無知だった、愚かだった、頼りなくていい加減だった
でも誰でもない、私が一番私らしかった頃の話を少しだけ
主な登場人物
私:主人公、情けない怠け者 Y:三馬鹿トリオの一人、広島は因島の生まれ。YはやくざのYではない。 O:三馬鹿トリオの一人、野生児。怪しげな友達が多い九州男児。 Yさん:色白、凸凹のはっきりした美人。 Cさん:Yさんの友達。勝ち気な女の子。 Yちゃん:行き付けのスナックの姉御。Yさんの友達。 M先輩:私の良き飲み仲間。単なるお人好し
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第十一話 しゃんとした背筋、はっきりとした凸凹
第十二話 お帰りなさいそして、行ってらっしゃい
第十三話 絶賛の嵐、少し距離が近づいた
第十五話 デヘヘのエヘヘで送別会の夜はふけて
第十六話 酔って寝込んで乗り過ごし、そしてまた寝る
第十八話 無知と無謀の富士登山
第十九話 続・無知と無謀の富士登山
第二十話 仙台・秋保に雪が舞う
「コンチワ」 前にも書いたがM先輩の知り合いのかわいこチャン二人と、スナックで会えばなんとなく声をかけたりするようになった。でも私は人見知りが激しい、美人に極端に弱い、この二つの弱点のため積極的に話したりはしなかった。そう記憶している。相手にされなかったわけではない。ちなみにこの弱点は今も改善されることなく居残っている。唯一酒を飲んでいるときだけがこの弱点から開放される。 後に分かることだが二人とも私と同い年で背筋のしゃんとした美人であった。「下手な男には負けないぞ」という気概のようなものを感じることもあった。間違って声をかけてきたCさんがどちらかといえばリード役で、思ったことと行動が一致する、そんなタイプの女性に見えた。そして、後に私が振られることになるちょっと引っ込み思案な感じの女性がYさんであった。もちろんCさんが間違って私に声をかけて来たとき向こう側に座っていた、つまり凸凹のはっきりした、かなりの二乗な、つまり個人的趣味に合致した、、、早い話がそれがYさんだった。もっとも比較するからおとなしそうな感じもするけど、彼女は彼女で一人でいれば十分に勝ち気な女の子だった。 背筋がしゃんとしていたのは肩の力が抜けた自然体ではなく、肩に力をいれて無理矢理に背伸びをしていたんだと思うようになったのはかなり時が過ぎてからのことで、この頃は単純に「かっこいいな」と思っていた。 こうやって思い出してみると偶然が重なって幸運に知り合いになってそれとなく挨拶をするようなった。ドラマみたいじゃないか、まるで。でもドラマとは違い、特に何がどうするということもなく日々が過ぎていった。 何しろ自分のことしか考えない私は、いやんなるほど鈍感な愚かもので彼女のことをちゃんと見ようともしなかった。自分の気持ちにもいい加減だった。 何も分からず何も知ろうとしない、アンポンタンな日々だった。もうどうしようもないけれど。そんなこんなで時は過ぎていく、社会人二年目が始まろうとしていた。 |
一年間の出向生活が明けた。 入社2年め、やっと自社に帰ってくる。設計で出向しているYは引き続き居残ってる。通常数年は行ってるかんじであろうか。帰ってくると少し会社は変わっていた。私の所属する工場(仕事の内容によって第一から第3までのブロックに別れていた)のリーダーは見知らぬ人であった。 その人に「やっと帰ってきたね。待ってたんだよ」と言われた。働いてもらうぞ、というニュアンスが読み取れる挨拶だったが、待っていてもらえたことを素直に喜んだ。 「あたしたちのこと覚えてる?」なんて可愛い人に聞かれたりした。入社前の研修に名を借りたアルバイト期間の時、毎日コピーをやらされたことがあった。その時一緒だった人だ。もちろん覚えていた。とても可愛い人であったから。もう一人のちょっと、、、かなり年上の女性の方もちゃんと覚えていた。でも「ええっ、まあ」とかなんとかしか言わなかった。