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1996/08/15 敗戦記念日、本日は国境越え。 朝9時のバスでモンラーを出発、昨日と同じく素敵な風景が広がっている。バスは11時前に国境の村ボーハンに到着、ここで中国側イミグレ手続き。相棒の香港CIが珍しがられて、けっこうてまどる。香港人がここを越えるのは初めてだそうだ。 さてそれからトラックの背に乗せられて約10分、 ラオス側イミグレのあるボーテンまで山道を揺られる。このトラックの運転手は何人だ? このトラックの籍はどちらに? 税金はどっちに払ってるのだ?(払ってるのか?) ボーテンもボーハンとどっこいの小村で、ちびぞうが見つかったらどうしよう・・・などという私の杞憂は笑かした。イミグレ職員よりも牛のほうが多いぞー!荷物はノーチェック。 ここでラッキーなことに、もともと5日間のトランジットビザですが7日間あげましょうという申し出を、向こうからされる。そこで相棒と二人で、7日間で首都ビエンチャンまで行ってみようとゴー!と話し合う。そうすると私がまだ行ったことのないタイ東北部イサーンへ直接入れるし、都合がよろしい。しかしその件をイミグレのお役人に言うと、「わが国の公共交通はあまり発達していないので、それは飛行機を使わない限り難しい。トラックの荷台に乗っての移動はしんどいし、今は雨季だから道はあちこちで不通になってるよ。飛行機にしなさい飛行機に。」と、現地人からのアドバイスをされてしまった。むう、トラックの荷台? ここで私たちは中国のド田舎(チベットとか新彊とか)でヒッチするときのように、でかいボロトラックの後ろで、振動に耐え兼ねて立ったり座ったりしながら移動する、そういうやつを思い浮かべ、ああ、辛苦なな旅になりそう・・・とため息をついたのであったが、そうではないことはすぐわかった。 ボーテンからルアン・ナム・タまで3時間乗った乗合タクシーが、つまりこれだったのだ。トヨタとかニッサンとかいすゞとかのピックアップトラックの荷台に屋根と座席をつけたもの、アジアでよくあるやつである。中国国産トラックと違って、割と新しい日本車なので、まあまあの乗り心地であった。 ルアン・ナム・タ到着。なんにもない小村である。美しい庭のあるホテルに泊まった。80元。人民元がまだ通じた。ラオス入国を祝して、とりあえずビア・ラオで一杯。 1996/08/16 朝7時にバス停(正確にはトラック停か)へ行き、モン・サイ行きのトラックに乗りこむも客が集まらず、結局8時半ごろ出発。道は恐るべきボッコボコ道で、しかも雨が降り出した。我々は荷台の一番前に乗っていたので、幌を上げればずぶぬれ、下げれば車酔いという、前門のなんたら後門のうんたらみたいな状況で、幌を上げたり下げたりちょっとめくってみたりと、ツライツライ5時間を過ごした。しかも、狭い荷台に10人以上も乗っており、それぞれがでかい荷物を持っているので身動きも取れない。きっちきちである。 私は本日は暑いだろうとナンの根拠も無く予想、朝からけっこうたくさんの水分を取っていた。そしたらトラックは山をぐんぐん登りだし、高地で涼しい上に小雨まで降り出して、トラックががんがん走ると冷たい風がびゅうびゅう吹き込み、結局トリハダが立つほど寒い一日となってしまた。私、半袖一枚。そうこうしているうちに、さあ大変、トイレだ!どこにあるねんそんなもん。 人口密度が高く、無人の地というのがめったにない中国では、質の高下さえ問わなければ公共交通機関が走っているような道で公衆トイレに困ることはない。今まで中国でのぐそやのしょうべんをたれたことというのは一回もない。しかし今はラオスの山の中である。 結局ドライバーに頼んでトラックを停めてもらい、衆人監視のなか見えないところまで走って行って、道の端で済ませた。車などめったに走っていない道路でよかったなあ。しかし立小便のできる体に生まれたかったことよ。 つづらおりの山道をもうええわというぐらい堪能した後、トラックはモン族の集落で一旦停車。緑の水田がどこまでも広がる、美しい盆地だった。