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The Lebanon's Behavior
レバノンの仕業


レバノン共和国 地図提供 : CIA

■レバノン独立 1944年1月

レバノンは第一次世界大戦でオスマン・トルコからこの地域を分捕ったフランスが統治していました。そのためベイルートは中東のパリと呼ばれるようになり、ヨーロッパ風の建物が並んだ近代的な都市景観をしていました。

そして、第二次世界大戦中の1941年11月26日、フランス政府がレバノンの独立を宣言します。その後の1944年1月、正式にレバノン共和国が誕生し、国旗も”トリコロールにレバノン大杉”から現在の国旗になりました。

この時、フランスは中東にキリスト教徒の国を作る事を計画し、レバノンとシリアに国境を引くに当たり、ムスリムが住む地区をシリアに割り当て、レバノン側には少なめにしました。

レバノンではキリスト教徒とムスリムなどが入り混じっていますが、このフランスの意図により、キリスト教徒が多くなったのです。そして、法律も宗教モザイク国家にあわせて、宗教別の人口比で国会の議席を決めるようにしていたのです。

 しかし、キリスト教徒とムスリムの人口比が逆転すると、キリスト教徒はこの法律を無視しました。これで、両者の間には溝が出来てしまい、衝突を繰り返す事になったのです。

 

■イスラエルとの関係

レバノンはイスラエルとの中東問題に対して、あまり険悪的な状態にありませんでした。第一次中東戦争ではイスラエルと戦ったものの、その後の戦争には関わっていません。それどころではなかったと言う事もありますが、エジプトの次にイスラエルと平和条約を結ぶのはレバノンだと言われていたくらいです。・・・シリア軍が駐留するまでは。

 

■PLOの本部設置 1970年9月

ヨルダンのフセイン国王によって、ヨルダンから追い出されたPLOは、受け入れを表明したレバノンに拠点を据えます。これによりPLOがイスラエルに侵入してゲリラ行為を行なうと、イスラエルはレバノンのPLOへ越境攻撃を仕掛けるという事態になってしまいます。

結局ヨルダンと同じ目に合ってしまったレバノンは、1972年6月、PLOに対して南部の地域に訓練基地を与える事にしました。この基地はPLOの中で最大の組織であるアル・ファタの名前を取り”ファタ・ランド”と呼ばれるようになりました。

レバノン政府はこれにより、イスラエルからの報復攻撃が、ファタ・ランドにしぼられると考えたのです。ただし、PLOの本部はベイルートのオフィス街に置いたままです。

 

■レバノン内戦 

内戦の始まり 1975年2月
この内戦は、キリスト教マロン派の武装組織がPLOに対して攻撃を仕掛けた事から始まりました。キリスト教マロン派は”PLOがレバノンにいるからイスラエルの攻撃を受けるのだ!”というもっともな理由でPLOを追い出しにかかったのでした。

そして、この撃ち合いがPLOを支持しているレバノン人グループとキリスト教マロン派に別れた内戦へと発展してしまったのです。詳しくはここをクリック

そして、この時レバノンの各キリスト教グループが戦闘部門を合併させレバノンフォースが誕生しました。リーダーはファランヘのバシール・ジェマイエルでした。

シリアの介入 1976年1月
シリアは隣国レバノンの混乱をみて、レバノンに侵攻してきました。PLAと称して内戦に介入したシリアでしたが、もともとレバノンはシリアの一部だという考えをもっているこの国は、そのままレバノンを乗っ取ろうと考えていたのでした。

かし、他国の内戦に介入するなど国際世論が許す訳がありません。このためアラブ諸国は緊急会議を開き、レバノンにアラブ平和維持軍(国連とは関係ない)を派遣する事にしました。これはシリア軍の撤退を求めたものではなく、シリアの介入をカムフラージュしたように思います。

結局、1978年、シリアを除くアラブ平和維持軍が撤収してしまい、シリア軍のみがレバノンに駐留したままになりました。そして、内戦はまだ続きます。

 

イスラエル国防軍のリタンニ(川)作戦 1978年3月15日

イスラエルがPLOの越境テロ攻撃を防ぐため、レバノンに侵攻しました。イスラエルはレバノン政府にPLOをどうにかしろと言っても、内戦でそれどころではないレバノン政府にそんな力はありません。そのためイスラエル自ら攻撃に出たのでした。これは単なる報復攻撃ではなく、侵攻作戦でした。

 

■自由(南)レバノン軍旗揚げ 1979年

内戦による混乱状態のレバノン政府を見限って、レバノン正規軍ハダット少佐が自分の任地を独立させました。そして、自分の管理下にある軍隊を自由レバノン軍(のちの南レバノン軍)と名づけたのです。

この自由レバノン軍はPLOやシリアを敵とし、イスラエルとの同盟を結びました。武器はイスラエルからの供与です。

 

■レバノン戦争(第六次中東戦争) 1982年6月6日

1981年の夏も終わりに近い頃、PLOの越境攻撃が激しさを増してきていました。連日、カチューシャロケットが南レバノン軍の頭上を越えてイスラエルへ射ち込まれたのです。

イスラエルはこれに耐えかね、ついにレバノン国境を超えてベイルートまで進撃してきました。この作戦にはもちろんSLAとレバノンフォースも加わりました。詳しくはレバノン戦争を参照

そして、ベイルートを取り囲まれて撃ちまくられたPLOは、アメリカの仲介によって、ついにレバノン放棄を決定します。これで停戦になり、平和維持軍が上陸してきます。PLOは取り合えずギリシャに逃れ、これでイスラエルのPLO掃討作戦は終了しました。

