「Jeanne d'Arc──聖なる処女(おとめ)の名を持つ魔性の美少年──実名も身寄りも知ることなくこの世界に生まれ落ち,帰る場所を持たず彷徨い続けては自分に惚れた女を破滅に追い込む,──しかし心から誰かを愛することはない──」
由尋(ゆうじん)は独り呟いた。
発狂した母親の面倒を見るため彼は名門校を退学し,この孤城のような屋敷で1日中鞠映(まりえ)の世話をする生活を送っていた。
鞠映は自分のことも息子のことも判らず,常に笑ったり泣いたりを繰り返した。
目を離すと,目についた液体入りの容器を片端からひっくり返したり溢れさせる行為を始め,屋敷を水浸しにしようとした。
そんな鞠映を由尋は優しく宥め,いたわりながら嫌な顔ひとつせず献身的に介護していた。
あの日から,この家に受賞作家の取材を依頼する電話と手紙と訪問とがひっきりなしに止まなかった。
由尋はそれを一つひとつ丁寧に断り,彼は今旅に出ています,と回答するのだった。
「だけど僕たちは友達だ。
Jeanne,君は今でも僕のすぐ傍に,僕の心の中にいる──そう,いつまでも。
「Jeanne,君はこのderacineを生き延びる唯一の人間だ。
例え世界が滅びても,君だけは生き続ける,──勿論僕の肉体(からだ)が粉々に吹き飛んでも。
Jeanne,──deracineは君だ」
また1人の女性の下を離れ彼女を廃人に追いやった後,Jeanneは何処の家にも世話にならず数週間何も食べていなかった。
ある日街をふらついていた彼は香ばしい匂いに誘われて,ふらふらと路地裏へ迷い込んだ。
そこで彼の目に留まったのは,無造作に積まれた大量のパンだった。
彼は空腹に耐えかねてそのパンの山の中の1つに手を伸ばした。
パン特有の芳しい香りと,仄かに残る温もり。
堪らず彼がその塊にかぶりつこうとしたそのとき,何かが彼の頭上に振り下ろされ,彼は鈍い音と共に気を失って倒れた。
「このコソ泥め,俺のパンを勝手に食い荒らしやがって」
少年は麺棒を片手に地面に横たわった彼を見下ろした。
「違う,お兄ちゃん,この人は悪くないの,だって廃棄用のパンだよ,これ」
「廃棄用だろうが何だろうが関係あらへん。コソ泥はコソ泥や」
少女は地面に両手をついて,倒れている彼の横顔を覗き込んだ。
「…お兄ちゃん,あれ,この人…」
「何や雪奈どうした?
…あ,こいつまだガキや」
目が醒めると彼は温かいベッドの中にいた。
驚いて上半身を起こすと,少年とその妹らしき少女が心配そうにこちらを見ているのが目に入った。
「あっ,やっと起きたよ! よかったぁ!
それじゃあたし食事取ってくる」
少女は慌てた様子で部屋を出ていった。
「どうや気分は?
さっきははたいてしもうて悪かったなぁ,お前のことコソ泥かて勘違いして」
少年の名前は謙太郎,彼と同じ16歳だった。
彼は他界した父と病弱の母に代わって店の主となり,母と4歳年下の妹の雪奈と3人で小さなパン屋を切り盛りしていた。
「そのカッコからしてお前ずっとメシ食うてなかったんやろ?
いやなぁ,妹の雪奈がな,可哀想だから家で介抱せなあかんってうるさくて。
あいつ一晩中寝ずにお前のこと看病してたんや」
そのとき,ぎしぎし云いながら慎重に階段を昇る音がしたかと思うと,先刻の少女が1人分のお盆を手に部屋に戻ってきた。
「ほら,お腹空いてるでしょ?