水田に点在する民家の屋根は一方が垂直で一方にのみ傾斜がついており、ヨットの帆そっくりであった。黒い服を着たモン族の女性たちが、何名か下車していった。 一時半ごろモン・サイに到着。運賃はここまで3500Kipであった。ここの住民はラオ族。しかし中国からの移民が多いらしく、中国人や漢字の看板をちらほら見かける。さて急いでルアン・プラバン行きのトラックを探すも、なんと誰もが「ルアン・プラバンには陸路では行けない」というのだ。地図で見たらほんのちょっとの距離なんですよ。 さらに突っ込んで聞きまわると、モン・サイからトラックでひとまずノン・キウ(ノン・キャウ?)まで行き、そこからボートで河を下れ、との指示であった。モン・サイからノン・キウまではトラックで5時間、ノン・キウからルアン・プラ・バンまではスロウボートで4時間、スピードボートで2時間とのことであった。では本日中にノン・キウまで行くトラックはあるのかと聞きまわるも、これも無し。 イミグレのおじさんが「飛行機にしなさい」と強力に勧めていた理由がだんだん実感されてくる。 というわけで本日は不本意ながらもモン・サイで一泊。目に付いたキレイなホテルで値段を聞くと13000Kip、うひょう。すごすごと引き返し、メインストリート沿いの旅社(華人経営)で6000Kipもしくは60元あるいはUSD8.00。バス・トイレ付き、ホットシャワーだというのでチェックイン。2年前に思茅(西双版納の北にある漢族の街)から移民してきたという家族の経営だけあって、きわめて中国くさい宿であった。 ここでも麺は昨夜とおなじく一杯500Kipであった。しかも具は肉なしの卵だけ。中国より食の物価がかなり高い気がする。銀行へ両替に行くとまだ3時なのに現金が無いので明日明日と言われ、マーケットの闇両替屋を探すと1軒目1USD=900Kip、2軒目940Kip、田舎ではレートが悪いのが一般的だろうから、とりあえず50ドル替えてみた。 さて、することもないので村外れまでのたのた歩く。ドイツ人男性とアメリカ人女性の夫婦に出会った。彼らも今日、ルアン・ナム・タからトラックで来たという。明日ルアン・プラ・バンへ向かうと言うので、どうやって?と尋ねると、LP(Lonley Planet)によればここからナンボックという村へ行き、そこからボートに乗ると書いてあるとのこと。ナンボック?そんなの初耳だ。 私たちが今日聞いたノン・キウの話をすると、彼等はそれは初耳だと言う。とりあえず明日朝8時ごろにバス停(トラック停やって)で、と言って分かれた。 ノン・キウ、ナンボック、どっちだ? 夜、ラオス人のレストランで炒米粉5元、卵焼き2つ分5元というさみしい夕食を取る。やっぱ意外と物価高いような気がするこの国。結構寒く、風呂にも入らずに寝る。 1996/08/17 朝食をまた別の店で取る。麺を注文。やはり5元。しかし今朝は肉が入っていた。どんどんさもしく、セコくなってゆく私たち。 店で例のノン・キウかナンボックかという件を尋ねると、この二つの地点は10キロほどしか離れておらず、同じトラックで行けると言うことだ。但し現在は河の水位が高く、ルアン・プラ・バン行きのボートはナンボックに着岸できないのだそうだ。だからナンボックを通過して、ノン・キウまで行きなさいということであった。ちなみにノン・キウまでは3500Kipとのこと。こういう事前の料金調査は大切である。 8時乗車。昨日のカップルもいる。ご主人がジョージ(ほんとはゲオルグ)、奥さんがクリス。私がトラックの車種を確認して「トヨタだ。」と満足げに言うと、ジョージの方に「やっぱり日本人は日本製品を信用してるんだね」と冷やかされ、「そんなことないですよ。ドイツ車だってエクセレントだし、私のカメラなんかほらカール・ツァイスレンズ搭載。」と、社交辞令を返す。 ところでこの二人も新婚旅行なのだそうだ。濃ゆい新婚旅行やなあと、自分らのことを棚に上げて感心する。 発車は例によって客が一杯になった9時ごろ。雨がひどく、幌はきっちりおろしっぱなし。