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銀川西夏王陵・内蒙古シラムレン草原



1996/07/08
銀川到着。込み込みのバスで旧市街へ。寧夏飯店北苑でツイン50元と言われ、さっそくチェックインの手続きをするも、一人50元だと言われてがっくり。私をロビーに残して相棒が安いホテルを探しに行く。

ほどなく、輪タクをつれて帰ってきた。銀川飯店ではバストイレ共同のツインが50元。部屋は広く、意外な清潔さで、ベッドもシーツも真っ白であり、椅子もTVもついている。心配していたシャワールームもこましであった。なかなかヨロシイ。さっそく寝る。すると、大きな道路に面しているせいで、車の騒音がかなりうるさいことが分かった。何事もそうそう完璧というわけにはゆかんもんである。しかしとにかく寝台列車がうるさくてよく眠れなかった分、ぐうぐう寝た。

昼過ぎ、起床。うるさくて結局よく眠れず、二人とも不機嫌。食事に出るも、さすが回族自治区、漢族用の、つまり炒菜と白飯を出すめし屋が行けども行けども見つからず、ますます不機嫌になる。あきらめて清真めし屋で麺と水餃を食べるが肉が硬い羊肉しか無く、おまけに両方ともとてつもなく辛い。不機嫌が極みに達する。

百貨店の多い街だ。この街のどこにそんな購買力があるのだろう。シャンプーが蘭州より安かったのでさらに不機嫌になる。<もはややつあたり

夜8時ごろホテルに帰り、ちびぞうとちょっと遊んでぐったり眠る。


1996/07/09
八時起床。10時間以上寝たことになる。風呂に入り、朝食にあずきと小米のおかゆとあずき包子を食べ、博物館へ。私自身はせっかく銀川に来たのだから西夏王陵を見たくて仕方が無いのだが、交通手段がなく、バカ高いツアーに参加するか、タクシーをチャーターしていくしかないのであった。ちなみにツアーは西夏王陵のほかに沙湖という観光地と紅高粱を撮影したと言う映画村の3箇所を回って一人120元。私は西夏王陵だけでいいのだあ〜。

相棒はあんまり高いゼニを払ってまで西夏王陵とやらには行きたく無さそうだ。つーか、「西夏」って、知らんみたい。姜族系タングート族の、200年にも満たない周辺国家など、中国人にとっては些細な歴史事項なので知らんのも無理はないのか、それともやはりこやつが知識分子にはほど遠いからなのか…

でも私にとっては中学生の頃に「敦煌」を読んで以来、あこがれをかきたてられていた名詞である。歴史学はセオリーやけど、歴史はロマンですよやっぱり。

さて、博物館は承天寺の跡地を利用して作られていた。承天寺は1050年、つまりまさにこの地に西夏王国があった時代の創建だが、今は塔だけしか残っていない。

博物館5角、文物展示2元、塔へ上るのに2元、チケットはそれぞれ独立していた。博物館は正確には展示室という感じの、小さい小さい部屋だった。見るべきものはただ、ひとつササン朝ペルシャ伝来の銀の壷。外側の彫金がすばらしい。文物展示室では、折りよく西夏王陵からの出土品を展示しており、こちらは量的にもみごたえあった。西夏の歴史や領土の説明、数々の出土品、特に複雑怪奇な西夏文字の碑や書物は、相棒の気をけっこうそそったようであった。

うってかわって下世話なところで、銀川最大のヒットはこれ。「SHANGUO BUBBLE GUM」。三国とバブルガムという響きの似合わなさよ。劉備・曹操・孔明・周愈・呂布・張飛・姜維に司馬昭まであった。しかし、人気者の関羽は先に売りきれてしまったらしく、主君の立場ないぞ劉備。しかもおまけにドラゴンボールのシール付きというわけのわからなさ。ひとつ0.25元。

駅へチケット手配に行くも、当日と前日の分しか売らんといわれ、すごすご引き返す。私たちが乗る予定の列車は朝6時発なので、前日にしか買えないという事だ。なかったらどうしよう。

食事、高くて不味い。


1996/07/10
タクシーと交渉。西夏王陵の主用地点を2箇所めぐって3時間で60元と話をつける。市内からは40分で到着。一面の銀川平原の中に、唐突に土の塔がぽつぽつ立ち並んでいるのは異様な光景であった。思わず鳥肌がたつ。

