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1996/07/22 ほぼ4ヶ月ぶりに香港へ。クーラーが効いているものの、硬座はやはり硬座であった。しかし車内弁当だけでなく、各種粥だのニワトリの丸焼きだの脚の煮しめだのをせっせと売りに来るあたりが食の広東らしくてよろしい。しかもどれも美味い。 途中で一度、平湖というかなり深センに近いところで一回停車したのみで、列車は2時間ちょっとで深センに到着した。広州―深センは48元、手数料が2元、羅湖―九龍が37ドル、で、48+2+(37*1.15)=ほぼ93元。一方直通車は230元である。外人料金が残っていた頃は、(48+2)*2.3+(37*1.15)=ほぼ158元と割高であったため、よく直通車に乗っていたが。 久しぶりの香港、なぜか尖沙咀や銅鑼湾が鬱陶しく、佐敦でゲストハウス(つーか旅社)を探す。バストイレ付き260元で妥協。重慶大廈より高いですね。相棒は叔母の家へメールチェックその他雑用にに出かけ、私は寝た。 1996/07/23 朝から相棒とお役所へ行く。エリザベス女王への宣誓式などがあり、ちょっと笑う。行って判明したのだが(しかし私は予測してたが)、英国属土公民籍がとれたといったって、すぐにBNO(英国属土公民パスポート)をくれるわけではないのであった。少なくとも3ヶ月はかかる見込みだそうで、これは意外に長い。私は日本のパスポートと同じ位はかかると思っていたが、相棒は即日くれると思ってようだ。オロカモノめ。しかし3ヶ月。 夜、とりあえず善後策を寝る、ちがった、練る。 1996/07/24 もいちどお役所へ。BNO発行までにどのくらい時間がかかるのかはイミグレのお役人にも全然見当がつかないそうだ。なにしろ返還前という非常事態なので。但し発行許可通知から実際の申請までには3ヶ月の猶予期間があるのそうなので、相棒と相談の上、東南アジアにでも行って時間をつぶすことにする。パキスタン、いつになったらいけるのであろうか、とほほ。 1996/07/25 相棒、BNOが取れるまでは現行のCI(中国生まれの香港人が使うパスポートのようなもの)で旅行せざるを得ず、あちこちのビザ申請が必要。タイ大使館へ行く。相棒のはあっさり申請できたが、私がダブルエントリーと取るためにはエアチケットの提示が必要と言われた。但し、現在では日本のパスポートだとノービザで1ヶ月滞在できるそうなので、まあいいとしよう。 ワトソンズで15.9ドルのビーサンを購入。マジックテープでバックストラップとかもついてるやつ。女人街でも39ドルぐらいはしてたので、2週間で壊れても惜しくない。タイならこのタイプのサンダルはいくらでも安く売ってるだろうから。 1996/07/26 冬荷物は香港に残し、夏荷物だけで中国に出発。香港税関に「以下のものを香港へ持ちこむと5万ドルの罰金か1年の懲役」という立て札があり、ハクビシンなどの食用野生動物の隣に堂々と「シマリス」の絵があり、ご丁寧に大きく赤バッテンされていた。ちびぞう、キミ、輸入禁止やったんかあ・・・っても、一度密輸入してまた持って出るところやけど。次回は持って帰ってこられないなあ。 中国入国。深セン駅の階段で、駅員が駅弁を売るようにチケットを売っており、そこで広州行きのチケットを買う。手数料5元。窓口では絶対に買えない20分後出発のチケットを入手。 広州キライ。 夕方6時の寝台バスで陽朔へ向かう。3年前と同じ120元だが、以前のベッドが完全に平らだったのに対し、今回のは背もたれがやや傾斜していて、その下に後ろの乗客の脚の部分が重なっている。また、以前は縦に三列で通路が日本あったが、今度のは寝台が2つづつセットになっていて、通路は真ん中に一本だけ。その分乗車人数がずいぶん増えているわけで、これが値上げしていない理由か。 しかし、ベッドがふたつづつセットになっているということは、一人で移動する女性にとってはおおごとである。運悪くタチの悪いおっさんと隣あわせとかなってみい。(私は日本の夜行バスで後ろにこういうおっさんがきて閉口したことがある。)「軟臥の同室がみな男性」状態を上回るイヤさ加減である。 暑かった。広東省を走っているうちは高速道路をスカスカ走っていたが、広西むけての山越えは3年前と同じゴロゴロ山道。神経質な相棒はほとんど眠れなかったようだ。私はちびぞうを腹の上に乗せていたため、そこだけ余計に汗をかきつつ、ぐうぐう寝た。 