つづらおりで穴だらけの山道なので酔ってしまい、かなり苦しい。それに寒い。昨日相棒が買ってくれたレインコートがなければ風邪をひいていただろう。 2時間半ほど走ったところで、道が見事に流れていた。ぬかるみの深さは大人のひざ(白人標準)から太もも(ラオス人標準)といったところ。車が入れる深さではない…。見ると、ぬかるみの向こう側でもトラックが立ち往生している。運転手同士の会話で、どうやら客をまるごと交換することに話が決まったらしい。 というわけで、靴を脱ぎ、ひざ上まで泥に浸かってぬかるみを渡った。皆いさぎよく入って行くが、私は破傷風とかを考えてぐずぐずし、結局靴下をはいたまま渡ろう!と自分を納得させ、渡った。気持ち良いような悪いような、非常に変な気分でござる。ここまでのトラックに2000Kip支払った。 さて、さっきより小さいトラックにさっきと同じ人数が乗ったため、きっちきちのきっちきち、えらい無理な状態で一時間。山道を抜けて盆地へ出たが、今度はぬかるみではなく泥水が人のふとももぐらいまで溜まっている。それがどこまで続いているのか、終わりが見えない。どうするんだろうと思ったが、トラックはそろりそろりと水溜りを渡り始め、子供がうれしがって泳いでいる横を抜け、本来水田であったのではないかと推測されるところを大人が船に乗って渡っている横を通って、やっと路面が見えることろまで出た。もう大丈夫だ! と、思いきや、同じようなところをさらに二箇所、そろりそろりと通り抜けねばならなかった。しかしOK! 一時半ごろ、トラックはノン・キウに到着。このトラックに1500Kip払い、見事に小さい村(っていうか家が5軒ぐらい…)で下車。念の為トラックに確認したが、やはりルアン・プラ・バンにはこのトラック(というか陸路)ではたどり着けないとのコト。 川べりに小さなあずまやがあり、外国人3人が船待ちをしている。しかし、船が着岸できるような施設がきっぱりさっぱり何もない。ただの草の生えた斜面。雨でぬるぬるどろどろの。どんな船がくるんや? 船待ちをしていた彼らによると、船はこの二日間大雨で水位が非常に高く、流れが急で危険なため、なかったそうだ。なんてこと! 3時までそこで待ち、あずまやに座っていたラオス人(キップ売りのお役人らしい)が「今日も船はなし!」と宣言したため、あきらめて村の宿屋に泊まることにする。宿屋といっても山小屋のようなもので、蚊帳を吊った狭い部屋に全員ごろ寝。それだけならまだしも、船待ちをしていた3人のアメリカ人+宿にいたオランダ人が明々白々にクスリをやっており、特にこのオランダ人、男性だがすべての爪をまっかっかにマニキュアしていて、変な服で、しかもめちゃめちゃ臭かった。ジョージとクリスはごくごく普通の人なので、すごーくイヤそうな顔をして、荷物を置くと、出ていった。 私は生理痛と車酔いで吐きそうだったので、薬を飲んで横になり、30分ほど眠った。アメリカ人3人(女性1男性2)、こんなとこでおっぱじめるのはやめてください。オランダ人、それを私たちにも勧めるのはもっとやめてください。 やっとれんので外に出ると、宿のおやじが売人らしく、ヤク中らしき現地人が宿の周りにいっぱい。 川べりの橋まで行くと、ジョージとクリスがいた。私が「あのゲストハウス、泊まりたくないよねえ」と言うと、クリスも「もちろん私たちもよ。だから船がこないかどうか、ずっとここで見てるの」と言う。私たちも橋の上から上流に目をこらす。と、6人ぐらいが乗れるサイズの細いボートが3艘、あずまやの前の岸に停泊した。あれは! 「あれ、スピードボートじゃないの? 水位が高いって言っても、運賃に色をつけたら出してくれるんじゃない?」「交渉してみましょう!」この時点で午後4時。案の定、スピードボートは私たちをルアン・プラ・バンまで乗せて行くことに同意した。しかしここで降りる客はほとんどいなかったから、席は限られている。急げ!その席取った!とジョージが叫び、私とクリスはチケットを買いに走り、男性二人は宿まで荷物をとりに走った。料金は一人12000Kip。 どろどろの斜面を滑り落ちるようにして乗船。