王陵は高さ15〜20mぐらいだろうか。小さい物は陪葬墓であろう。王陵の周りをゆっくりあるいていたら、カチカチと高い金属質の音がする。足元をよく見ると、石だと思っていたものはすべて瓦の破片であった。こんなに大量の瓦を誰かがここまで捨てに来たとは考えられないから、ああ、そうだ、これは西夏時代の瓦だ、日本で言うと平安中期ぐらい。日本人にとってはたいした昔であるが、中国人にとってはたいしたことないんだろうな。

で、瓦の破片だし―、野ざらしで羊のフンまみれだしー、と自分にいいわけしつつ、3かけらほど拾ってしまった。相棒がそれを見ていい顔をしない。倫理観に抵触するというより、墓のものを持って帰るなんて不吉だというのだ。

第一の王陵から第二・第三のものへと向かう途中、タクシーが未舗装の土路で運悪く穴にはまってしまった。車から降りて後ろから押したり、石をかませたりするも、なかなか動かない。そうこうしているうちに、折悪しく雨が降り始めた。痛いような雨だ。雨の中を押したり引いたりしているうちに、タイヤがパンク。尖った石のかけらを踏んだらしい。相棒が私にさっき拾ったものを捨てろという。強欲な私、捨てない。我ながら絶対に大きい方のつづらを取るタイプだな。

雨の中をタイヤ交換。やっと脱出。皆ずぶぬれになってしまった。さて、第二第三の王陵は第一のものよりもさらに階層の境目がはっきり残っており、総じて好看であった。しかしこの雨の激しさよ。

サルのように元気な相棒は、どかどかと遠くの方まで走ってゆき、私はゆっくりと二つの塔の周りをめぐった。羊と羊飼いたちが王陵の傍らで横なぐりの雨をやり過ごそうとしている。旅情をそそる光景だ。雨はさらに激しく、地面はさらに滑りやすいので足元に気をつけつつ歩いていると、美しい緑色の陶器の破片が目に入った。なんてこったい!

緑色のうわぐすりのもの、そして昨日博物館で見た壷の破片と同種の陶器と思われる茶色のうわぐすりの陶器の破片が散らばっている。さっきの瓦の破片より焼きの温度が低いらしく、金属質の響きはないものの、色合いがとても美しく、うわぐすりの光沢がよく残っている。もとはなんだったのだろう?これも瓦か?

緑色の破片を二つ、茶色のをひとつポケットに入れた。私は帽子をかぶっているが、戻ってきた相棒は水にはいったようにずぶぬれだ。私の戦利品を見て、「この雨は祟りだ、早く捨てろ。」と言う。大きなつづらの老婆、やはり捨てない。相棒が寒い寒いというので、急いでホテルに帰った。

部屋に帰るとちびぞうがひもつき首輪(私の銀のピアス)から脱走していた。ベッドの下、机の下、どこにもいない。ドアの下から逃げたかなあと茫然としていると、私のバックパックの中から「なんですかー?」という顔をのぞかせた。…かわいそうだが、首輪を少し小さくする。

ヒマワリをひとつひとつむいてやるのが面倒なので、今日のごはんはピーナッツ。しかし半分に割って砕いてやらねばならぬのは同じ。おやつは西瓜。私がちびぞうにかかわりっぱなしなので、相棒のご機嫌がよろしくない。嫉妬しとるのだ。うはは。「はよ放してしまえ!」というが、私は知っている。私が寝ているのを確認してから(私は寝たふりをしていた)、ちびぞうを見に行き、座り込んでずっと相手をしていたことを。かわいいやつめ。


1996/07/11
ちびぞうがモモンガになってゆっくりと飛んでいく夢や、子供がちびぞうを盗んだので私が「どろぼう!」と非難している夢などばかりみて、よく眠れない。ちびぞうが脱走することをよほど恐れているらしい。

おととい2日後のチケットは売らんといわれ、昨日の午前中に駅へチケットを買いに行ったが開くのは3時からであえなく敗退。本日市内のチケット売り場に行くも、30分も列に並んだ挙句に「寝台のチケットが欲しければ駅へゆけ」とあっさり言われ、4度目のチャレンジで駅へ行く。チケット手配が難儀な国であることよ。

