やで」と思わず言ってしまった。相棒はチベタンが人の見てる前で平気でのぐそをれるたとことかを見てずいぶんショックを受けててそう言うんだろうが、それは文化習慣の違いであって、中国人でもなくチベタンでもない私にとっては、青天下ののぐそも、ドアも敷居もないニーハオトイレも実はあんまりかわりません。そりゃ私だって、あちこちのぐそが落ちてる村(めし屋への行きかえりに必ず通るのだ…)を歩くのはやだし、現在進行形でのぐそをおたれになってる人々の横を通るのはもっとイヤだけどさあ。しかもあの人たち、用便後に紙なり水なりで始末をしている気配が一向に見当たらない。って観察するなよアタシ。 それより自分とは考え方とか常識とか違う人々がいるということを認めないことの方がよっぽど野蛮でしょうが。特に我々のように文化習慣常識を共有してないカップルにとってはそれってほとんど死活問題だと思うが如何。しかしね、文革の時にひとの民族の寺を破壊しまくって、でも宝物だけはキッチリ持って帰ったほうの民族が言っても、説得力ないよ、それ。 などなど、という話をぐじぐじする。景色のいい、空気の澄んだ、早春の野花の咲き乱れる高原を散策しながら交す会話ではない。 ま、しかし同時に、こういう教科書的な、いかにも元教師的な建前にとらわれずに、自分の感覚にもとづいてダメなものはダメと言えることも重要だとは思うけど。のぐそはやっぱりやめたほうがいいよな、公衆衛生上。だから漢民族も痰を吐くのもやめましょうね(<だいぶ減ったよね)。そして日本の酔っ払いどもよ、街中での立小便をやめなさい。 ぐじぐじ。草原は綺麗だった。チャリでチャリチャリ帰る。帰りは下りなので25分。 隣の部屋にドイツ人が入ってきた。スキンヘッドのドイツ人、でき過ぎやん。漢語ばつぐんにうまく、6年も北京に住んでいるという。香港人と日本人のカップルがなんで北京語で会話してるねんと聞くので、共通語がそれしかないからと答えると、彼のお姉さんがロシア人と結婚してて会話が英語なんだそうだが、それといっしょやなと言われてしまった。そういうものか。 雲南省からラサへのルートが今ふさがっているということを話していると、88年にそのルートは通ったことがあるとの話であった。昔は公安のチェックも甘かったそうだ。今回は夏河から合作を経由して南下、四川省へ抜ける予定だという。いい人である可能性1割、悪い人である可能性9割、話をする分にはおもしろい人であった。普通の人の可能性は無し。 1996/07/05 10時20分のバスで臨夏へ。ボロバスなので時間がかかるかなあと心配していたが、道が下りなので速い速い。結局あちこちで客を拾った割には3時間で臨夏についた。行きのミニバスは9元、帰りのでかバスは7.7元であった。 銀行で両替。中国銀行の壁に手書きのお知らせが貼ってあった。10元は蒙・漢、5元は蔵・回、2元は維・イ、1元はトン・ヤオ、5角は苗・壮、2角は布依・朝鮮、1角は高山・満。そうなのか。知らなかったよありがとう。 あんまりおなかも減ってないので、そのまま蘭州へ行く事にする、バスターミナルの待合室で、夏河で着こんでいた冬服を脱いでしまいこんでいたら、頭のおかしい人がやってきて、私のミネラルウォーターをゆっくり奪いとって飲み始めた。むちゃくちゃクサイ人であった。私と相棒はべつに相手をしなかったのだが、バスターミナルの服務員が何かカンカンに怒っていて、ほうきで彼をばんばんにぶんなぐって追い出していた。人間がああいうふうにぶんなぐられるのを見るのはなかなかないことである。 蘭州到着。郵電局から香港のおば宅へ電話するも、相棒の新しいパスポートはまだできていなかった。