ひとつの船には客が6人、船頭が一人の7人しか乗れない。乗客はペラペラでぐっしょり塗れたライフジャケットを着用させられ、ヘルメットをかぶらされた。そして気の毒なことに、あの3人のアメリカ人の席はついになかったのである。クリスが「I'm sorry!」と叫ぶ中、スピードボートは出発。ほんまに速いっ!目を開けていられないぐらいだ。 水位は普段より3mも高いそうで、あちらこちらに浮いている流木をあっちに避け、こっちに避けしてボートはかっとばす。コーヒー牛乳色にむんむんと濁った水は沸きかえるように流れ、渦を巻き、あるいは濁流となって轟々を音をたて、ボートはその上をすべるように突っ走る。めっちゃスリリング!つーか、単にとても危険。 私はずっと般若心経を唱えていた。 途中1箇所、広い水面一杯に流木がうずを巻いているところがあり、船頭が3人、あまりにも危険だと判断したらしく、乗客は全員ボートを降りて流木の無いところまで30分ほど歩かざるをえなかった。しかしそことて船をつけられる施設など何もない泥の斜面で、降りるのも大変、乗るのも大変、私たちはすでにドロドロである。 日が暮れた。 7時過ぎ、ルアン・プラ・バンの灯りが見えた。しかし船頭はそこまで行かず、手前の民家付近で停船。そこから乗客全員でトラックをシェアし、街の中心に入った。1000Kip/人であった。 ジョージとクリスはもともとルアン・プラ・バンに荷物を置いて、モン・サイまで飛行機でサイドトリップを楽しみに行っていたのだそうだ。帰りがこんなことになるとは思いもよらなかったと笑っていた。彼らが泊まっているのは一泊USD35の素敵なホテルだそうなので(新婚旅行じゃフツーそうだよな)、ゲストハウスをいくつか教えてもらって別れた。 街の真ん中のPongsub G/H、バス・トイレ共同の部屋が7000Kip。すっごく清潔だ。主人と奥さんは英語とフランス語ができるインテリであった。 今日はさすがにへとへと、夕食を取りに街へ出るも、田舎町のことで食べられそうな店が全く見当たらない。しかたなくゲストハウスのホームメイドヨーグルトを2瓶づつ食べて、本日はおしまい。 泥だらけの靴。 1996/08/18 ルアン・プラ・バンはルアン・ナム・タやモン・サイに比べるとケタはずれに大きい街であった。にもかかわらず、都市では、やはり、ない。静かで美しい田舎町だ。街の中央部に小高い丘があり、旧王宮(現博物館)はその丘を背に、メコン河に面して建てられている。風水的には抜群の位置なのだろう。 朝から霧雨。中国語でマオマオユイ(毛毛雨)というやつだ。レインコートを着て街歩きに出かける。緑の多い美しい街並みで、住み心地のよさそうな家が立ち並んでいる。ラオス式の高床式のデザインと、フランス植民地時代の様式らしきデザインがほどよくまざりあっていてとても優雅である。 しかし昨日は昼食にも夕食にもありつけず、中華を食べたい一心の相棒が春聯(中国で縁起の良い対句を赤い紙に書いて門の両側に貼るもの)をめざとく見つけた。しかし残念なことに広東人のおとうちゃんは昨年亡くなっていて、いまはラオ人のおかあちゃんの娘さんがフランスパンのサンドイッチとコーヒーを売ってる店であった。相棒、かわいそう。 しかし、そのサンドイッチは意外な美味さであった。豚ひき肉に薄甘く味をつけたもの・ピクルス・きゅうり・とうがらし・豚の耳などをはさみこみ、なんと醤油をたらして食べるのである。和洋折衷ならぬ老法折衷(中国語でラオス・フランスはそれぞれ老過・法国)の味。その後何度も食べて確認したので、これは当方の空腹による過大評価ではない。 さらにおいしかったのがコーヒー。ラオス国産のコーヒー豆を煎って煮出した、エスプレッソよりもまだ濃いどろどろのコーヒーに、コンデンスミルクを3センチぐらい入れてくれるのである。めちゃ苦めちゃ甘の、コーヒーも甘い物のダメな人が間違えて飲んだら泣いてしまいそうな味であった。私にはとてもおいしかった。 バゲット半分(一人だとこれで満腹)が600Kip、コーヒーは100Kip。 マンダリンを話せる娘さんが、街に1軒しかないという中華料理屋を教えてくれたので昼から行ってみた。