文学雑誌「メランジュ」web版

 

アドニス・ブルー (1)
マーガレット・グレース

 序章

 奇妙な少年に会った。

 とある深夜の繁華街から一本外れた狭くて汚い道でのことだ。
 ひどく泥酔したサラリーマンや足許のおぼつかない女性たち,怪しい商売の勧誘の男性ぐらいしか見かけないこの場所に,この空気とはおよそ場違いな小さな子供が何処からか姿を現した。

薄汚いカーキ色のだぶだぶのマントらしき,靴先まで届きそうな丈の長い衣服を身に纏い,これまたくすんだベージュのつばの大きな帽子を深く被っている。
 手には身長に似合わない大きなぼろぼろのブリーフケース。

 不審そうに目をやる道行く大人たちをよそに,彼は舗道の途中で足を停め,そのブリーフケースを開け,何やら次々と取り出し始めた。
 画材道具だった。

 彼はこの裏道に店を広げ始めたのだった。
 やがて自分でセットした折り畳み椅子の前にずらりと完成品が並べられ始めた。
 人物画だ。

 

「坊やが描いたのかい」

「ええ,もし良ければお宅の似顔絵描きますよ」

「似顔絵専門か」

「何でも描きますけど」

「画材は? 水彩か?」

「それも,何でもいける口なんで」

 なるほど,水彩で描かれたものの他にも,鉛筆で軽くデッサン程度になぞられたもの,サインペン画,油彩の額もあり多彩だ。

「それじゃ,あまり時間もないから一つペンで書いて貰えないだろうか」

「お引き受けしました」

 彼の勧めた椅子に腰を下ろして向かい合った。
 その時初めて彼の鋭い瞳にぶつかった。
 彼は初めて顔を上げてこちらを見たのだった。

 澄んだ目をしている。
 純粋で,それでいて何処か不相応に大人びた光を帯びている。
 よく見ると綺麗な顔立ちだ。
 まるで少女のように繊細で,美しい。
 その顔と無造作にやや伸びた髪と薄汚れた身なりとの取りなすアンバランスさが,それでいて不思議に調和を保っている。

 彼は涼しい表情のまま途切れることなく白い画用紙の上の手を動かしている。

「ちょっと,訊いてもいいかな」

「どうぞお構いなく」

「君は何歳なんだい」

「16」

「ほう」

「よく訊かれる質問なもので」

「こんな時間にこんなところにいてご両親は心配したりしないのかい」

 道の前の飲み屋の灯りに照らされて彼の表情は実像のない影絵のように少しずつ新たな顔を見せる。

「親は,いないんだ」

「そうかい」

「自分がどうやってこの世に生まれついたかも知らない」

「じゃあどうして16歳だと――」

「気づいたら,この世界で息をしていて,自分の名前と自分が16歳だということと絵が描けること,それだけしか頭の中に入ってなかった。
 あとは何の記憶もなかった」

 仕上がった絵の代金を払い,簡素な額縁を受け取った。
短時間で見事な出来だ。

「ちなみに,君の名前は何というのか,もし良ければ」

「Jeanne d'Arc」

「へぇ,そりゃ革命でも起こすつもりかい」

「まぁね」
彼は軽く笑った。
初めて見せた笑顔だった。
惹きつけられるような微笑だ。

「その金はどうするんだ」

「今夜の飲み代」
 そう言うと彼は紙幣を握った手を自分のポケットに押し込んだ。

  


 彼の露店の前にひとりの仕事帰りの女性が足を停めた。
彼はそのとき自分で何か描いていた。

「あの…」

 その声に彼は顔を上げた。
その瞬間女性は雷でも打たれたかのようにその場に立ちすくんだ。

続く

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小説「アドニス・ブルー」
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