でも仲間と認めてもらえたことがうれしかった。 出向中に「お前はどっちの人間だ(出向先の人間みたいだ)」みたいなことを言われたこともあったので少し気になっていたのだ。 さあ、やるぞ。と思ったのもつかの間、直ぐに「一年間沖縄に行ってくれないか」と言われた。「へっ」てなもんだ。 「おいおい、俺は帰ってきたばかりなんだぞ」と思った。まるで旅から戻ってきて玄関先で「お帰りなさい」と言われて居間でくつろごうとしたら「行ってらっしゃい」と言われたようなもんだ。でも命令には逆らえない。 留守の間、自分の変わりに友達に住んでもらう、とアパートの大家さんと交渉し、大学の友達に一年間「沖縄だ」と自慢し同期に「いつでも遊びに来い」と宣言した。 行き付けの飲み屋でも、そんな話をしてたら送別会をやろうということになった。出発は5月の初めと言われていたので、結構忙しくあれやこれやをしたはずなのだが、またもや記憶がない。ないはずだ、大したことはやっていない。何しろ大学の同期で催してくれた送別会の時には、すでに出張の命令は取り消されていたのだから またもや「へっ」てなものである。多分みんなに言いふらしてから一週間ちょっとぐらいで訂正されたと思う。変わりにぽっちゃりとして、まったりと動く少し年上の色白の先輩が旅立っっていった。「君にはうんと働いてもらわないといけないから」が理由であった。 その大学の送別会で「今さら話は御破算になりました、なんて言うなよ」と友に念を押された。ちょっと言い出せない雰囲気だったので、笑って誤魔化した。その場限りの生き方はこのころ既に確立されていた。 この大学の送別会の前にスナックの飲み仲間による送別会があった。この時初めてYさんとまともな話をし、一緒に酒を飲むことになる。 あの出張の話がなかったら、私たちは知り合えていたのだろうか。あのまま出張していたら哀しく短い恋は始まらなかったのだろうか。今でもそう思うことがある。答えようもない問いであると知りながら。 |
「よし、飲みに行くか」 一年の出向が終わったこの頃、Oの部屋に泊まることで話をつけ、Oのジャージを借りていつものスナックに飲みに行った。ジャージはちょっと大きめだった。サンダル履きの軽装である。あの二人、CさんとYさんもいた。Yもいた(どっちもYだけどこいつはただのY)。その頃私たちは一階のカウンターではなく二階で飲むようになっていた。その頃流行りはじめたカラオケが二階にあったので、それが嫌な私は最初は一階で飲んでいた。今では信じられないけどね。店が混んで来ると店長のお願いで常連客が一人二人と二階に移動してゆくのが常だった。 その頃には私たちも常連の仲間入りが認められ「御免ね」と二階行きの命が下るようになっていた。そうなると常連だけで占拠することが可能な二階が気に入ってきた。カウンターにはとても気のいい女のこもいた。人違いを指摘してくれたYチャンである。(とうとう三人めのYだけど、こっちはYチャン、ああっややっこしい)ただ、この時カウンターにYチャンが居たかどうかは覚えていない。店の両端に私たちと彼女達が陣取っていたと思う。いつものように簡単な挨拶をしてそれぞれ勝手に飲みはじめていた。 そしていつものように加減も分からず馬鹿飲みするために、いつもの通りの「戻らぬ人」となった。次の朝が知らぬ間にやってきた。意識は戻ったが記憶は戻らなかった。 「あれっ」と思った。この後どうも二人の私に対する態度が違う。随分親しげなものになったような気がした。理由はすぐ分かった。Yが教えてくれた。「お前、何も覚えとらんのか?」と話してくれたことを信じれば。 あの日酔った私がカウンターの上に上ってしまい、這い這いを始めたので、止めさせようとしたYが私のジャージのズボンを引っ張った。借り物で少し緩かったんだ。決して狙ったわけではなかったんだ。それだけに、コメディー映画のようにズボンとトランクスがずり落ちたらしい。見事にストンと。結果、白く魅力的な臀部、早い話がお尻を彼女達に見られたわけである。