さあどうぞ,いっぱい食べて」
彼がスプーンに手を伸ばそうとすると,彼女は自らスプーンを取って器からスープを掬い,一旦ふうふうと息を吹きかけたあと彼の口元へ運んだ。
甘い南瓜の味と香り。滋養豊富な温かい液体が渇いていた彼の喉を久々に潤した。
「旨い」
思わず彼が言葉を漏らすと,彼女はにっこり微笑んだ。一点の汚れもない純真な笑顔だった。
彼女は次にパンをちぎってバターをつけ,同じように彼の口に運んだ。
口いっぱいにあの香ばしさが強烈に広がった。
噛めば噛むほど口の中に甘みが広がり,舌の上のパン生地はふんわりと軽いがたくましい小麦の味わいがある。
「どう? おいしい?」
彼女の言葉に彼はこくんと頷いた。
「このパンは,お兄ちゃんが焼いたうちのお店の特製パンだよ」
「雪奈,俺はまだまだ修行中の身や。
死んだ親父の味にはまだ到底適わへん」
2人の兄妹の身なりや部屋の作りからして,彼ら一家は必ずしも裕福とはいえる経済状況でないことが伺えた。
しかし彼が遠慮をするのも聞かず,彼らはこの日から彼を同居人に加えた。
「麺棒ではたいてしもうたお詫びや」
謙太郎はそう言って聞かなかった。
パン屋の朝は早い。
陽が昇る前に謙太郎たちは起き出し,仕込みを始める。
謙太郎は1人で大量にパンを焼くのを一手に引き受け,母親と雪奈がそれを補佐し店頭に並べる。
雪奈は早朝に作業を手伝ったあとに学校に出かけ,帰ってきてからも店番を手伝う。
そんな慌ただしい風景の中を,彼は手持ち無沙汰のままぶらついていた。
素人の彼が下手に手伝っても邪魔になるだけだ。
貧しいながらも彼らは肩を寄せ合うようにして幸せに暮らしており,1人分の負担が増えたことを全く厭わなかった。
その上彼らは食事だけでなく,彼にガレージを開放して絵を描く場所さえ与えてくれた。
彼らに何かお礼ができないだろうかと,彼はいろいろ考えた。
ある日の夕食の席で彼は1つの提案を持ち出した。
「俺に店の改装させてくれはりませんか」
謙太郎は突然の話に二の足を踏んだ。
「そんなん必要か? Jeanne,パン屋は味で勝負や」
「Jeanneさん,なしてそんなこと言いはるんです?」
雪奈は疑いのない目でJeanneに問いかけた。
「謙ちゃんの言うことも解るんや,けどな,他人が口挟むのも失礼かて判うてるけど,今思うように儲かってへんやろ?」
皆口を噤んだ。
「俺には謙ちゃんの腕の良さがよく解る。
せやからもっと沢山の人にお店に来て貰うて謙ちゃんのパンを買うてほしいんや。
パンの味は買うて食べてみな判らへん。
ほんでもっとお客が店に立ち寄ってくれはるように改装してみたらええんやないかと思うて」
「この専門家にお任せしてみましょう」
母親が口を開いた。
「何もしなければ何も変わらないけど,試してみないことにはどうなるか判らないから」
彼は初めて店を目にしたときからこの店のデザインの欠陥に気づいていた。
こぢんまりとした店の立地条件は悪くないが,全体的にくすんでおり外観の色が映えず,人目を惹きづらい。
入り口の雰囲気も何処となしに入りづらく感じ,先代の持ち味なのか頑固さが全面に出てしまっている。
彼はできるだけ費用がかからないように全て手作りで賄えるようにデザインを練った。
雪奈がその手伝いを買って出た。
彼らはペンキや布地を買い込み,雪奈自らミシンをかけ,閉店後や休業日に2人でペンキを塗るなど少しずつ改装を進めた。
建物の造りは出費を抑えて極力変えないまま,外観や内装が効果的に見えるようにそれまでの暗色系から白とクリーム色を基調,赤と白のギンガムチェックをアクセントに色を変えたり店内のショーケースの配置を外側からも見えるように少しずらし,所々に小物や観葉植物をあしらった。
狭苦しい感じだった入り口に開放感を持たせ,目に鮮やかな緑を並べた。