1996/07/27 早朝のうちに陽朔到着。 とりあえず昼までぐっすり眠る。しかし暑い暑い。ズボンのすそをひざまで折り返し、Tシャツの袖を肩までめくりあげてどかちんのおっさん状態になる。土方焼けもしてるしなあ。 夕方、やっと涼しくなってきたので散歩に出かけるも、涼しくなってきたはず、突然見事な土砂降りとなり、たまたま入っていた服屋の店先に2時間くぎづけ。買わんでもいいワンピースを一着オーダーメイドしてしまう。60元なり。明日の昼受け取り。 1996/07/28 鳳凰の模様の藍染めの布で、ノースリーブ・くるぶしまでの長さのワンピースを受け取り。着ると肩の土方焼けが泣かせるぜ…。そのまま着て帰るとまた雨。藍染めの布はさっそく色落ちが始まったので帰って洗濯。洗面台が真っ青になった。 一日中、雨。 夜、レストランのキッチンを借りて、相棒が鶏まるごとを煮込んだスープと鯉の紅焼をつくった。美味い。私は食べるだけである。 1996/07/29 朝からハンバーガーなど食してみる。12元、高いだけあって美味い。今日も雨。市場でぶどうを買って帰ってくる。 ワンピースは洗ったら早速ちぢんだ。丈がすっかり短くなった。もとがくるぶしまである超ロングだったのが幸いだ。とても着心地が良いので旅の服装計画を考えなおしたくなる。東南アジアでジーンズはどうもなあ。 1996/07/30 雨だ、何もできない。(ごろごろするにはいい口実。) 1996/07/31 晴れた。目のくらむようなピーカン照りだ。土方焼け解消のため、ノースリーブで外を歩くと2時間で肩が真っ赤になった。 しかしあまりの暑さに昼ごろにはとても外を歩けなくなった。街は無人の白昼である。ひなたへ出ると後ろ頭を殴られたような衝撃を受けると言って、相棒はむぎわら帽子を購入。私は竹で編んだうちわを買った。 相棒、ジーンズはだめだ!と叫びつつ、絹のだぶだぶズボンを購入。べろべろしていてとても涼しそう。でも弱そう。パンストみたいにぴっと破れそうな気がするなあ。40元なりなり。 1996/08/01 相棒、つり道具を購入。といっても、糸と針と重りを購入しただけで、竿はそのへんの竹を折ってきただけ。なにやらごちゃごちゃいじっていたが、うまいことくっつけてできあがり。浮きはミネラルウォーターの空き瓶を利用していた。こんなので釣れるのか? 「釣り、したことあるの?」と聞いてしまったが愚問。海っぱた生まれの海っぱた育ちであった。 川べりで釣り糸を垂れると、20分ほどで2匹釣り上げた。ちっちゃいやつだけど。しかし子供が上流から泳ぎ流れてきて、危ないので釣りは中止。明日、誰もいないところでまたやることにしよう。 貸し本屋に日本語の本を発見。早速借りたおす。 ・オイディプス燕返し! ・源内先生舟出祝 ・聖なる夜、聖なる穴 ・カザノヴァ ・文ちゃん伝 ・サヴォイ・オペラ 以上6冊。 1996/08/02 貸しチャリで遠乗り。釣り竿を持って出かける。ついてよく見たら糸が切れて針が行方不明。…ばかばか。予備に買った針は昨日釣りをしたところにキッチリ忘れてきたから、もはやどうしようもない。ばかばか。 水着はないが川で泳ぐことにする。半日泳いで楽しく涼しく過ごしたが、相棒が何時間もねっころがってて何とも無かった川原に、私が2分あがっただけで20数カ所も蚊に刺されるのはどういうわけだろう。 苦悶しつつ、清涼油・萬金油・風油精・皮炎平・白花油と、あるものなんでも塗りたくる。 1996/08/03 そろそろ陽朔をでるころだ。 で、桂林へ列車のチケットをとりにおでかけ。1時間ちょっとで桂林につき、外人窓口(兼軍人窓口)の午後の部が空くのを待つこと30分。なんてこと、あさってのチケットまでもう売りきれ。(中国の駅では一般的にあさってのチケットまでしか売らない) 近来まれにみる混みようであることよのう。軟臥はあったが差額が150元以上する。相棒と相談のうえ、明日朝イチでもう一度並ぼうと合意し、帰る。 百貨店でフロリダ・ウォーター(花露水)スプレーを購入。いい匂いのする薄い白花油という感じ。これを吹き付けるとかき破った蚊のさされあとが激痛にみまわれて、気分ソーカイである。 1996/08/04 朝6時半起床。6時45分にバスターミナルへ行き、7時15分にバス発車。8時半に桂林駅到着、買えた、買えましたよ6日の硬臥中下舗。