「キャー、かわいーい」と大受けであったらしい。Yは「すっごく、喜んでたぞ」と言った。これが世に有名な「おしり、とっても可愛いわ」事件である。 もっともYの話を信じればである。彼女たちには真相を聞くことはしなかった。「俺の穴(ケツ)見ただろう」はさすがに酔っていても聞けなかった。「穴(ケツのアナ)まで見えました」なんて言われそうだったからね。 多分これが今までで一番女性に受けた時なのではないかと思う。いつものことであるが、こういったおいしい話を殆ど本人は覚えていない。それでいい。きっと覚えていたら酒を断ってしまうだろう。 それほど愚かな日々を過ごして来た。その分輝いていた。あの頃の私はこのぐらいのマイナスはプラスにしてしまう「しなやかさ」と「柔らかさ」を持ち合わせていた。きっとそれが若さってことなんだ。時が過ぎ「したたかさ」だけが武器になってしまったことがわびしくもある。失ってしまわなければ気づかないなんて、なんて愚かなんだろう、あの頃も今も。 |
「私たちも参加したい」 かわいこチャン2人組みは「おしり、とっても可愛いわ」事件が功を奏してか、私の送別会の話をしていた時もカウンターの端から声をかけてくれた。なんといいひとたちではないか。美人で突っ張っていたけど、お高くはなかったのだ。飲み屋のカウンターでお尻を見せるような男をさげすむこともせず、以前と同じように接してくれたのだ。天使みたいな娘たちなのだ、今考えると。 それなのに私ときたら今でも、彼女たちのフルネームを知らない。彼女たちも言わなかったし(?)私も聞かなかった。一度名前を書いてもらった紙にはでたらめが書いてあった。怪しい人間には教えない、というわけではなく冗談だったようだ。どうもそのころ二人が好きだった人の名前を拝借したようだった。 そんなことは別にどうでもよかった。話は十分通じた。道で会っても、店で飲んでいても問題はなかった。ついでに言えばYさんの住所も電話番号も知らない。どうだ、驚いたか。本人が驚いているのだから、赤の他人のあなたが驚かないのは不自然だ。遠慮せずに驚きなさい。 唯一誕生日だけは教えてもらった。一月生まれで私よりわずかばかりお姉さんだった。「むっ、負けた」 そんな男だったんだ。あの時も、そして今も。なーんも知らないで、一体私は何をしようとしていたのだろう。不思議だ。 彼女の勝ち気さが単なる強がりだなんてわかるはずもなかった。面倒なことから目をそらしていたいって思っていた。 その頃の私は煙草を吸う女性、生意気な女性が嫌いで、彼女はそんな感じのひとでもあったんだ。それでも少しずつ飲んで少しずつ話すようになる。最初は「体に悪いよ」と軽く、後に「煙草をのむな」と怒った。でも彼女は決して煙草を止めなかった。 単に勝ち気に見せていただけなのだと今は思う。もっとも単なる私の思い違いかもしれない。私がそう思いたいだけかもしれない。 曇りガラスの向こう側の景色のようにぼやけてしまった記憶がある。失うことが分かっていればもっとちゃんと覚えておいたのに。 今でも胸が苦しくなる。時にひりつくような痛みを感じる。無神経な私の言葉で、何度か深く傷ついたに違いないという後悔の念がそうさせている。どうして好きな子の電話番号も聞かなかったのだろう。住所も名前も電話番号も知らずに恋が出来ると思っていたのだろうか。 君は今でも煙草を吸っているのだろうか。「飲み過ぎは良くないよ」今ならそう言ってあげられるのに。 |