うーん、安くなかった。2000Kipもする魚のフライを注文したら、ひとくちサイズの切り身が4つだけ出てきたので相棒と顔を見合わせた。河べりの街なのに…。濡米飯(もち米ご飯)が一碗500Kip、中華というよりラオス味のチキンスープ(トムヤムみたいにすっぱいヤツ)が2500Kip、合わせて5000Kipなりなり。 相棒は腹ごなしに丘へ登りにいき、私は洗濯(←もちろん自分のだけ)。泥の中を歩いた靴下、すすいでもすすいでも水が黄色く濁る… 夕食は屋台を探そう!とでかけてみたが、おいしそうな物は並んでいるものの、すべてビニール袋に入れてお持ち帰り仕様。その場では食べられない。マグカップとスプーンで食べることにして、ごはん・きのこのカレー・すっぱい野菜が入った薄味スープ・豚肉のブロック煮込み二切れ、以上を購入。13元、あるいは1300Kip。 部屋で食べた。どれもおいしかった。これとビア・ラオでパーフェクトな夕食。 マーケットで布を買う。5000Kip。店の人はコットンのシルクだというが、私はコットンの麻の混紡だと思うなあ。サーモンピンクの絣で、染めは天然染料ではなさそう(安いし。)。これはバスタオルにするつもりである。 今日は結局一日中雨だった。 1996/08/19 月曜になったので、イミグレにビザの延長願いに行った。朝8時のオープンと同時に入り、延長してー、してー、と粘る。対応してくれたお姉さんはとても感じのいい人だったが、この人には権限がないらしく、私たちの事情を聞いてくれた上で、午後2時にもう一度いらっしゃいということであった。何日かあげられるかもしれない、ということだ。しかしイミグレの壁には「1995年8月23日をもってルアン・プラ・バン・イミグレーションオフィスは旅行者ビザの延長に関するすべての業務を停止しています。首都ビエンチャンのツーリスト・オーソリティー・オブ・ラオだけがビザに関する相談を受け付けています」と大書してあり、望み薄そう。 おかしかったのは、その横に「どうかジェントルにしゃべってください、そして私たちに対して尊大な態度をとらないでください」というお願いも貼られていたことで、これが役人から外国人旅行者に対してのお願いなのである。実際、ラオスで銀行でも店でもなんでも、腹の立つ対応というのを今のところされたことがない。ラオス人というのは非常に人当たりの軟らかい応対の人々である。これが常識のところに、大声を出す何人とか態度がでかい何人とか、やたら偉そうな何人とか(何人だろう?)がどっさり来て、本当にびっくりしてるんだろうな。 さて朝食を例の春聯サンドイッチ屋で済ませ、旧王宮博物館でも行ってみるべいと出かけるも、朝8時に前を通ったときには開いていたのにもうしまっている。門の前で中をのぞいていると、ジョージとクリスがやってきて「博物館に入るには許可証を取ってガイドを雇う必要があるのよ。あっちのツーリストオフィスで相談してごらん」と教えてくれた。めんどくさい国やのう。急いでツーリストオフィスとやらへ行き、許可証発行を求めると、ここではなく泊まってるホテルの主人が保証書を書く必要があるとのこと。ガイドを雇う必要はないとのことであった。 ゲストハウスに引き返し、保証書というのか許可証というのかを書いてもらって博物館へ。しかしこの博物館、開館時間がなんと8時半〜10時限定というもったいのつけぶりで、いったいそれは見せたいのか見せたくないのかどっちなんだ。結局タイムアウトで入館できず。 相棒が昨日丘の上から見えたという、郊外の金色のストゥーパまで散歩に出る。3kmぐらいか。 雨でぬかるむ道を、へとへとになりながら登る。 ストゥーパの中は4階だてになっていて、1階には地獄の絵が稚拙な克明さで描かれていた。うちひとつ、や や大きな絵があり、男性が木の枝にぶらさがって、蜂の巣からしたたる蜜を舐めている。しかしその枝は根 元を2匹のねずみにかじられており、いまにも折れてしまいそうなのだ。しかも男性の下の地面には大きな 穴があいていて、毒蛇がそのなかで男性が落ちるのを待ちうけている。