並ばない中国人に混じって並ばずに突撃。首尾よく明日6時発の列車の寝台を手に入れる。一人77元。

相棒がクコの実を1.5キロも購入。いくら名産だとて何にするのか。私は王洛賓のテープを購入。


1996/07/12
4;45起床。駅で小豆粥(甘くはない)と油条の朝ご飯を一人一元で食べて乗車。乗車してみると、なんと寝台車はガラ空き状態。ところが発車してしばらく経つと、硬座車の方から人がどんどん入ってきた。もともと寝台車にいた青年が私たちに言うには、プラットフォームから寝台車に乗車するには寝台券がいるが、列車が発車してからはわずかな袖の下を乗務員に払えば入れてもらえるのだそうだ。こみこみきちきちで往々にして通路にすら座り場所も無い硬座車より、寝台車はもちろんずっと居心地がよいため、多くの人がこうやって寝台車に入ってくるのだ。

つまり、この袖の下を得るために、駅では寝台のチケットの売り惜しみをしているのである。あっても売らないのだ。

本来のキャパシティを越えて、どんどん人が入ってくるのと、こういう人がその辺で痰を吐き、タバコを吸い、もちろん吸殻を床に捨て、ゴミや西瓜の皮もどんどん床に捨てるので、列車が寝台とは思えないほど汚くなってきた。銀川でチケットを買うとき、3段あるうち下の寝台をリクエストしてそれは結局買えなかったのだが、かえってよかった。違法に乗車してくる人がどっさり勝手に腰掛けるため、下の寝台だと自分の寝台なのに横にもなれない。

この列車の服務員ときたら、間違えて隣の席の舗牌(乗車票・寝台の切符とひきかえにくれる)を与えられた乗客が、自分の予約席は13号で、これは14号だから替えてくれるように頼んだところ、「うるさいなあ、いちいちそんなことで面倒がらせないで!」と怒鳴りつけたので、横で聞いてた私はさすがにたまげた。しかし、ではこの服務員が極悪非道の人非人かというとそうでもなく、迷子になって泣いている子供をあやしながら親を探して車両を行ったり来たりもしていたので、要は私と常識が違うということなのでしょう。

夕方五時、包頭に到着。駅から輪タクで市中心へ。金鷹賓館、バストイレ付60元とリーズナブルであるので、さっそく登記しようとしたら相棒の回郷証をみて、「外賓は接待できませーん。」ここで香港人は中国人だとゴネても、私の登記時にバレたら時間が無駄なだけなので、あきらめて敗退。つーか、仕事したくなさそうな感じだったし。

香港人の立場はとっても不確実だ。時にこのように外人扱いをされ、時に昆明の茶花でのように向こうの勝手な都合によって中国人扱いをされたり外人扱いをされたりする。

向かいの包頭賓館、ツイン118元と強気の値段設定。ふっるーい建物なのに。北方では自費の観光旅行客などまだほとんどおらず、公費出張や発票(レシート)出したら出しただけ、単位(勤務先)が払ってくれるような旅行とかばっかりなので、ホテルなどはやたら高い。市場競争原理が働かないところでは仕方がありませんね。

副楼がやや安いと言うのでそちらへ行き、118元を100元にまでまけてもらって泊まる。相棒、体調を崩し気味で荷物を持っては動けない。


1996/07/13
朝は風呂と洗濯。バスルームが6畳ぐらいあってびっくり。昼から固陽へ秦長城を見に行く。たどりついた固陽はただの田舎で、そこからジープをチャーターして10キロ離れた秦長城へ行く。秦長城旅遊区というブサイクなコンクリート製の碑(秦始皇帝の似顔絵レリーフつき)、その他合わせて三つも碑が建っとるというのに、長城の保護そのものはなんにもなされておらず、悲鳴を上げてしまいそうであった。金と手間の使い方を完全に間違えとる。

ジープは往復30元。運転手はロンパリのモンゴル族。運転しながら、羊と山羊の混合牧について話をしてくれた。羊の群れはそれだけでは自分で動かないので、その場所の草を根こそぎ食べ尽くしてしまうんだそうだが、そこに山羊を混ぜておくと、山羊が群れを率いていい具合に移動するんだと。では羊と山羊は混血しないのかというと、確かにシーズンになると交尾はするが、子供が生まれることはめったにないそうな。生まれても虚弱で成長することはまれで、してもその個体には生殖能力がないのだと。ふむふむ、なんでも聞いてみるもんだなあ。

相棒、風邪がひどく、なんかだまりこんでると思ったら、夜突然すんごいしわがれ声でしゃべり出した。のどが腫れ上がっているらしい。のど用の抗生物質を飲ませて、早めに寝る。