勿論今までカンバスに絵を描いたことしかなかった彼が店のデザインを手がけるのは初めてだった。
しかし彼の天才的な美的感覚はインテリアデザインにも遺憾なく発揮された。
そしてそれを雪奈はよく手伝ってくれた。
彼の言わんとすることをよく理解し,彼の頭の中に描かれた映像を見事に再現させてくれた。
何気ないことにも,2人はペンキのついた顔を見合わせてよく笑い合った。
ある日買い物の帰りに,2人は改装材料や工具の入った大きな袋を抱えて店までの帰り道を歩いていた。
「ちょっと休憩しよう」
どちらが言い出すともなく,2人は近くの自動販売機でホットココアを買って,道沿いの川の堤防に腰を下ろした。
白く曇った空が何処までも続いている。
2人の前には雄大な大河が静かに滔々と流れている。
「あったかいね」
缶ココアを開けた雪奈が言った。
景色の中に吐き出した白い息とココアから立ち上る白い湯気が融け込んでいく。
その後ろを時折車が通過する以外は,とても静かな冬の午後だ。
「おいしいね」
雪奈が彼の顔を見て微笑んだ。彼はそれに頷き返す。
一口ココアをすすったあと,また川面に目をやる。
甘いココアの味が舌先に広がるのと同時に,彼は今まで味わったことのない感情が心の中に湧き上がってくるのを感じていた。
これまでどの女を腕に抱いたときにも感じたことのなかったとめどのない愛(いとお)しさと,汚れきった自分を全て洗い流してくれるかのような清らかさ。
こうして傍らにいるだけで胸の奥が締めつけられるように痛くなった。
彼は無邪気に微笑む彼女の横顔をそっと見た。
つぶらな瞳と長い睫毛,雪のように白い素肌。
そのあどけない笑顔は,まだ何も知らない。
──俺に惚れた女は不幸になる──
彼は胸の中の切ない想いを奥深くしまい込むしかなかった。
「Jeanneさんは,大きくなったら何になりたい?」
突然雪奈が口を開いた。
「俺? 俺は絵を描くことしか能があらへん。
雪奈は?」
「雪奈ね,お嫁さんになるのが夢なの」
「そうか」
「花嫁さんになって,お花のブーケを持って,真っ白なウェディングドレスが着てみたいの」
「ふうん」
「そのときはJeanneさんも絶対結婚式見に来てね。
雪奈,ちゃんとJeanneさん招待するから」
彼は白い息をひとつ吐(つ)いた。
白い空は何処までも続き,川の向こう岸が見えなくなる程に白く煙って,白い川の水面に融け合っていた。
細々と改装を始めてから1か月が経ち,ようやく外装,内装共に完成した。
その日から少しずつ店内に入ってくる客足が増え,不思議なほど売り上げも上がり始めた。
何よりも嬉しいのは,繰り返し買いに来てくれる客が多いことだった。
「ここのパンを食べたら他のが食べられなくなってね,毎日買いに来てるよ」
「ありがとうございます!」
雪奈は満面の笑みで頭を下げた。
初めは訝しげだった謙太郎も,その効果を認めないわけにはいかなかった。
「やっぱお前は天才やわ」
謙太郎はJeanneに握手を求めた。
ためらいがちに出した彼の手を,謙太郎は笑顔で力強く握った。
「俺の負けや」
「そんなことあらへん。俺はお前の作るパンのイメージを,そのまま店全体のデザインに使っただけや。
有機小麦の全粒粉を使うてるのにふっくらして噛めば噛むほど味が滲み出て,パン本来の甘みがよく出てる,傑作や。このパンありき。
お前のパンなしにこのデザインも,この店も成り立たへん」
「ほな俺とお前は最高のコンビっちゅうわけやな」
謙太郎は笑った。
その顔には職人としての誇りと,若くして店を経営するたくましさが溢れていた。
「お前さんの妹もよくやってくれた」
「そりゃ,俺の自慢の妹やからな」
謙太郎は更に顔をほころばせた。
「器量良し度量良し,飯は旨いし食事・洗濯・裁縫何でも達者,勉強も運動も人並みによくできる。何処に嫁に出したって恥ずかしくあらへん!