 

■イスラエルの後退 1985年1月

イスラエルはレバノンからPLOを追い出す事には成功したのですが、その結果イスラーム原理主義武装抵抗組織ヒズボラゲリラを生んでしまい結局は戦う相手が変わっただけで、平和にはなりませんでした。

そして、ベイルートから南を占領しているイスラエルに対するヒズボラゲリラの攻撃は激しく、イスラエルはこれを支えかねて、国境付近まで後退します。しかし、南レバノン軍占領地帯はレバノン人の安全保障と称してイスラエル国防軍が駐留し続け、これに対しヒズボラは徹底抗戦を行ないます。

南レバノン軍は敵がPLOから同朋のヒズボラになってしまいました。

 

■ 内戦の終結 1990年

1988.09.22
アミール大統領は任期終了によって次の大統領選挙が行なわれるはずだったのですが、なんと立候補者がいないという事態になってしまいます。アミール大統領は自身が辞めたあとをムスリムとキリスト教徒の代表者3人づつ、計6人で一時的に政府を動かす事にします。

ベイルートの西を治めるムスリムの指導者はサリム・アル・フス、東を治めるのはマロン派キリスト教徒のミッシェル・アウン陸軍参謀総長でした。アウン将軍はシリアからの解放のための戦いを宣言します。レバノンの状態は軍事政権と化していました。

1989.11
新大統領が当選後すぐに暗殺され、ハラウィ大統領が後を継ぎます。アル・フスが新首相に就任し、アウン陸軍参謀総長を解任しエミール・ラフード中将に替えてしまいます。

1990.10.13
孤軍奮闘のアウン元参謀総長率いるキリスト教マロン派に対し、シリアが空爆を加えます。アウン将軍はこれを支えきれず、ついにフランス大使館に亡命します。

これでムスリム対キリスト教マロン派の戦いが事実上終了したのでした。しかし、南部にはSLA、イスラエル国防軍とヒズボラが健在であり、モサドもヒズボラの指導者を暗殺していました。まだ、こちらでの戦いは続いています。

シリアはベイルートに完全なる影響力を持つ事に成功し、傀儡政権を樹立しレバノンを支配してしまいました。

 

■ イスラエルの完全撤退 2000年

南部地域ではイスラエル&南レバノン軍 VS ヒズボラゲリラとの戦闘が続いていましたが、戦死者の多さからイスラエルのバラク首相は公約していた通り、国防軍の撤退を開始しました。

この時イスラエルのバックアップで戦っていた南レバノン軍は居場所が無くなったのでイスラエルに亡命する者が大勢いました。

ヒズブ・アッラー(ヒズボラ)はSLAの領地を占領し、イスラエルと国境を接して向かい合うことになりました。

■ シリアの撤退 2005年

アメリカはイラクに攻め込み、フセイン大統領をやり込めました。このイラクでの戦争でイラクと国境を接するシリアはとても重要な役割がありました。

それは、イラクから逃亡するフセイン派の幹部や武器を受け入れない、という事です。アメリカは第一次湾岸戦争に続き、シリアに協力を求めました。シリアのバシャール・アサド大統領はこれを受け入れ、シリアに逃亡してきたフセイン派の幹部をアメリカ軍に引き渡しました。

それでも、なおシリアはアメリカからテロ支援国家に名指しされていたのです・・・。

そんな折の2004年8月、レバノンではもうすぐ任期(11月まで)の切れる親シリアのラフード大統領を選挙無しでの任期の延長を画策したシリアは、レバノンに憲法の改正をさせます。

これを見た、アメリカとフランスは国連にシリアの撤退をさせるための決議案を提出しました。この決議はあっさり通り、シリア軍のレバノンからの即時撤退が採択されました。

2005年2月14日、ラフィク・ハリリ前首相が暗殺されます。レバノンではこれはシリアの仕業だとして、国民が怒り大規模なデモが発生しました。

シリアはこれを受けてアメリカの矛先が自身に向く事を恐れ、レバノンからの撤退を決意したのです。そして、2005年4月29日、シリア軍はレバノンから完全に撤退しました。

■ シリア撤退年表
2004.08.16
シリアが親シリアのラフード・レバノン大統領の任期延長のための憲法改正を支持するとの表明のため、シャラー外相を派遣し、ラフード大統領と会談する

2004.08.27
シリアがハリリ首相に憲法改正を急ぐよう圧力を掛け、ハリリ首相をこれを了承する

2004.09.03
レバノンの憲法改正に明らかに介入しているシリアの行動に対し、アメリカとフランスが国連にシリア軍の撤退決議案を提出し、この日、シリア軍即時撤退決議案が採択される

2004.09.03
レバノンの大統領任期延長を可能とする、憲法改正案が採択される

2004.10.20
レバノンの大統領任期延長のための憲法改正を受けて、やり切れない気持ちになったラフィク・ハリリ首相が辞任する

2005.02.14
ラフィク・ハリリ前首相が暗殺される

2005.02.28
ハリリ首相の後を継いでいた親シリアのカラミ内閣が、反シリアデモを受けて総辞職する

2005.03.05
バシャール・アサド大統領はシリア軍の完全撤退を示唆し、レバノンに駐留するシリア軍をベカー高原まで移動すると発表

2005.04.04
シリアはベカー高原にあるシリア軍を、今月末までに完全にレバノンから撤収させると発表

2005.04.29
ベカー高原に移動してたシリア軍がすべて国境を越え、レバノンから完全に撤退しました

 

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