しかしもともと上中舗をリクエストしたところ、窓口の係員に「要求がうるさいわね、何様のつもり」と信じられないようなことを言われてしまい、一瞬自分の中国語ヒアリング能力に疑問を持ったが、後で確認するとネイティブの相棒もやはりそう聞きとっており、聞き間違いではなかった。買えたからまだマシだが、キップ売りが客に向かって「何様のつもり」なのか、こっちがお尋ねしたい。 早起きのせいか、相棒、鼻カゼ。 陽朔に帰ってきて臥せっている。もう年か。私は1週間分ためていた日記の整理、ちびぞうの世話、そして昨日買ってきた散文集「島人日記」を読む。「島人」というのは、文革期の中国人を、また当時の著者自身の心象を、外界から隔絶された孤島に住む人々に例えた表現。身の毛もよだつ故事でいっぱい。その中で少ししんみりとした話があるので、勉強をかねて訳出してみようか。 1996/08/05 共同シャワールームでなくした指輪、どこにあるかわかった。朝、フロントで今日の部屋代を払ったときに、オーナーの奥さんの手を見たらあった。さすがにややびっくりした。 風呂場は客か従業員しか使わんわけで、そこでこういうものが見つかったら客のもんに決まっとろうが。着服しちゃうことについてはとくにオドロキはないが、拾った翌日からはめているというのは考えなさすぎ・・・。落とし主にみつかるということに考えが及ばんのだろうか。ひょっとすると拾得物は自分のものというのがこの国の常識なのだろうか。ようわからん。 指輪はシルバーの安物で、デザインのポイントである、固定されていないムーンストーンが取れてしまってからは愛着があまりなかったものなので、薬指から小指に移していたのだった。だからシャワー時にはずれてしまったのだな。私としてはこの件の感想は「ま、いいか」であったが、相棒は怒った。私の感想を説明すると、「常識がちがうからどうジャッジしていいかようわからん。もしかしたらこの国、この場所においてはフツーのことかもしれんし。」というものであり、相棒だって相手が全くの異民族(インド人とかカンボジア人とかアラビア人とか)ならそう思うかもしれないが、しかし今回は彼にとっては同族の恥である。 間の悪いことに例の「島人日記」中に、拾得した貴金属を正直に届け出た為に余計な嫌疑をかけられ、文革中に無辜の迫害を受けた人々のエピソードがいくつも載っており、その話を昨夜相棒にしたところ、「中国人の道徳観が崩壊したのは文革以後だ」という持論をもつ相棒から、またその主張を長々と聞かされたところだったのだ。間、悪〜ぅ。 相棒がこの宿をひいきにしてもう8年になるが、おそらく次回は別の宿に泊まることになりそう。指輪の返却は私の希望もあり、求めなかった。 1996/08/06 7時起床。陽朔から桂林へ。駅で水・おせんべい・ビスケット・干したさつまいもなどなどを購入。相棒はパンとタバコも購入していた。 乗車時点ですでに30分ほど遅れており、柳州到着時点でそれは45分となっていた。昆明到着時には何時間の遅れになっているだろうか。 私は下舗、相棒は中舗、上舗はフランス人女性。向かいの上中下舗はなんと新彊から旅行できているという3人家族。いかにも典型的な新彊に住む知識人漢族らしく、気持ちのよい人々であった。見事に躾の行き届いた頭のよさそうな16歳の娘さんに、人のよさそうなお父さん、中国北方系女性には珍しくものやわらかなお母さんは英語ができるひとであった。フランス人女性も交え、話をする。 1996/08/07 6時半ごろ起床。7時ごろちびぞうが脱出を図る。列車は遅れ気味で、2時間遅れで貴州についた後、ゆっくり徐行で安順を経て六枝でなぜか1時間ほど停車。この時点で4時間の遅れ。水道水、飲料水ともになくなってしまい、非常に不便。昆明到着は本来夕方7時だが、列車員の予想では11時ずぎになりそうだ。 その後、対向車を交すために(単線なので)あちこちで停車。列車は12時を大きく回っての到着となった。昆湖飯店ドミのチェックインして眠る。 1996/08/08 朝からラオス領事館(あのにっくき茶花賓館敷地内にある)へ出かけるも、なぜかは分からないがしまっている。本日申請して明日受け取るつもりが、予定が狂ってしまった。土日をはさんでの受け取りとなってしまう〜。昆明でそんなに過ごしてもしょうがないのに。 1996/08/09 ラオス領事館、本日は開いててほっとする。申請費は私がUSD49、相棒はUSD40であった。この差はなんなのだ。いずれも5日間のトランジットビザである。 