…でも,当分は俺の下で店手伝って貰わなあかんけどな。
よっぽどの男でなきゃこんなよくできた妹よこさへん」
謙太郎たちに乞われて,Jeanneは店内に飾る絵を描き始めた。
しかし彼がその絵に署名を入れることはなかった。
それはJeanne d'Arcという画家がここで絵を描いているということが知られてこの家に迷惑をかけないための彼の配慮だった。
彼ら一家は美術には造詣が深くなく,例のコンクールの存在も,グランプリ受賞者が姿を眩まし世間で大騒ぎになっていることも何も知らなかった。
ひとたび彼の絵が店内に並べられると,外からその絵を見つけて興味深げに店内を訪れる客も増えた。
そして商品を買っていくことも多かった。
「是非この絵を頂きたいんですけど,お店で売ってますか?」
「何処に行けばこの絵,手に入りますか?」
「この素敵な絵,どなたが描かれたんですか?」
そう言って訊ねる客も少なくなかった。
彼は店内に顔を出すことはなかった。
ガレージで気が向いたときに絵を描いたり,外に写生に出たりして,作者の顔や名前が知られることはなかった。
しかしこの店に,全く事実を知らない人ばかりが訪れるとも限らなかった。
ある夜,彼は例の悪夢にうなされていた。
「お前か」
彼は言った。
「もう現れないでくれ」
「今回は年下の女ね」
彼の言葉に構わず女は彼を見つめて言った。
「またそんな気もないくせにいい加減に弄んで」
彼は答えなかった。
その表情を見て,彼女ははっとして顔色を変えた。
「…貴方,今度は本気なのね」
彼は何も言わなかった。
「今まで誰1人として──この私にさえ──恋に落ちたことのなかった貴方が,こんな何も知らない小娘なんかに…」
「頼む,あいつには何も関係ない,何もしないでくれ,あいつには──お願いだ,俺はどうなってもいい,俺の前から姿を消してくれ」
「まあJeanne,この私に向かってそんなことを言うのね,貴方がこの私から逃れられると思って?
Jeanne,まさか忘れてないでしょうね,貴方は──私と,貴方と私の子供を殺したのよ」
「おう雪奈,飯できたみたいだな」
「うん。みんな呼んできていいよ。
ねぇお兄ちゃん,そういえば,昨日あるお客さんがJeanneさんの絵を見て,この前世界的に有名なコンクールでグランプリを取った作品に画風が似ているって言ってたの」
「そりゃたまたまやろ」
「でね,その絵を描いた人の名前が,ジャンヌ=ダルクって言うんだって」
「へぇー,そんな偶然もあるもんやな。
じゃ,俺あいつ呼んでくるよ」
「おーいJeanne,朝飯できたぞー,早く来ないと冷めちゃうぞ」
謙太郎はガレージの外からJeanneを呼んだ。
返事はなかった。
「Jeanne,まだ寝てるのか,もうこの朝の早さにも慣れたやろ,早く来ないと飯にありつけへんぞ,おいJeanne」
彼はガレージを開けた。
朝の眩しい光が暗いガレージに射し込んだ。
その光が照らし出したのは,がらんとして何もない内部だった。
謙太郎は目を見張った。
ガレージの隅に,布をかけた大きなカンバス台があるのが目に留まった。
彼が勢いよくそのカバーを剥ぐと,中から純白の美しいウェディングドレスの絵が現れた。
淡いベールの下から見つめるつぶらな瞳は,この世のものと思えぬ綺麗なドレスを身に纏った雪奈のはにかんだ笑顔のものだった。
間に合わせで粗末に作られた机の上に,手紙が置いてあるのを彼は見つけた。
彼は慌てて封を破り,中を読んだ。
その顔は青ざめ,手紙はその手から力なく落ちた。
「謙太郎,すまん。俺ずっと黙ってた。
ずっと言い出そう思うてて言い出せへんかった。
俺はお前ん家のようなええところに世話になる資格のない男や。
「俺は人殺しや。女と子供を殺した男や」