1996/07/14
朝、相棒のおじいちゃん声そのまま。ただし抗生物質はよく効いたらしく、のどの腫れはひいたそうだ。食後、薬屋へ行き、相棒ごのみの漢方薬を2種類買う。そして寝る。私は日記の整理・手紙書き・ちびぞうと遊び・などなど。

午後から私だけ外出。本日はフフホトへの移動を予定していたが取りやめ。百貨大楼へゆき、新華書店で辞書類を購入。相棒のリクエストで日本語の文法問題集も購入。餃子とヨーグルトと桃を買って帰る。

このホテル、天井がやたら高いことや、窓がすべて二重窓であること、建物のデザインなどからして、旧ソ連の技術者による設計ではないかと思われる。(そしてそれほど古い。)部屋の床は板張りで気持ちいいが、服務員は3日泊まって一回も掃除にこず、ポットのお湯も客が交換しに行く方式である

夜8時、ホテル向かいで夕食。相棒はだいぶよくなったようだ。

ちびぞう、私に飼われる前まであまりエサを与えられていなかったのだろうか、最初の二日間ぐらいロクにうんこをしなかったというのに、このごろはもりもりする。今はちびだからいいけど、そのうちでかリスになったらうんこの量も比例して増えるんだろうな。


1996/07/15
朝11時のバスでフフホトへ向かう。2時過ぎ到着。バスターミナルの横が駅だった。ホテルを探そうと、通りがかりの白人に安い外人用ホテルはないかと尋ねると、なんだかひどく取り乱している様子で、「もちろんある。今帰るところだからつれていってあげよう・・・あ!」なんじゃらほい。「君たちは中国語は話せるか?」「ええ」「じゃあ、僕の切符を買ってくれないか? 外国人はCITSへ行けと言って売ってくれないんだ。」「いいけど、いつのどこ行きの何席がいいの?」「なるべく早いやつ、今日でもいい、北京行き、希望は硬臥・軟座・軟臥・硬座の順」

結局明日朝イチの硬座しか買えなかった。CITSの手数料は一枚40元だそうだ。硬臥なら北京まで200元ぐらいなので、40元の手数料は確かにばかばかしい。(2万円のチケットにプラス4000円が手数料という感じか。)

そのフランス人に新城飯店へつれていってもらう。ドミ40元とあまり安くはないが清潔。4人部屋で同室はスウェーデン人の女の子二人。北欧人らしく、東洋人のスタンダードからするとあられもない格好でくつろぐので、相棒がいたたまれないらしく、小さな声で「明日、ホテル移ろう…」

ホテル探しに出るも、駅行きのバスが30分待っても来ず、ようやくやってきたときにはドアがしまらないぐらいの超こみこみ状態だったのであきらめてホテルに帰る。ホテルのレストランで食事。おかず3品(うち一品は内蒙古らしく羊肉のごろごろスープ)、ごはん2杯、ポット一杯のおいしい茉莉花茶で25元。ごちそうであった。これを見てもCITSの手数料がぼったくりであることがわかる。ホテルの食事二人分より高いんですよ。

9時、風呂に入るも頭を洗い終えたところで湯が水になり、終わり良ければすべてよしというが、終わりが悪ければすべてダメなのだろうか?


1996/07/16
8時起床。9時すぎに朝食を取りに外へ出るも、適当な店が無く、西瓜を購入して朝食とする。1斤5毛なり。

洗濯。重労働だ。早めの昼食後、博物館へ行くとしまっており、草原ツアーから帰ってきたら引越ししよう!と探したホテルはツインでバストイレ付52元とすぐ見つかっちゃうし、草原へ行くのにツアーバスじゃなくて公共バスはないかとバスターミナルへ行くといっぱいあるし、駅でチケットは買いやすいかと下見に行くと、香港・マカオ人には前日前々日の寝台を売る!と、窓口のおばちゃんが断言してくれ、これも問題無さそう。することがなくなってしまった。

で、道端でエボラ出血病の映画「危険地帯」(OUTBREAK)の看板を見つけ、入ることにする。一人6元。字幕全く無しの中国語版というツラサだったが、なんとか楽しめた。前に香港で借りたビデオ、字幕全く無しの広東語版、あれよりマシだ。

