− パックスジャパニカーナ −


The Lebanon Civil War
レバノン内戦

■レバノン内戦とは?

レバノン内戦とは1975年に始まった、PLOとレバノン人の戦いです。しかし、PLOがレバノンから追い出されたあとも戦闘は終結せず、居座っていたシリア軍とレバノン人の戦いになりました。

そのため、明確には内戦と呼ぶのはおかしいのですが、PLOを支持していたレバノン人と支持していないレバノン人が戦ったので、こう呼ばれています。

戦闘の中心になったのはキリスト教徒民兵、イスラーム民兵およびPLOです。その他に南部地域でPLOと対峙していた元レバノン正規軍SLAもいます。さらに内戦に介入してきてそのまま居座ったシリア軍も内戦の主役でした。

そして、南部に侵攻して来たイスラエル。彼らは内戦に直接介入したわけではありませんが、PLOと敵対しているグループであれば、武器の供与などで援助していました。

さて、こんなレバノンの状況ですが、始まりは何だったのでしょう。そこから見てみる事にいたしましょう・・・。

 

■レバノンに群雄割拠し、キリスト教民兵連合してPLOと激しく戦う

■レバノンの混乱原因
さても、レバノンがなぜこうも混乱してしまったかと言いますと、PLOがヨルダンからレバノン落ち延びてきてそのまま居座った事が原因です。なぜヨルダンから追い出されたのかはブラックセプテンバー事件を参照してください。

PLOはレバノンにやってきて事が落ち着くと、例によってレバノン政府に自分達の保護を約束させました。もちろんアラブ人としてPLOを支持している建前のレバノンは断る訳にはいきません。こうしてレバノンはPLOと敵対しているイスラエルと真正面から事を構えるはめになったのです。

■PLO、イスラエルに越境攻撃
さて、ヨルダンに代わる保護者を得たPLOはレバノン南部からイスラエルに対してゲリラを送り込み始めます。これに対して、やられたらやり返す主義のイスラエルが黙っているはずもありません。

すぐさま、戦闘機に爆装させレバノンへ飛ばしました。レバノンへの越境空爆といっても、イスラエルはレバノンと戦争を始める気ではありません。

狙ったのはPLOの基地(ファタ・ランド)やオフィスです。とはいえこれは表裏一体、誰を狙おうとレバノンの国内を爆撃した事に変わりはありません。当然、レバノン人にも犠牲が出ましたし、パレスチナ人難民キャンプに潜むPLOを攻撃すればゲリラでない難民も犠牲になります。

そしてPLOは待ってましたとばかりプロパガンダをうちます。イスラエルは民間人を殺している!すると国際世論はイスラエルを非難し、いつも通りイスラエルは、『我々の行動は正当なものだ。それを批判する輩は反ユダヤ主義だ。』と誰も正面から文句を言えない言葉を使い、他国を黙らせます。

こんな状況の繰り返しでした。さらにPLOは、例によって居候している身分でありながら、ユニフォームを着て肩で風を切ってレバノン国内を闊歩する始末。なんで、ヨルダンから追い出されたのか分かっていないようです。(イラクやシリアではユニフォームの着用は認められていない。)

■レバノン人の怒り
レバノンは自国がイスラエルの攻撃にさらされ(小さいレバノン国軍ではイスラエルに反撃できない)、PLOが我が物顔で歩いている。国民はさぞ歯がゆい思いをしていたでしょう。

そんな状況の中の1975年4月13日、ファランヘの党員4名が何者かに射殺されます。犯人は敵対しているイスラームか?それともPLOか?どっちでもいい、とファランヘはついにPLOを襲撃したのでした。

そうです、レバノン情勢風雲急を告げていたこのご時世、レバノンには自身の身を守るため武装した民間人、つまり民兵グループが存在していたのです。

彼らがPLOを攻撃したのはいいのですが、市内でマシンガンをぶっ放したもので、国内は騒然となります。さらにもちろんゲリラであり実戦経験も豊富なPLOは即座に撃ち返します。

PFLPはこのファランヘの攻撃に対しベイルートで暴れまくり市内は騒然となりました。市民は家にこもり、危険で出歩く事も出来ません。こうなれば、警察がなんの役に立ちましょう。事件は内戦へと発展していったのでした。