帰りにサクラ百貨大楼でお買い物。生活必需品や水牛の角の櫛、羊の角のバレッタなどなど。スターチスと小さい百合をを買ってかえり、スターチスでちびぞうをなぶって遊ぶ。ちびぞう、とびついて花をむしる。中の蜜がおいしいらしい。 1996/08/10 洗濯後、ちびぞうと遊ぶ。首輪をはずしてベランダに放してやったので、少しは気が楽だ。また少し成長した。 金龍飯店のスーパーマーケットに行く。欲しい物がどっさりあって困ってしまう。外国製のクッキー、アールグレイのティーバッグが25包で23元、マクスウェルのフレンチバニラ味が16元、おつけものとかつくだにとか豆板醤とかの小瓶がいろいろ、まだ飲んだことのないプレミアム青島ビールの小瓶。結局買ったのはクッキーとちりめんじゃこの豆鼓味の瓶だけ。 ロビーのテレカ電話で日本へ国際電話をかけるも、全然かからんうえに何時の間にかテレカが40元以上も減っておる。怒髪天。ホテルに抗議するも、電話は郵電局の管轄なのでウチではわからんといわれ(それもそうだが)、ではここ中国で郵電局まで行って抗議してなにがどうなるものかというと、どう考えても時間の無駄としか考えられんので、あきらめる。 ちなみにこの当時は中国でテレカが普及し始めてあまり間のないころ。当時は各省ごとにちがった規格のテレカと公衆電話を開発しており、テレカは全国共通ではなかった。また、通話中に2枚続けて使うということができず、少し長時間の国際電話などでは非常に不便だったものだ。公衆電話の故障も多く、テレカを吸いこんで吐き出さない電話や(杭州で電話をかけようとしたところ、電話の脇で新聞を売っていた老婆が注意してくれたことがあった)、私が広州駅前で愛用していたように、いくら話してもテレカ度数が減らない電話などもあった。 1996/08/11 特筆すべきこと無し。つーか、当時の日記帳にこの日の記述がない。相棒の日記を覗いてみよう。 「(太陽の下に雲の絵) AM在街辺的小餐庁吃飯。今天在市里流連、現街上有些鼠輩之類?過路人騙銭、為数足外来客。小販也開始霧売了。此赴三箇月?????、?児只有天?不想。住宿??看来???複雑。蛇鼠之類随処可見会辺人有不大安全感。大衆之素質同以前一様人性極差。」 悪筆のせいで読めないところだらけ。しかしこの内容、この日なんかあったのか?なんか痛い目みたっけわしら? 1996/08/12 朝10時、ラオス領事館でビザ受け取り。私のは普通にパスポートに押してあったが、相棒のは屏風折りになった厚紙であった。パスポートのページが減らなくていいなあ。そのままバスターミナルへ行き、2時発の西双版納行きの寝台バスを買う。RMB161.00也。3年ぶり。しかしやってきたバスは平舗ではなく、神経質な相棒はややしんどそう。 1996/08/13 このボロバス、遅れまくりである。一般的に寝台バスは24時間で到着するはずなのだがドライバーは「うーん、26時間ぐらいかなあ。」 しかし地図と照らし合わせた進みぐあいチェックにより、それは明らかに嘘。途中、すれちがったトラックが跳ね上げた小石がフロントガラスを蜘蛛の巣にするなどの不運も重なり、ようやく到着したのは日も暮れてから。 版納賓館、80元。以前に長居したバストイレ付き24時間ホットシャワーしかもお湯をためて浸かる気になれる程度に清潔なバスタブ付きおまけに花の咲く中庭に面したベランダ付きツイン…ではなく、かつてドミトリーだった手入れの悪いバンブーハウスがこのお値段なりなり。ちなみに以前はそのツインが40元、ドミが10〜15元ぐらいであった。どうりで貧乏そうな旅行者が減っている・・・。 ちびぞうを部屋に放す。うれしがってかけめぐっているが、網戸をがさごそとブサイクに駆け上っては、結局降りられなくなって私の助けを待っているのはとてもリスとは思えない情けなさ。かわいいからいいか。 安い宿がないか探すも、収穫無し。貧乏旅行者が泊まっているのは町外れにあるタイ族経営ゲストハウスのようだ。竹で編んだバンガロー、もちろんバストイレ共同が40元。しかし、せまい敷地にバンガローがきちきちに建っているのはもひとつチャーミングではない。 1996/08/14 昼一時のバスでモンラーへ向かう。ミニバスは緑の田園地帯や熱帯的に牧歌的な村々やゴムの木林やバナナの群生など、目に美しいものたちのあいだをすりぬけて5時間で到着。 四川省からやってきた家族の経営するめし屋にて、最後の中華料理を食す。かっらーい! |