夕食を韓国料理屋にて。メニューをどう仔細に分析しても普通の中華だった。唯一韓国らしそうなメニュー「キムチ」を注文するも、絶対にキムチではない漬物に、唐辛子をどっさりかけたやつが出てきて激怒。(<食べたけど) その他のおかずもおいしくなかった。


1996/07/17
どうして朝6時からスピーカーいっぱいの音楽をかけずにいられないのかあああああああ。ラジオ体操とかならともかく、昨日はマンダリン台湾ヒットメドレー、今日はなんと一昔前風ディスコミュージックである。

でっかい蚊をつかまえてちびぞうにやったら、とびついてはぐはぐ食べた。

9時ごろチェックアウト。バスターミナルから召河行き11時半のバスに乗る。召河とはシラムレンの草原があるところ。81キロに3時間かかった。バスを降りて、民宿の客引きをかわしつつ政府招待所へ。草原を鉄条網で囲み、中にきちきちにしつらえられた蒙古包が180元というすんばらしい値段設定、食事は30元の定食のみ。

あきらめて民宿を探す。同じような蒙古包が30元。

馬に乗る。一時間20元。相棒の間抜け、身の程知らずにも馬を全速力で走らせ、さっそく落馬。すぐに立ち上がったのを見てほっとしたが、腰を強打して出血している。運動神経の鈍い方ではないのだが、なにしろモンゴル馬、いままであちこちの観光地で乗ってきた馬とは勝手が違う。

草原を馬で行くと、馬の足元から大きなバッタがキチキチと鳴きながら跳び上がる。目を凝らすと、草原のあちこちで白と茶色の羽根のバッタが無数に跳んでいる。空はあくまで青く、草原はどこまでも緑で、せつないほどだった。


1996/07/18
草原を二時間の乗馬。2時間を甘く見るな。素人にはこれが限界だ。それにしてもモンゴル馬はちいさいくせに扱いづらい。言うこと聞かんし、たいへんな走りたがりで、走らせてやらないと鼻息がふんふん荒くなって、目がだんだん白目がちになってくる。一頭が走り出すと周りの馬も皆つられて走り出す。モンゴル人は小学校に上がる前から馬に乗るそうだが、そういう育ちでないとこの馬はあつかえんよ。

一時間で行けるところまで行き、また一時間かけて帰ってきた。私のお尻は痛いだけで清んだが、肉の全く無い相棒のお尻はかわいそうである。馬を走らせるときには、腰をあげてひざで体重をささえるそうだが、もちろん我々にはそんな芸当はできない。モンゴル族の子供が見本を見せてくれた。彼が腰をあげてひとむちくれるや、白目を剥いた馬は弾丸となって一直線にすっ飛んで行った。ひょええ。

夕刻、フフホトに帰還。通達飯店にチェックイン。しばらく休んで香港へ電話をかけにいくと、相棒の英国海外属土籍の申請が通ったので、手続きの為にさっさとイミグレに来い、期限は7月6日から23日だ!という通達が叔母の家に届いており、23日ってあと5日しかないやん!

この時点で7月18日午後19時46分。

フフホトから直接広州へ向かう列車は無し。我々は当初西安へ戻り、西安から普快で桂林へ行き、陽朔でのんびり通達を待とうとのんきなことを話しておったのだが、とてもそんなことは言っていられない。フフホトからとりあえず北京へ出て、北京から特快で広州へ向かおうという相棒の意見と、そんなことをしていて間に合わなかったらどうするのか、飛行機に乗ろう、という私の意見が対立する。しかし、ここから広州への飛行機だって毎日あるわけではなし、じっとしてもいられないのでとりあえず相棒の意見を容れて北京へ移動することにする。

当日の夜8時に、9時37分の列車の寝台が取れただけで有り難いとしよう。264次普快 フフホト―北京 新空調軟臥は上臥が233元、下臥が243元であった。

列車に乗る前に、酒くさい公安(彼も乗客だ)に「どけ!」と突き飛ばされ、フル荷物だったのでよろよろした。列車に乗ると居丈高な女に「我々は二人連れだがコンパートメントが離れているのでくっついている君たちの席をよこしなさい」という笑うぐらい理不尽な申し出をされて、もちろん丁重にお断りをすると、列車員に向かって「我々は北京市政府の者だが・・・」と同様の要求を始めたので、我々も列車員の前でにわかに英語でしゃべってみたりして外賓であることを強調、事無きを得た。