■シリア軍、レバノンに侵攻 1976年1月20日
レバノンにPLOと戦う力があれば、ヨルダンのように追い出したり、ある程度の秩序を保たせる事も出来たでしょう。しかし、戦闘力ではPLOの方が上であり、レバノン軍にさえも内戦を止める力が無かったのでした。

そんな折、シリアです。例によって例のごとく、大シリアとは昔からこの地域を含めた領域であり、フランスによって勝手に引かれた国境線などいらぬと考えているシリアは、またしてもPLOに加担して他国の内戦に介入してきました。

そして、シリア軍の力で一応停戦となったのですが、シリアはこれで自国に引き返すはずがありません。しかし、前回の教訓(ブラックセプテンバー)からアメリカやイスラエルの介入で追い出される事を懸念したシリアは、アラブ連盟に働きかけてアラブ(レバノン)平和維持軍を結成します。シリア軍以外の軍隊も派遣し、隠れ蓑とするためでした。

アラブ連盟もPLOやレバノンを助けるために介入したと言うシリアの建前に反論できず、事実上シリア軍の駐留を認めてしまったのでした。

■軍部のクーデター 1976年03月11日
一応内戦がストップし小康状態のレバノンで、またも事件が起こります。なんと国軍のアハダブ准将(イスラーム)がクーデターを起こしたのです。

これは味方だと思っていたシリアの意図に気がついたのでしょう。シリア軍を支持する人々と反対の人々はこれに触発され、またしても国内で撃ち合いが始まりました。

シリア軍はすぐさまこれに呼応して、軍を増強し調停を図ります。もめまくりましたがどうにか両者(ウヨクとサヨク)が停戦に合意したのでした。

■シリア傀儡政権 1976年05月08日
今回の停戦では臨時内閣が組織され、閣議決定によって暫定大統領が選ばれました。新大統領に選ばれたのはエリアル・サルキスでした。サルキス大統領はレバノンに駐屯するアラブ平和維持軍を指揮する事になりました。

ところが実を申しますと、サルキス大統領はシリア軍の圧力で選ばれた傀儡大統領でした。あまりにも・・・見え透いた傀儡だったので、またしても戦闘再開です。

■PLOとシリア
イスラーム(サヨク)とキリスト教(ウヨク)の戦いは激しくなったり停戦したりできりがありません。そんな中、PLOはシリアに対してレバノンへの介入停止を要求します。

この発言に、シリアはキレました。シリアは遠征軍をまたしても増強し、なんとあてつけにパレスチナ難民キャンプを攻撃します。これで、PLOとシリアの関係は険悪になってしまいました。

アマル設立
1975年の夏、ベカー高原でシーア派の人々40人が殺されてしまいます。The Movement of the Deprived (Harakat al-Mahrumin)と言う組織を率いていた、イラン生まれのイマム・ムーサー・サドル師 Imam Musa Sadrはシーア派防衛のために軍事部門としてアマルを設立しました。当初、アマルはキリスト教徒と敵対していたPLOを支持しました。

76年にアマルは単体として独立します。そして、シリアがバックアップを始めましたが、この行為はレバノン・シーア派の人々に反対されていました。それを受けて市民の集合体であるアマルはPLOや、そのPLOを支持しているアラブ諸国(特にシリア)に対し徐々に距離を置き始めます。

■レバノン・フォース 1976年 8月30日
一方キリスト教民兵ですが、実戦経験の高いPLOゲリラやシリア軍と戦う事はなかなか難しく、キリスト教コミュニティーで会議が持たれました。

この会議で、その場に集まった個々の民兵を合併させる事が決議されます。こうして、ファランヘ、自由党、タンジーム党、レバノン防衛隊が各武装部門を合併させ、レバノンフォースが誕生しました。彼らはキリスト教民兵の集合体です。初代のリーダーはファランヘのバシール・ジェマイエルでした。

シリア軍のPLOへの嫌がらせはますますひどくなり、今度はレバノン・フォースと手を組みPLOを攻撃してきたのでした。

■イマム・ムーサー師、行方不明となる・・・。
そんな中の1978年8月、アマルのリーダーイマム・ムーサー・サドル師がリビアを訪問中に行方不明となってしまいました。(リビアのカダフィ大佐が関与していると言う話もあります。)