3馬鹿トリオとかわいこチャン二人。 出張の話は御破算になったけど、送別会だけはやった。 おおっ、なんと両手に花だ。(他のメンバーもいたんだろうが、記憶に無い。記憶にないからいないも同じだ)確か右にCさん、左にYさんだった。一次会はいつものスナック。何の話をしたかは忘れた。多分自己紹介から始めたんだろう。続いて季節の挨拶。趣味の紹介。将来の夢と続けば、なんの事はないお見合いみたいだね。でもそんな話は多分しなかった。余り自分の事を話すのが好きじゃないから。気を許した友か、気が緩みすぎた飲み過ぎの時しか自分のことは話さない。 じゃあ何の話をしたんだ。名前を教えてもらって「ふん、ふん、成る程」どんな仕事をしてるのか「ふん、ふん、成る程」年も教えてもらって「ふん、ふん、成る程、同い年ね」Cさんが革の加工みないなことをしているのは覚えているのだが、肝心のYさんの仕事は覚えていない。 とにかく、初対面(に近い感じだった)の人とは素面だとうまくしゃべれなかったりするので、まず一気呵成に酒をあおるのがこの頃の常であった。この時も早く酔おうと頑張った。 かいあって、記憶が定かでない。でも幾つか失敗したことは覚えている。 一つはYさんの名前を間違ったことだ。中学の時好きだった子の名前と同じだと勘違いして「xxxチャン」と読んだら「今、なんて言った」と二人から突っ込まれた。「えっ。xxxさんって言った」 「▲▲▲です」と怒られた。うーん、これ一次会始まってすぐのことだと思うけど、好きな子の名前も覚えられないんじゃ飲み過ぎだよね。でも飲まないとしゃべれないし、飲みすぎると「戻らぬ人」になるし人生は不可解なのだ。単に私だけの問題かもしれないが。 でも、それがかえって良かったのかもしれない。やっぱり肩に力が入っていたんだろう。この失敗で普通に戻った。もちろん酒が入った時の普通だからちょっとテンションは高かっただろうけど。 YとOは完全にほったらかしだ。「なんでこいつら居るんだ。邪魔なのに」なんてひどいことを考えたりした。と言えればまだいいほうで、まるっきり視界の外であった。 そのうちCさんが私の右頬にチュっとやった。「おおー、人生は光に満ちている」お尻一個でチュなら安いもんだ。「あー、あたしもー」と言ってYさんは左ほっぺにブチュときた。「おおー、至福の時。未来は手に届く距離にある」お尻一回でブチュならおいしいもんだ。 いやぁ、本当によかった。あんなにもてたのはあれが最初で最後だ。あれで全ての運を使い果たしてしまった気がする。結局実力が無かったのでしょうがないことだけど、いやぁこれ以外は本当にもてなかったなあ。 この後Oの知り合いの店に行って飲み直しということになった。二人は2次会にも付き合ってくれた。天使のような女性だ。Yが2次会にいたかどうかは覚えていない。悪魔のような私だ。 2次会に向かう時も両手に花状態が続いていた。両腕を組んで道の真ん中を颯爽と歩いていた。でも腕を組んでいたのではなく、二人の腕を後ろから自分の腕で掴んで勝手にズンズン歩いていた。まるで警察官が若い女性二人を補導しているようなもんだった。多分、「逃がさないぞ」という気持ちの現れなのだ。「放さないぞ」という決意の表明なのだ。 でもYさんが「これじゃ変だから」といって自分から腕を組んでくれた。「あー」。同じくCさんも組み直してくれた。「うー」。やたらうるさいけど、これは全て心の中の叫び。実際は「デヘヘ」てな感じで右のCさんを見て「エヘヘ」てな感じで左のYさんを見て、一人悦に入っていた。なんて優しいんだろう。これで惚れないわけがない。これで惚れなきゃ男がすたる。そう思ったかどうかは分からない。でも、このまま永遠に歩いていきたい。そう思った春の夜である。 YとOには本当に悪かった。きっとちっとも面白くなかっただろうな、あんな飲み会。 |
会社は川崎にあった。 あいも変わらず南武線で武蔵小杉駅まで通勤した。ここで東急東横線と乗り換えが出来る。会社にはここから渋谷に向かって一駅。でも会社にはここから歩くことが多かった。行き付けのスナックはここから横浜に向かって2駅だっただろうか。 3バカトリオ以外とも飲んだ。同期だけではなく、お人好しのM先輩達のグループとも飲んだりした。飲んで酔って遅くなって終電で帰ることも、終電に乗り遅れることもあった。南武線の途中止まりで登戸駅からタクシーというのが多かっただろうか。飲み代とタクシー代が同じくらいかかったりしたこともあった。 