しかし私の寝台に行くと全く知らん男がぐうぐう眠っており、これはいったいどういうことなのか誰か説明して欲しい。誰もしてくれないから自分でするが、こやつは根本的に寝台のチケットなぞ持ってはいないやつで、コネか袖の下で寝台車に入れてもらい、ずうずうしくもとりあえず空いてる寝台で寝てたと言うわけなのだ。その空いてる寝台というのが不運にもたまたま私の寝台だったというだけである。この列車は包頭発なので、多分包頭からここまで寝てたのだろう。我々が乗車してこなければどあつかましく北京まで寝てたはずである。


1996/07/19
朝10時過ぎ、北京到着。早速荷物を預けると、ひとつ8元もしてびっくり。半日預けて16元か。実はこのとき我々のサイフには20元しか入っておらず、この20元でもよりの外国人接待ホテルへタクシーをとばし、両替しようと考えていたのである。(銀行はまだ両替業務を始めていないかもしれないので) 計画、もちろん挫折。

二人で4元というタバコ銭(しかも安タバコしか買えない)をポケットに、てくてく歩いて両替できるところを探す。幸い、泊り客以外にも両替をしてくれるホテルが見つかり、とりあえず200ドル替える。相棒の予想は北京から広州まで軟臥一人500元だが、私はフフホトから北京まで普快で200元以上したのに、広州までの特快が500元以下であるわけないと思う。

北京駅に戻り、チケット売り場に並んでいると、前の白人が「ここにはない、北京北駅に行け」と言われている。いやーな予感がおおあたり。広州行きのチケット、ここでは売ってない。列車もその北京北駅とやらから始発だ。

どうやって行くのか尋ねると、地下鉄で行けとあごをしゃくって言われた。言われるままに地下鉄に入るも、駅員やら周りの人やらに尋ねても「地下鉄で行ける」「いや行けない」と意見がわかれ、よくわからない。とりあえず言われるままに軍事博物館駅で下車、またまた道を聞きまくって「すぐそこ」「すぐそこ」と言われるも、早足で30分以上歩いても見えてこない。うう。

人間が歩くにはたいそう不親切な設計の道をかなり歩き、1時ごろ、やっと北京北駅に到着。たいそう大きく、新しい駅だが、駅前はご多分にもれず、座り込んで列車、あるいはチケットの発売を待つ人々で一杯である。こんなに無駄なスペースが一杯あるのにどうして候車室を余分に作っておかないのだろう。

外人用窓口に行き、広州行き特快を尋ねると、夜7時、10時ともに満席、0時過ぎの軟臥に空きがあり、買う。これは翌日朝、つまり21日朝8時に広州到着予定である。結構速いなあ。下舗が705元、上臥が675元と、なかなかのお値段であった。

軟臥用の候車室、よく冷房の効いた広々とした部屋に本皮のソファが並び、まさに別世界。中国は階級社会だ。そとでは老百姓(一般市民)がゴミの山の横で地面に横たわり、いつ手に入るかさだかではない列車のチケット発売を待っているのである。

王府井(繁華街)へ行く。麦当労(マクドナルド)で一休み。資本主義のかほりを嗅ぐ。脂っこい匂いだ。長さ40センチぐらいの巨大パン・カップラーメン5つ、桃とトイレットペーパーを購入。軟臥候車室で顔を洗って歯を磨いて、0時、乗車。

さすが広州鉄道管理局の軟臥、清潔でクーラーがばりばりに効いている。同室は広州人のおばあちゃんとその孫、そして鄭州で降りる予定の紳士。


1996/07/20
特筆すべきこと無し。向かいの寝台の祖母と小学三年生の孫二人連れのうち、孫が寝小便をしたことぐらいか。


1996/07/21
3時間遅れで広州到着。駅前の流花賓館に荷物を預け、両替。美心で安上がりなお食事。深セン行きチケットは以前に比べてずいぶん買いやすくなっていて、途中で一度だけ停車する空調付き急行列車の硬座が48元プラス2元の手数料であっさり買えた。香港よりはまだ広州のほうが宿代が安いので、明日朝イチのチケットを購入。で、ホテル探し。

クーラー付き・バストイレ付き・駅の近所・なるべく安いところというバカバカしい条件で探すと、当たり前だがなかなか見つからない。値段で妥協することにして、站前賓館というわっかりやすーい名前のホテル、240元のツインを190元まで値切って妥協。

夜、適当なめし屋が見つからず、四川料理屋で食べたら高い上に不味くて泣いた。食の広州でなんでやねん。


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