エジプトでの出来事

エジプト・アラブ共和国 powered by CIA :

■ イスラエル建国と第1次中東戦争 1948年5月14日
国連決議によりイスラエルが建国されると、エジプト王国(ムハンマド・アリー王朝)はほかのアラブ諸国と共にイスラエルに侵攻しました。詳しくはここをクリック

■ エジプト革命 1952年7月23日
ナセル中佐が率いる自由将校団とムスリム同胞団がムハンマド・アリー王朝に対してクーデターを起こします。無欠クーデターが成功しエジプトは1953年6月、共和制となったのでした。詳しくはここをクリック

■ ナセル大統領の誕生 1956年6月20日
ナセル中佐は第2代エジプト大統領に就任します。ナセル大統領はイギリス軍が完全にエジプトから撤退したのをみて、スエズ運河会社の国有化を宣言しました。

■ 第2次中東戦争 1956年10月29日
スエズ運河国有化宣言をうけてびっくりしたのは株主であるイギリス帝国とフランスです。エジプトの行動を非難しますが、埒があきません。ここは武力で解決するしかありません。そして、戦争は始まりました。詳しくはここをクリック

■ アラブ連合共和国 1958年2月22日
エジプトとシリアは2国を合併させ、アラブ連合共和国が成立しました。首都はエジプトのカイロとなり大統領はナセルが就任しました。

■ イエメン内戦に介入
イエメン王国で王国軍のサラール大佐に率いられた軍がクーデターを起こし、国王が隣のサウジアラビアに逃れます。サラール大佐はナセル主義の信奉者でありエジプトも新政府を援助します。こうして誕生したイエメン・アラブ共和国はナセル主義の拡大を象徴するような出来事です。

ところがイエメンの隣サウジアラビアは君主制でありナセル主義にはとても同調できるものではありませんでした。サウジアラビアは旧王朝派を支持し、ジェッダに亡命政権を樹立させます。
こうして、王党派は新政府軍との戦いを継続し、イエメンは内戦へと突入したのです。このサウジアラビアの行動に怒ったナセル大統領はイエメンへ軍隊を増派し、本格的に内戦へ介入したのでした。

これを見た、アメリカとイギリスはサウジアラビアを支持し、武器の供与を始めます。エジプトはソ連から武器の供与を受けており、まさにベトナム戦争と同じ状態が発生したのでした。

■ 第3次中東戦争 1967年6月5日
イエメンへ軍隊を派遣しているにもかかわらず、ナセル大統領はイスラエルとの戦争を計画します。そして、シリアと共にイスラエルに攻め込むため、シナイ半島に軍隊をぞくぞくと集結させました。同時にシリアでもゴラン高原にシリア軍が集結します。

シナイ半島にはスエズ戦争の後、国連平和維持軍が駐屯していましたが、ナセル大統領の『撃ち合うか?それがいやならなにもするな』という言葉に国連平和維持軍はエジプト軍の集結を見守ってしまったのです。そして、また戦争がはじまりました。詳しくはここをクリック

■ イエメンから撤退 1967年9月
第3次中東戦争の事後処理のため、スーダンで開催されたアラブ首脳会議において、エジプトとサウジアラビアは仲直りをし、エジプトはイエメンから軍を撤退させることに合意しました。
イエメン内戦は国内からも反対の声が上がりはじめ、先の戦争でも軍隊を消耗しており、これ以上介入を継続する事が難しくなったのでした。
アラブのリーダーたる野望を抱くナセル大統領の威信は落ちてしまいました。

■ 第4次中東戦争 1968年9月28日
エジプトはスエズ運河をはさんだシナイ半島でにらみ合うイスラエル軍に対し、砲撃をしてしまうのです。イスラエル側からもこれに応酬。それの繰り返しでしたが、ついにエジプト軍は歩兵を越境させてイスラエルを攻撃しました。これにより、お互いが越境攻撃を繰り返しているうちに、どんどんエスカレートし戦争状態にりました。

イスラエルの戦闘力に参ってしまったナセル大統領はついにソ連に本格的に参入してもらうのです。そして、それをうけてソ連の軍事顧問団が実践要員つれてエジプトに入ったのです。
1970年8月、アメリカの仲裁で停戦にいたいりました。

■ ナセル大統領死す
ヨルダン内戦の後始末をかって出たナセル大統領でしたが、あまりの忙しさのせいかヨルダン内戦の終結の翌日、心臓発作を起こしてそのまま亡くなってしまいました。後任には同じ自由将校団出身のサダト副大統領が選ばれました。

サダト大統領はソ連の軍事顧問団を国外退去させました。まあ、ソ連製の最新鋭地対空ミサイルSA6はスエズに配備したままですが・・・。

■ 第5次中東戦争 1973年10月6日
さて、サダト大統領はここにきて、イスラエルとの戦争がエジプトのためにならないと考えていました。国防費はかさむばかりで経済の発展は滞り、国が豊かではないことに気づいたのです。そして、イスラエルに占領されているシナイ半島を取り返し、有利な形で和平にもっていきたいと考えたのです。最後の一撃を放つため、サダト大統領は戦争の準備をはじめました。

そして、ユダヤの祝日をねらいエジプトはシリアとともにイスラエルに先制攻撃を行なったのです。みごとこれは成功し、一気にテルアビブまで進撃かと思われましたが、国民に危機感が徹底しているイスラエルの行動は早かった。軍隊緊急招集させると持ち前の戦闘力を発揮して、エジプト軍は押し返されます。

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■ エジプト・イスラエル平和条約 1979年3月26日
サダト大統領はイスラエルとの戦争が停戦したのち、国会で『私は和平のためならたとえクネセトへでも行く用意がある。』と演説します。アラブ諸国はこれを半信半疑で受け止めていましたが、戦争からから四年後の1977年11月、サダト大統領は本当にエルサレムを電撃訪問しました。そして、クネセトで演説をしたのです。

当然、ほかのアラブ諸国からこっぴどく非難されました。しかし、アメリカはこれを大歓迎し、カーター大統領はサダト大統領、イスラエルのベギン首相をアメリカ大統領の別荘地キャンプデービットへ招き、交渉を重ねました。

この交渉はシナイ半島返還問題で難航しましたが、1978年3月26日合意に至りました。そして、このキャンプデービット合意を受けて、ほかのアラブ諸国を尻目にイスラエルとの単独和平に成功したのです。イスラエルはシナイ半島を返還し、入植者達も立ち退きました。
この功績でサダト大統領はノーベル平和賞を受賞しました。

■ サダト大統領暗殺 1981年10月6日
せっかくの平和が訪れたエジプトですが、イスラエルとの和平が気に食わないイスラーム原理主義者によってサダト大統領が暗殺されてしまいました。なんと、第5次中東戦争記念パレード中に、イスラーム原理主義の兵士から銃撃を受けたのです。

後任にはムバラク副大統領が任命されました。

■ ムバラク大統領暗殺未遂事件 1995年6月26日
エチオピアを訪問中のムバラク大統領が銃撃されました。ムバラク大統領はからくも逃れました。ガマアト・イスラミヤが犯行声明を出しました。犯人はスーダンへ逃げたと思われます。

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