あとを継いだのはシエラレオネ生まれの、ナビー・ベリリ Nabih Berriでした。このベリリ氏は西欧化された人物でサドル師の方針に必ずしも沿ってはいませんでした。

 

■イスラエルの侵攻

■アラブ平和維持軍
とりあえず、戦闘状態を鎮めなくてはレバノンが破滅してしまいます。ここにきて、アラブ平和維持軍がやっと本格的な行動に移り、レバノンを制圧。サルキス大統領は内戦の終結を宣言します。

しかし、制圧したと言ってもPLOはまだいるし、レバノンフォースもまだ健在でした。つまり、なだめただけという訳です。そして、小さな戦闘は続いています。

■イスラエルの侵攻作戦 1978年03月15日
PLOも忙しい。民兵と戦い、シリアと戦い、イスラエルと戦うのです。イスラエルはPLOの攻撃に対して大規模な地上軍による侵攻作戦を行ないます。(リタンニ作戦)

この作戦は、国境を越えて飛んでくるPLOのロケット攻撃を国境から射程距離外まで北へ押し上げ、イスラエル北部国境付近の住民の安全を保障するためのものでした。作戦は一週間で終了しますが、なんとイスラエルは完全に撤退せず南部に居座ったのでした。

これに対し国連が介入、イスラエルは撤退させられます。しかし、撤退してしまうとせっかく占領した場所にPLOが帰ってきます。それを防ぐため、イスラエルはレバノン正規軍東部軍管区司令官のサード・ハダット少佐を抱きこみます。ハダット少佐は後に自分の軍を独立させ自由レバノン軍と名づけます。

このレバノン人の軍隊があれば国連も文句を言わないし、PLOも侵入できないという事です。

 

■イラン イスラーム革命

■イラン革命防衛隊
さて、そんな折のレバノン・シーア派にとって最大の事件、イラン革命がおきます。この革命でレバノン・シーア派も大いに活気づきます。

なぜ、レバノンにイラン革命が関係してくるのか?実はホメイニ師がレバノンのシーア派を支援するため、パスダランを送り込んできたのです。パスダラン(イラン革命防衛隊)は積極的にシーア派住民をリクルートし、民兵に訓練していきました。後のヒズボラ、イスラミック・アマルなどです。

ホメイニ師は別にレバノンを乗っ取ろうなどとという意思はありません。ただ、混乱している国なのでパスダランを浸透させる事が容易であったという事でしょう。ホメイニ師は革命の輸出を唱えており、イランのようなイスラーム原理主義国家を増やす事が目標だったのです。

そして、南部を有する自由レバノン軍はこのパスダランやPLOと対峙していく事となるのです。

PLOはイランにバックアップされたシーア派の成長振りを危惧し、なんとアマルを攻撃してきたのです。すでにPLO自身がレバノンの豪族気取りとなっています。

このPLOの自分勝手な行動が余計にシーア派の人々の団結を招き、気が付くとアマルはシーア派のみならずレバノン民兵の中で最大の組織となっていました。

アマルは元々イラン生まれのムーサー師が設立したこともあり、ヒズボラとアマルが仲たがいするまで、パスダランが強力にバックアップしていました。

 

■ イスラエル

■イスラエル対シリア
イスラエルはレバノンの内戦に介入しているついでに、シリア軍とも交戦していました。しかし、直接シリアに攻め込むのではなくて、レバノンにいるシリア軍に対して攻撃を行っていたのです。

ところが戦闘はどんどんエスカレートし、イスラエルもシリアの領土に侵入する事もしばしば発生するようになっていました。もはやこうなって来ると誰が誰のために戦っているのか分からなくなってしまいます。

そして、イスラエルはPLO殲滅のため、1982年06月06日、レバノンに本格的に攻め込みます。レバノン戦争の始まりでした。

■レバノン戦争終結
イスラエルの侵攻作戦の結果、ベイルートから追い出されたPLOでしたが、ベイルート以北(シリアが幅を利かせている)では未だ残党が勢力を誇っていました。しかも、今回の敗戦で以前からくすぶっていた内部分裂が表面化してきたのです。

アラファト議長の主流派とそれに対抗するハバッシュ博士(PFLP)とPFLPを支持するシリア軍の戦闘も行なわれていました。しかし、このシリアの活躍でPLOはますます力を弱めました。