自分でも不思議なのだがどんなに前後不覚になっても、朝はちゃんとアパートに戻っていた。ドアが開けっぱなしでシャツに泥がついていてもアパートには戻っていた。人間には帰巣本能があることを知った。そして、少なくとも自分の居場所として生まれた横浜の親元ではなく、汚れたアパートを選んでいた。 今日はそんな前後不覚の失敗談の一つを話そう。 季節は冬。多分社会人一年めか二年めだと思う。多分いつものスナックで飲んで武蔵小杉駅で東横線から南武線に乗り換えたんだと思う。「終電に間に合った」と安心して電車に乗り込み「寝るなよ、寝たら乗り過ごすぞ」と自分に言い聞かせながらもうちょっとで降りる駅に着くと思った頃から爆睡モードに入る。 酔っ払いってどうして、着く直前にこらえきれなくなってウトウトし、しかもドアが閉まり始めると目が覚めるのだろう。気付いたときには後の祭りなのである。今も解けない謎だ。ところがこの時は疲れていたんだろうね。完璧に乗り越してしまった。電車はガラガラでいやに温かだった。 遠い向こうから押し寄せる波のごとく、胸を押し上げる黒い固まりが夢の底から迫ってきて思わず、跳ね起き窓を開けて吐いた。電車から顔を出して吐いた。吐きながら「ここは、どこだ」と景色に目をやった。暗く淋しい景色だった。他に目に入るのは今夜摂取したはずの変わり果てた吐しゃ物だけだ。電車は止まっていた。 車内に吐かなくてよかった。周りに人が居なくて、本当によかった。まだ、つきはある。 「寝ちまった」と気づいて、電車を降りた。車庫に入るために立川まで行かない途中止まりの電車だったのだ。幸いにも戻りの終電はまだあった。つきはまだある。 かなり冷え込んでいた。酔いが覚めはじめていて、いつもの不快な頭痛が始まっていた。ホームには殆ど人が居なかった。ベンチに腰を下ろし少し休んだ。今度の戻りの電車に乗らないと、この寒空でタクシーを捕まえなくちゃいけないので、しっかりしろと自分にカツをいれた。乗り越しも車内で吐いたのも初体験だった。「こんなことではいかん。人間が堕落してしまう」と再びカツをいれた。カツを入れたことで安心しその後ベンチで熟睡した。腰掛けモードではなく。ベンチに上がり込んでのお休みモードであった。いやはや。 私昔からやっちゃいけないと言われるとやりたくなるんだよね、トホホ。 「モシモシ、最終ですよ」 「あぁ、、、はい。ずびません、ねぇ」ほとんど老人だ。霞む意識の中起こしてくれた人に礼をいい、戻り電車に乗り込んだ。最後までついていた。なにしろ起こしてくれたのは、20代の女性だったのだから。駅員さんではなく、同じ最終を待つお客さんなのだ。言葉から素面の方であったと記憶している。素面の女性が、駅のベンチで熟睡している酔っ払いに声をかけてくれたのだ。感謝感激なのだ。ここから自分の駅までは3つ。今度は寝なかった。 後になってこの事を思い出す度に起こしてくれたくれた人に感謝する。冬の夜の寒さに小さくなって寝ていた自分に声を掛けた勇気を称える。あなたは偉い! こんな失敗をしたにも関わらず、これ以後も何度か乗り過ごした。この駅が立川駅までいかない電車のターミナル駅だったこともあり、よく利用させてもらった。最初はタクシーで、後には鼻歌まじりでアパートまで歩くようになった。慣れとは恐ろしいものである。乗り過ごさない方に学習能力を使えばいいのに、乗り過ごしても大した事はない、って学習しちゃうのが私の愚かなところなのである。 |