穴の外では白い象がひざまずいて 男性をみつめており、その後ろに寺院が見える。判りやすい比喩である。 ストゥーパの上からの眺めはすばらしかった。一面の緑・緑・緑!人口圧力の高い中国からやってきた身に は、目に沁みるような光景であった。 へとへとになって丘を降り、ゲストハウスに帰って風呂!藍染めのサマードレスに着替えて、イミグレに行く。 小姐は「やっぱりここでは延長できません」と、残念そうに言ってくれた。但し、ViengTianeでの延長は1日 USD3で可能、Over stayもUSD5で1週間や10日は問題ないとのこと。 私達のビザは21日までだが、21日午後までにViengTianeに着くのはちょっと不可能。うーん、アイスコーヒ ーでも飲んで考えよう。バゲットがいっぽん1200Kip、コーヒーが100Kip、そしてアイスコーヒーは400Kipであ った。アイスコーヒー、えらい高いなあ。中に入ってるキューブアイスの値段だろうか。 市内のお寺をいくつか散策し、メコンのほとりのテラスレストランでBeerLaoを1杯。BeerLaoが1200Kip、フレ ンチフライズが500Kip。明日は移動日だ。 1996/08/20 本日はVangViengへ行く日である。朝起きてTukTukでバス停まで行った。するとなんとびっくり!「バス」が あるじゃないの。それも世界を駆ける日野バスだ。チケットはVanViengまで9000Kip、運転手は力強く 「VanViengまで6時間、VienChangまで10時間」と言い切った。 さて私達は、バスは朝9時半出発ということを確認した上で、全然知らん都市に日が暮れてから着くのはま ずかろうと、VamViengで途中下車することに決定。明るいうちに着けるだろうという観測である。 ところが。力強く言い切ったこの運転手、ものすごーく運転がへたくそで、何てことない道なのに30Kmぐらい のスピードでしか運転しないのであった。しかも発車のたびにギアをバックに入れ間違うというどんくさぶり で、私達の肝を冷やしてくれる。大丈夫なんかい。 道は霧がすごかった。高山を細々と走る道では、3m先も見えないほどの霧。不幸中の幸いは、車両が極 端に普及していない国なので、対向車がほとんどない事だ。だからといってもちろん油断は禁物なのだが、 とりあえず何事もなく通過、ひと安心。 道が大きく地崩れをおこしている個所を通過。写真参考→。そしてわたしはすっかりのしょうべんの達人だ。 さて、ところがバスは道の悪さと運転手の腕のせいで遅れに遅れ、VangViengに到着したのは夜7時ごろ。 すでにまっくら。しかもバスは市内に入らず、川を隔てた対岸の、真っ暗な田んぼ道で客を下ろし始めたでは ないか。私達はこんな所で降りるのはまっぴらである。 で、やはり首都ViengTianeまで乗ることにした。これはまちがいだったのか正しかったのか。というのは、 VangViengを出て2時間ほどの場所でバスは夕食の為に30分ほど休憩し、そしてまた走りだし、10時前、客 を下ろすために停車した後、どうにもこうにも動かなくなっちゃったのである。 相棒が言った。「バッテリーがあがっとる。」 なるほど。しかし民家の灯りが遠くにひとつ二つ見えているだけのこの野っぱらで、いったいどうするねん。 電気が通っているのが御の字で、どう考えても電話はなさそう。 相棒が言った。「ギアをセカンドに入れて、後ろから押せば発信できる。ここは坂道だから都合がよろしい。」 うむ。そういえばそのようなことを自動車学校で習ったような気がする。大昔に。 そして運転手が言った。「SLEEPING!」 「え!?」と声を出したのは私だけで、人々は皆妙に嬉しそうに歌を歌い出したり、懐中電灯を取り出したり して、それぞれに寝場所を確保し始めた。あるものは床で、あるものはバスの屋根の上で。私と相棒はラッ キーにも椅子の上で眠る事が出来たのであった。って、ラッキーなのか? 今日、宿とゴハンにありつけると思っていたので、りすぞうにやるものはなにもない。かわいそうだ・・・ |