一部のPLO(反主流派)はシリアの庇護のもと、ダマスカスに本部を置き攻撃はもっぱらレバノンから行なっていましたが、ロケット攻撃のような大規模な戦闘は出来なくなっていました。

 

■そして続く内戦

■キリスト教、政権を取るには取ったが・・・。
イスラエルの侵攻作戦はとりあえず終了したレバノンですが、依然内戦は続いています。イスラーム各派とレバノンフォース、自由レバノン軍改めSLA、さらにシリア軍です。

この頃、(1983年)レバノンで起こっていた事はPLOの内部分裂による戦闘やレバノン・ドルーズ族のテロなどで内戦は激化していました。この戦闘には多国籍停戦監視軍も加わっています。

■ヒズボラ
1985年、レバノンを占領していたイスラエルが撤収しました。とはいえ、ベイルートから下がったのみで南部をそのまま占拠したのです。

そして、PLOが実質的に排除されたレバノン東南地域で、シーア派民兵組織ヒズボラが旗揚げされました。彼らはパレスチナ人ではなくレバノン人シーア派の人々です。

イスラエル国防軍とSLAは新たにこのヒズボラと対峙する事となったのです。ヒズボラはレバノンを占領しているイスラエルを敵とし、パレスチナ人を支持すると発表しました。さらに、同じシーア派の民兵、アマルとも敵対していました。

■アウン将軍 1988年
バシール・ジェマイエルの弟、アミン・ジェマイエル大統領が辞任すると、レバノン軍参謀総長のアウン将軍(キリスト教)が政権を取ります。しかし、元々イスラームに理解があった将軍でしたが、アミン大統領から相方に指定されていたのフス氏(イスラーム)と折り合わず、武装抵抗を始めたのでした。

しかも、同じキリスト教徒のレバノン・フォースとも意見が合わず、レバノン国軍を動かし攻撃。一人暴走するアウン将軍は全国民に、レバノンの主権回復のためシリアに対し武装抵抗せよ!と発表します。シリアはこれに怒り、内戦も激しさを増します。

1989年10月 サウジアラビアのターイフで内戦終結ための会議が開かれ一応の合意を得ました。しかし、アウン将軍はまだ暴走していました。

1989年11月24日、前大統領が暗殺され新大統領にハラウィ氏がつきました。ハラウィ氏はアウン将軍をクビにしますが、将軍はこれを無視、自らが首相に就任しました。

そして、1990年、ついにシリア軍とレバノン・フォースの部隊がアウン将軍の部隊に総攻撃をかけます。さすがに、元々勢力の小さかった将軍派はこれで降参します。

アウン将軍はフランス大使館に逃げ込み、亡命を要求します。これ以降将軍はパリからレバノンの支持者達に指令を出すといった活動しか行なえなくなりました。

 

■内戦は終結したが・・・。

ターイフ合意に反対していたアウン将軍が降伏し、ついに合意に乗っ取った国づくりが始まりました。レバノン・フォースは武装解除し、国内の治安はシリアに任せる事となりました。

どう考えてもシリアは最初からレバノンに違法侵攻してきたのですが、結局アメリカに追い出される事もなく、正式に居座ってしまいました。

シリアはレバノンに大使館を持っていません。自分の国と同様に扱っているのです。アメリカ・・・、なぜ追い出さない?イスラエルを特別扱いするのは分かりますが、なぜ戦闘を交えた事もあるシリアを?

そうです、サダムです。湾岸戦争の時にシリアは多国籍軍に協力した見返りに、レバノンに対するシリアの主権を認めさせたのです。この外交の上手さ!さすがは、アサド大統領です。

■イスラエルとSLA
さてもSLAですが、彼らは政治組織のレバノン・フォースなどと違い、自分達の主張がある訳ではなく、ただPLOやヒズボラからレバノンを守るという行動をしていただけです。そのため、依然イスラエルのバックアップを受けつつ、南部を占拠していました。ヒズボラと戦闘に明け暮れている。これは内戦とは違うのか?

SLAからしてみれば、イランとつながっているヒズボラも敵である訳です。イスラエルはSLAがなくなってしまうと、またしてもレバノンに侵攻してヒズボラを叩かなくてはなりません。

このSLA&イスラエル国防軍対ヒズボラの戦いは別の機会に譲るといたしまして、レバノン内戦はこれにて終結いたしました。(一応です、一応)

 

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