あの頃飲んでは詩を書いた。 何が楽しかったのか、行き付けのスナックで飲んでいても紙とペンを借りて何か書き散らかしていた。数行程度の詩とも呼べない繰り言だ。 嫌なやつだなあ、私。他人がやっていたら、顔をしかめて「シッシッ」てなもんだ。 まあ、自分の世界に入り込んでいたのだろう。さすがに素面じゃやらなかったが、ほろ酔いになると書いていた。書いて持ち帰ることもあったし、女の子にあげたりもした。意外と人気があったりした。 もらう方も酔ってるからね。それだけのこと。間違っても男にはあげない。女性は酔うと優しくなるけれど、男は狂暴になるやつが多いから。 そんなこんなで結構自分ではいい気になって、「これあげる」とかいって、そこいらじゅうに配っていた。 相当、かっちょ悪い。アパートでも酔うと書いた。週に一つか二つ。こっちはちょっと思い入れがある。学生時代から、思い付くことを書き連ねていた、その延長として詩を書いた。ほとんど叙情詩である。 ほんとに嫌なやつだなあ。我ながら情けない。 もちろん誰にも見せる気はないので安心して欲しい。いくら恥知らずでも、自分の詩をHPに載せるほど無神経ではない。詩を書く程度には無神経なのだが、、、(あのエッセイはなんだ!って怒らないで下さい) 銀行なんかでくれるメモ帳に書いては、配り。配っては書いた。殆ど同じような内容だった。どこかで見た文章ばかりだった。 「前にも同じようなやつ書かなかったか?」なんてYに聞かれた。男友達はみな冷血漢なのだ。あげるつもりもなかったけど、くれと言われれば喜んで書いたのに。 この頃嫌っていたカラオケを始める。殆どマイク無しでいいと言われた。歌うのではなく、がなるのだ。しかも歌うのが松山千春だったりする。他人迷惑でしかない。他人がやっていたら、顔を歪めて「シッシッシ」てなもんだ。向こうへいけ、この野郎と石を投げられてもしかたない。 それでも、時々はまじめに歌った。女の子の誕生日なんて時には、覚えたての「ゴンドラの歌」を歌った。あの♪いのち短し〜、恋せよ乙女、ってやつだ。この「乙女」の部分を女の子の名前に読み替えて歌をプレゼントした。 いやー、相当嫌なやつだな。他人がやったら、顔面パーンチに飛び後ろまわし蹴りの二連発だ。いやっ、そんなもんでは済まない。お尻ぺんぺんにアッカンベーだ。もひとつおまけににぎりっぺ!てなもんだ。 生活は、まるで貧乏学生のようだった。スナックの側の居酒屋で食べるもつ煮込みがご馳走だったりした。もちろん、何を買うでもないので銀行の残高がどうのとか、借金がどうのとかではなかったが、衣食住でいえば今の学生の優雅さには遠く及ばない。 何も買わない。だから身の回りのものは全然増えなかった。殆ど引っ越した時のままだった。箪笥はもらった。机ももらった。扇風機は隣の人から借りた。食器ダンスまでもらってしまった。後には洗濯機ももらった。うーん、これで自立していたと言えるのだろうか。 Tシャツで会社に行った。ネクタイはしなかった。スーツは転職するまで持っていなかった。ううーん、まっとうな社会人と言えるのだろうか。もっともこれらは今も大して変わらない。うううーん、進歩がないのだろうか。 確信犯ではない。少なくともあの頃の私は。何も考えないで、学生の頃のまま暮らしていた。口では生意気なことを言っても、何も出来ない愚か者の戯言だった。 本当は好きだったYさんにこそ「ゴンドラの歌」をプレゼントしたかったのに、それも果たせずにいる。彼女の誕生日が来る前に振られてしまったからだ。 あれ以来ゴンドラの歌を歌ったことはない。きっと、これからもないだろう。 |
一度も登らぬ馬鹿、二度登る馬鹿。 夏休み、Oと富士山に登った。九州は熊本の片田舎の出身のOに付き合ったわけだ。もちろん、私も初めての富士登山だ。二人ともいい加減で山をなめている。富士山ぐらい、ちょちょいのちょいだ、てなもんである。 同期の車を借りて、Oの運転で一路富士に向かう。私は運転が出来ないので全てO任せである。もちろん、ナビゲーターとしても役に立たない。何しろ目が悪くて標識が見えた時にはもう右にも左にも行けない状態になっているし、方向音痴で地図と実際の位置のすりあわせが出来ない。つまり全くの役立たずなのである。 そんな私に出来ることは、車内を明るく楽しく保つことである。しかも素面でである。結構辛い。昔から辛いことがあると体が拒否反応を起こす。例えば眠くなる。寝てはいけないと思うとやたら眠くなるのは授業中だけではないのだ。助手席にいても同じなのだ。ふあーあ。 