(後日談:この電話のなんと翌日に申請成功という知らせが入ったそうだ。タイミング悪し。) 蘭州飯店へ向かうべく、市内バス停を探していると、老夫婦が我々の様子をじっとみて、どこへ行くのかとたずねてきた。市中心か蘭州飯店と答えると、じゃあ、ミニバスを止めてあげよう、バス代は1元だからそれ以上払っちゃいけないよと、わざわざ通りに出てミニバスを止め、バスが蘭州飯店を経由するかどうかわざわざ車掌に確かめてから乗せてくれた。どういうことだ、ここは本当に中国か!? 車掌さんは固い補助席にバックパックごと座ってる私に柔らかい席を勧めてくれ、蘭州飯店についたら絶対に教えてやるから待てと念を押し、首尾よく蘭州飯店の向かいで降りた後も「蘭州飯店はあっちだ」と、何度も窓から指示してくれた。いったいどういうことなのだ!? 「文革前はこれが当たり前やったんや」と相棒が言うが、文革前はキミまだ学齢期じゃないでしょーが、見てきたようなことを言うな。だがしかし!変わりつつある中国。むむう、ものたりない。<なんやそれ。 ところで蘭州飯店はドミトリーをすっかり廃止しており、一番安い部屋がなんとUS$40。こんなド田舎で何が米ドル建てじゃボケ〜と、さっきまでのいい気分をぶっとばしつつ別のホテルを探す。火車站前の迎賓飯店、外国人用のドミは無く、ツインでバストイレ付き、24時間ホットシャワー保証で80元。湯の魅力に負けてチェックイン。 1996/07/06 劉家峡ダムに行ってみたく、市内の旅行会社を何軒かあたるも、季節が悪く水位が低くて、どこも船は出していなかった。残念だがあきらめる。五泉山公園などを散策する。 ホテルから少し北に歩いたところにある東西に伸びる小路が、実は夜市であることを発見。シシカバブだけでも3種の異なったものが売られていた(漢族好み・回族好み・ウィグル族好み、らしい) 今回は新彊まで足を伸ばせないので、せめてウィグル人の屋台で食べていたら、5歳ぐらいのめちゃくちゃかわいい女の子が店を手伝っていた。色白の肌に真っ白のドレス、真紅のウィグル帽。お人形さんのようである。 1996/07/07 朝からチケット手配。銀川行きのチケットがすんなり手に入る。恐れていた甘粛省外人交通保険はこれで購入せずに済んだ。うはははは。夏河で会ったドイツ人は一日分40元やと言うてたもんなあ。 夜9時35分の列車なので、昼のチェックアウト後することがなく、駅に荷物預けて街をぶらぶらする。百貨大楼最上階の本屋で立ち読み。三毛の「随想」を購入。横書きの簡体字で読むとまたちがった感じ。本屋を出て道をぶらぶらしていると、シマリスの子供が道端で売られていた。実は臨夏でも夏河でも売られていた。阿呆な私は欲しくて欲しくてたまらなかったが、いかに阿呆な私でも、シマリスを連れて旅をするのは阿呆の極みの振る舞いであることはよく分かっている。しかしながら私の阿呆ぶりはある種の水準を上回っているらしく、またNOと言える妻とNOと言えない夫という組み合わせも不幸して(<幸いしてという言い方はあるがこっちはあまり聞かない)、ついに阿呆なことに5元でちびリスを購入。われながらアホや… くるんと丸まると、彼は鶏の卵ぐらいの大きさとなり、私のシャツの胸ポケットですんなり眠りに落ちた。ううう、かわええ・・・。大理で買った藍染めの巾着袋が、今夜からは彼の棲家である。 シマリスを飼うのは小学生以来。命名・ちびぞう。ちびぞうはほんとうにちびなので、ひまわりの種も自分でむくことができず、私がむいて砕いてやらねばならない。なんてこったい、うれしいじゃないか。アホか、私。 |