■レバノンの混乱原因
さても、レバノンがなぜこうも混乱してしまったかと言いますと、PLOがヨルダンからレバノン落ち延びてきてそのまま居座った事が原因です。なぜヨルダンから追い出されたのかはブラックセプテンバー事件を参照してください。
PLOはレバノンにやってきて事が落ち着くと、例によってレバノン政府に自分達の保護を約束させました。もちろんアラブ人としてPLOを支持している建前のレバノンは断る訳にはいきません。こうしてレバノンはPLOと敵対しているイスラエルと真正面から事を構えるはめになったのです。
■PLO、イスラエルに越境攻撃
さて、ヨルダンに代わる保護者を得たPLOはレバノン南部からイスラエルに対してゲリラを送り込み始めます。これに対して、やられたらやり返す主義のイスラエルが黙っているはずもありません。
すぐさま、戦闘機に爆装させレバノンへ飛ばしました。レバノンへの越境空爆といっても、イスラエルはレバノンと戦争を始める気ではありません。
狙ったのはPLOの基地(ファタ・ランド)やオフィスです。とはいえこれは表裏一体、誰を狙おうとレバノンの国内を爆撃した事に変わりはありません。当然、レバノン人にも犠牲が出ましたし、パレスチナ人難民キャンプに潜むPLOを攻撃すればゲリラでない難民も犠牲になります。
そしてPLOは待ってましたとばかりプロパガンダをうちます。イスラエルは民間人を殺している!すると国際世論はイスラエルを非難し、いつも通りイスラエルは、『我々の行動は正当なものだ。それを批判する輩は反ユダヤ主義だ。』と誰も正面から文句を言えない言葉を使い、他国を黙らせます。
こんな状況の繰り返しでした。さらにPLOは、例によって居候している身分でありながら、ユニフォームを着て肩で風を切ってレバノン国内を闊歩する始末。なんで、ヨルダンから追い出されたのか分かっていないようです。(イラクやシリアではユニフォームの着用は認められていない。)
■レバノン人の怒り
レバノンは自国がイスラエルの攻撃にさらされ(小さいレバノン国軍ではイスラエルに反撃できない)、PLOが我が物顔で歩いている。国民はさぞ歯がゆい思いをしていたでしょう。
そんな状況の中の1975年4月13日、ファランヘの党員4名が何者かに射殺されます。犯人は敵対しているイスラームか?それともPLOか?どっちでもいい、とファランヘはついにPLOを襲撃したのでした。
そうです、レバノン情勢風雲急を告げていたこのご時世、レバノンには自身の身を守るため武装した民間人、つまり民兵グループが存在していたのです。
彼らがPLOを攻撃したのはいいのですが、市内でマシンガンをぶっ放したもので、国内は騒然となります。さらにもちろんゲリラであり実戦経験も豊富なPLOは即座に撃ち返します。
PFLPはこのファランヘの攻撃に対しベイルートで暴れまくり市内は騒然となりました。市民は家にこもり、危険で出歩く事も出来ません。こうなれば、警察がなんの役に立ちましょう。事件は内戦へと発展していったのでした。
■シリア軍、レバノンに侵攻 1976年1月20日
レバノンにPLOと戦う力があれば、ヨルダンのように追い出したり、ある程度の秩序を保たせる事も出来たでしょう。しかし、戦闘力ではPLOの方が上であり、レバノン軍にさえも内戦を止める力が無かったのでした。
そんな折、シリアです。例によって例のごとく、大シリアとは昔からこの地域を含めた領域であり、フランスによって勝手に引かれた国境線などいらぬと考えているシリアは、またしてもPLOに加担して他国の内戦に介入してきました。
そして、シリア軍の力で一応停戦となったのですが、シリアはこれで自国に引き返すはずがありません。しかし、前回の教訓(ブラックセプテンバー)からアメリカやイスラエルの介入で追い出される事を懸念したシリアは、アラブ連盟に働きかけてアラブ(レバノン)平和維持軍を結成します。シリア軍以外の軍隊も派遣し、隠れ蓑とするためでした。
アラブ連盟もPLOやレバノンを助けるために介入したと言うシリアの建前に反論できず、事実上シリア軍の駐留を認めてしまったのでした。
■軍部のクーデター 1976年03月11日
一応内戦がストップし小康状態のレバノンで、またも事件が起こります。なんと国軍のアハダブ准将(イスラーム)がクーデターを起こしたのです。
これは味方だと思っていたシリアの意図に気がついたのでしょう。シリア軍を支持する人々と反対の人々はこれに触発され、またしても国内で撃ち合いが始まりました。
シリア軍はすぐさまこれに呼応して、軍を増強し調停を図ります。もめまくりましたがどうにか両者(ウヨクとサヨク)が停戦に合意したのでした。
■シリア傀儡政権 1976年05月08日
今回の停戦では臨時内閣が組織され、閣議決定によって暫定大統領が選ばれました。新大統領に選ばれたのはエリアル・サルキスでした。サルキス大統領はレバノンに駐屯するアラブ平和維持軍を指揮する事になりました。
ところが実を申しますと、サルキス大統領はシリア軍の圧力で選ばれた傀儡大統領でした。あまりにも・・・見え透いた傀儡だったので、またしても戦闘再開です。
■PLOとシリア
イスラーム(サヨク)とキリスト教(ウヨク)の戦いは激しくなったり停戦したりできりがありません。そんな中、PLOはシリアに対してレバノンへの介入停止を要求します。
この発言に、シリアはキレました。シリアは遠征軍をまたしても増強し、なんとあてつけにパレスチナ難民キャンプを攻撃します。これで、PLOとシリアの関係は険悪になってしまいました。 ■アマル設立
1975年の夏、ベカー高原でシーア派の人々40人が殺されてしまいます。The Movement of the Deprived
(Harakat al-Mahrumin)と言う組織を率いていた、イラン生まれのイマム・ムーサー・サドル師 Imam Musa
Sadrはシーア派防衛のために軍事部門としてアマルを設立しました。当初、アマルはキリスト教徒と敵対していたPLOを支持しました。 76年にアマルは単体として独立します。そして、シリアがバックアップを始めましたが、この行為はレバノン・シーア派の人々に反対されていました。それを受けて市民の集合体であるアマルはPLOや、そのPLOを支持しているアラブ諸国(特にシリア)に対し徐々に距離を置き始めます。
■レバノン・フォース 1976年 8月30日
一方キリスト教民兵ですが、実戦経験の高いPLOゲリラやシリア軍と戦う事はなかなか難しく、キリスト教コミュニティーで会議が持たれました。 この会議で、その場に集まった個々の民兵を合併させる事が決議されます。こうして、ファランヘ、自由党、タンジーム党、レバノン防衛隊が各武装部門を合併させ、レバノンフォースが誕生しました。彼らはキリスト教民兵の集合体です。初代のリーダーはファランヘのバシール・ジェマイエルでした。 シリア軍のPLOへの嫌がらせはますますひどくなり、今度はレバノン・フォースと手を組みPLOを攻撃してきたのでした。 ■イマム・ムーサー師、行方不明となる・・・。
そんな中の1978年8月、アマルのリーダーイマム・ムーサー・サドル師がリビアを訪問中に行方不明となってしまいました。(リビアのカダフィ大佐が関与していると言う話もあります。)
あとを継いだのはシエラレオネ生まれの、ナビー・ベリリ Nabih Berriでした。このベリリ氏は西欧化された人物でサドル師の方針に必ずしも沿ってはいませんでした。
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