そうこうしているうちに、もう富士山は5合目だ。なーんてこともなく無事御到着である。Oの計画ではこの後飯を食って、後は登るだけである。簡単すぎて計画とも言えない。一応、8合目あたりの山小屋で仮眠をとって朝早く小屋を出発し御来光のちょっと前に頂上につく予定。 夏とはいえ、さすがに肌寒い。トレーナーにウィンドブレーカーを着る。雨に遭うといけないので安物の雨合羽を買う。Oはいつのまにか酸素なんか購入している。意外と慎重なところもあるのにちょっと驚く。 それでも二人とも周りの人と比べると、どうみても山をなめているとしか思えない軽装である。実際この格好では寒かった。この格好で夜明け前には零下になるという頂上にいこうというのだから。ウィンドブレーカーは風をブレークするというよりは風でブレークされてしまうような安物だった。靴はどうみても運動靴としか呼べないような安物だった。何事もなくて本当に良かった。 登りはじめて10分で後悔しはじめた。これ相当きついぞ。毎日苦労しているのだから夏休みにまで苦労なんかしなくていいんじゃない。 「おい、まだ先は長いか?」「まだかって、今登りはじめたばっかだろう」 さすが野生育ちはこの程度ではびくともしない。周りを見てみると小学生もびくともしていなかった。私だけがびくともしていた。トホホ。 「何時ごろ山小屋に着く?」「6時ごろには着きたいな」 げげっ、まだ5時間もあるじゃないか。だまされた、Oにだまされた。とにかくなんだかんだ言いながら結構登ってきてしまったので、今更引き返すわけにはいかない。頑張ろう、男じゃないか。そんなことを考えたのが登りはじめて一時間もしない地点だった。 最初は辛いけどそのうち慣れてきて段々気持ちよくなるさ。ほら、清々しいもんだろ。なんて嘘だった。ずーと辛かった。口数はとうに少なくなって不機嫌になってきた。楽しみは何合目という山の標識だった。ところがこいつがわけが分からん。6合目まで来た、と喜んでいるとまた6合目がある。なんだか分からないが、あっちのは昔の6合目なのね。今はこっちの新しい6合目なのね。どっちがどっちでもいい、私には関係ない。正しいの一個だけにしてもらいたい。6合目の次の標識が見えてきたら誰だって7合目だと思うじゃないか。おおー、今度は早い。山道に慣れて歩くのが速くなったのかしら、って思ったのにまた6合目なんて一体今までの努力は何だったの。おせーて、おせーて。 それでも、はーはー、何とか7合目。「おい、酸素だ」Oが無理矢理私に酸素吸入させる。「うーん、生き返った」偉い。よく酸素を買うことに気がついた。この一点で私をこんな苦行に引き込んだことは許してつかわす。だから「もうちょっとだけ吸わせて」 もう暗くなってきた。みんな用意がいい。足元をライトで照らしながら慎重に歩いている。こちらはOが用意した懐中電灯が一つだけだ。全く山をなめている。 負けてたまるか、ふーふー、とうとう8合目。山小屋だ、山小屋だ。なんだかそこらじゅうが山小屋だ。ここはいいぞ。ここしかないぞ。どの小屋もここが一番だって書いてある。一番だらけの8合目なのだ。 「どこでもいいからはいろーぜ」「もうちょっと上に行っておこう」 うーん、意外と堅実なのねO君ったら、見直しちゃったの私。でもいい加減にしようぜ。 「じゃ、この辺にしておこうか」やった。やっとお許しが出た。 山小屋は胡散臭く、湿っぽかった。それでも休めりゃ御の字だ。休めりゃね。確かに雨露はしのげるかもしれないけれど。横になることは出来るけれど。寝返りさえうたなければ。見知らぬ横の人と接近遭遇するのを気にしなければ。かわいこちゃんとなら幾らでも接近遭遇したいけど、血縁関係も肉体関係もない赤の他人の男とは接近も、まして遭遇もしたくはなかった。これじゃ満足に寝られないな。しょうがない、体を休めるだけにしておこうと決めた。異常に高い食事を取りちょっと一休み。 