The Colonization
ユダヤ人植民計画

 

■ ユダヤ人植民住宅

ここではイスラエルの占領地内にあるユダヤ人の植民住宅について解説いたします。
まず言葉の意味ですが、植民とは自分の国の民を他人の土地(国)へ移住させる事を言います。

イギリス帝国などは世界の海を制覇したというだけあって、植民地をたくさん持っていました。インドで英語が通じるのはイギリス植民地時代の名残です。

さて、イスラエルの殖民ですが、イスラエルも植民政策を行なっています。それは、中東戦争で占領した地域への植民です。しかし、国際法で占領地への植民は禁止されています。それを無視してまで植民を行なったのは、国民がそれを支持したからです。

そして、占領地へ住宅を建てユダヤ人の町を作りました。しかし、電磁有刺フェンスで囲ってあり、イスラエル兵が守っています。この町の中に入るには検問があり、まるで国境です。まるでというか、”占領地=パレスチナ自治区”との国境です。

 

■ 植民地

イスラエルが植民地とした場所ですが、第3次中東戦争で占領した地域です。エジプトから分捕ったガザ地区やシナイ半島、ヨルダンから分捕ったウエストバンク、シリアから分捕ったゴラン高原です。これらをイスラエルの占領地と言います。

ところで、文章にすると”占領したところへ植民した”というように国家の政策がこうであったと述べるのは簡単なのですが、もし日本が中国を占領して人々が北京に移住するとなったらどうでしょう。周りは敵国の人間です。いつ襲われるかも知れたものではないです。戦争もいつぶり返すか分かりません。そうなった場合は一番に戦場となるのは最前線である占領地です。

そんな所には、とても怖くて住めたものではありません。

ところが、あえてそんな場所へ移住しようと考える人々というのは、イスラエルを心から愛し、ユダヤ国家のためならアラブからの攻撃に自身を盾とするという覚悟の人たちです。つまり、右よりの方です。

まあ、政府からの援助で家を安く持つ事ができたという事もありますが、それでも・・・ねぇ。

 

■ 勝手に植民

イスラエルのユダヤ人の中には、政府がパレスチナ人に気を使って、入植を行なっていない場所に勝手に住み着いて事実上入植してしまう人たちがいます。

彼らは武装してはいますが、敵地のど真ん中に入っているので危険極まりなく、結局は軍が護衛をする事になるのです。こうなると、力によって占拠しているのと同じで、パレスチナの人たちはイスラエル政府を憎むでしょう。

このような行動をとる人は、ユダヤ原理主義の排他主義者でテロリストではないのですが、結構強引な事を行ないます。(排他主義なので話しかけても旅行者に返事をしてくれないかも・・・。)

そして、彼らはユダヤ人の占領地を広げようと、勝手に家やシナゴグを建設しようとします。政府は国防軍を出動させ、彼らを排除しブルドーザーで建設中の家などを破壊します。彼らはブルドーザーの上や下に入りこみ、これを妨害し、兵隊に引き摺り下ろされています。

 

■ シナイ植民住宅の場合 1982年撤収

第3次中東戦争で勝利したイスラエルは、エジプトのシナイ半島を占領しました。そして、シナイ半島への植民も、スエズ対岸最前線でのイスラエル陣地構築と平行して増えました。

イスラエルが陣地を築くという事は、この占領地を手放す事は無い、と主張しているということです。このため、国民も安心?して植民しました。

駄菓子菓子!第5次中東戦争が勃発し、エジプト軍は奇襲により、イスラエルの陣地を突破し、シナイ半島を進んできました。

一般の市民が(といっても軍隊の予備役兵ですが)拳銃を持って”くるならこい、ここから先へは一歩も通さない”などというのは虚勢でしかありません。そんな事を言っていたら、無駄に死傷者が増えるだけです。結局、幸いな事に戦争はイスラエルが押し返し終了します。

やれやれと、戦争を乗り切ったことで植民者たちにはますます愛国心が増幅し、国を守ったという意識があったことでしょう。

しかし、戦争が終わってほっとしていたのもつかの間、イスラエル政府は突如、エジプトと平和条約を結んだのです。

この平和条約の条件に、シナイ半島の返還が含まれていました。まさに、青天の霹靂!あわくってデモをやりましたが、政府はだんまりを決め込んで、国防軍も徐々に撤収していきました。

シナイ半島の経済力をエジプト時代より上げて、感謝までとは言わないがそれなりによいこともあったイスラエルの占領が終了する時が来ました。問題は植民してきたユダヤ人です。もちろんシナイ半島返還には大反対です。政府に裏切られた訳ですが、止む終えません。

いきなり自分達の家から出て行けといわれた日にはたまったものではありません。しかし、デモや抗議ではどうしようもなく、自分の家の屋根に上って”絶対に動かない!”と住民や反対派の人々が抵抗を試みましたが、イスラエル国防軍の実力行使によって引き摺り下ろされました。

1982年、シナイ半島入植者達は政府からの違約金を受け取り、イスラエルの領土内に帰ってきました。

ちなみに、ガザはエジプト領ではありません。人々もエジプト人ではありません。エジプトはなぜか第1次中東戦争で占領したガザ地区の人々をエジプト人としなかったのでした。今はパレスチナ人で以前はイスラエル人であり、エジプトに占領されていた間は被占領のイスラエル人だった人々。ああ、ややこしい。

 

■ ウエストバンク聖地防衛隊

さて、シナイ半島と同様、第3次中東戦争でイスラエルが占領したウエストバンクに移住した人々は、いわば聖地防衛隊です。こちらはこちらで力が入っていたでしょう。

ヘブロン(ここも二重聖地)では入植者が聖地で銃を乱射するという事件もありました。

ウエストバンクは第1次中東戦争でヨルダンが占領しました。そして、ヨルダンはウエストバンクを自国に併合し、そこの住民にヨルダンの国籍を与えました。ヨルダンの行為が善いか悪いかは分かりません。

ところが、第3次中東戦争で今度はイスラエルに占領されてしまったのです。イスラエルはウエストバンクにあるエルサレムを首都と宣言し、入植者も植え付けました。

そして数十年後、ヨルダンとイスラエルは平和条約を結びます。

しかし、元々ヨルダンが占領して、勝手に自国に併合していたウエストバンクは、ヨルダンに返還されることは無かったのです。ヨルダンはウエストバンクの再併合をあきらめたと発表しました。

占領されている地区で働く元ヨルダンのお役人さんにはヨルダンから給料が支払われていました。今は、パレスチナ自治政府でしょうね。

ちなみに、イスラエルは東エルサレム(元ヨルダン領、聖地がある)をパレスチナ自治政府に譲れない理由の一つとして、入植者が多いからという事を言っています。

2005年、ウエストバンクにある4つの入植地がイスラエルによって撤収されました。詳しくはこちらをクリック

 

■ ゴラン高原植民住宅の場合

さて、第3次中東戦争でシリアから奪ったゴラン高原にも入植者はたくさんいます。イスラエルとシリアはいまだ平和条約を結んでいないので、返還もされていないのです。

しかし、ここは戦略的には重要拠点であり、経験が豊富な軍の関係者ほど、シリアと平和条約が結ばれても、ゴラン高原は返還すべきではないという意見が圧倒的です。

シリアはシリアで、ゴラン高原を返さないと平和条約も何もない!といっています。まず返せと。

ゴラン高原の入植者達はシナイ半島の前例を見ています。どういう考えでいるのでしょう。

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