「明日は早く起きて頂上に登るぞ」「早くって何時ごろだ」「日の出が5時頃だから2時頃かな」 なんとも雑ではあるがこれでも一応明日の打ち合わせのつもりである。他の用も済ませておこうと少し脇道にそれた場所にあるトイレに行った。用を済まして見上げれば空は満点の星、眼下を見れば夜を徹して頂上を目指す人の群れ。ライトの点が糸のように連なって伸びていた。おおー絶景だわい、って一人悦に入っていると、いきなりOが私のズボンを降ろした。 あれー、今まで一度も危険を感じたことはないのに、今になってどうして。さすが野生育ち、自然の中だと歯止めが利かなくなるのね。涙ぐみ許しを請う私に一切お構い無しに、Oは私のおしりめがけ筋肉痛対策のスプレーを勢いよくかけた。シューシューと万遍なく。ひゃっこくて気持ちよかった。でも前の方は駄目よ、ひりひりするから。優しくしてねってすがる私には目もくれずに、自分にも掛けろといってズボンを降ろした。無神経のくせに用意がいいなと思った。でも自分で考える頭は無いはずなので誰かに教わってきたのだろう。何故か、心配でほっておけないようなところがOにはあった。憎めない愚か者と呼ばれていた。 見上げるとすぐ上の道を頂上を目指して歩く人の群れがあった。お尻を出したまま夜空を見あげている私たち二人連れに気付く人はいなかった。 |
深夜山小屋を出発。 頂上を目指す人の群れは途切れることはない。多分夜を徹して登っている人も多いのだろう。ご苦労なことだ。何を好き好んでこんなことを、なんてことはもう考えない。それほど元気は残っていない。 最後の胸突き八丁を越え、無事に頂上につく。寒い。動いていた時はまだ良かったがジットしていると、寒い。富士をなめた分だけ寒さが身にしみ後悔が深い。 とにかく御来光までまだ時間はある。疲れと寒さをしのぐために、でっかい山小屋に入る。はなはだ変な物言いだが、山にあればみんな山小屋なんだってことで許していただきたい。 寒いからここを動きたくなかった。御来光も出てから見てもいいじゃないかと思ったのだが、どうやらそういうものではないらしい。まだ時間はあるはずなのに、Oが「行くぞ」と立ち上がった。まわりを見てみると確かに人の流れが出来ているようだ。場所取りの意味もあるのだろうが、何ともご苦労なことだ。もちろん私たちもしっかり場所を確保する。日の出前である。一番寒い頃だ。横の岩肌、割れ目を覗いてみたらなんと、氷柱があった。 やはり、私は富士をなめていた。怒られてもしかたないと観念した。幸いにも誰もが自分のことで忙しく我々は叱責されることはなかったのだが。 こんなに我慢したのに雲は厚く、日の出は見れなかった。話としてはこっちの方が面白いのだが、これが一夏に何回も無いような晴天に恵まれ、神々しいまでの朝日であった。じわじわっと来て、あっという間に登り切った。 まさに瞬間芸。最初の一発でどっと笑わせておいていきなり幕を下ろしたようなものだ。ちょっと拍子抜け。実際に御来光を拝めない人も大勢いるようなのだが、どんな気分になるのだろう。泣きっ面に蜂どころの騒ぎじゃ済まないような気もする。Oに言わせれば「俺のおかげだ」となる。「神の恵み」となる。 まあ例え雨が降ったって「どしゃ降りにならないだけましだ」「俺のおかげだ」ときて「神の恵み」になるのだから私にとってはどうでもいいことなのだ。頂上の周辺を歩いてみる。まだ雪が残っていた。へー、ほーとうなっただけですぐにすることが無くなってしまった。飯も食ったし、じゃ降りるかってことになった。 自分で降りてみると分かるが下から登ってくる人の疲れた顔を見ると「頑張って」「もうすぐですよ」なんて声をかけたくなる。もちろん優越感からだ。「もうこちとら大変なことはみーんな澄ましちゃったんだもんね」って気持ちがふつふつと沸き上がってくる。登っている時うるさいくらいに声を掛けられたのだが、真相はこうだったんだ。妙に納得した。 まだまだ結構先はあるって分かっていながら「もうちょっと」なんて声を掛けるなんて卑怯者だと憤慨してはいけない。疲れている人に「結構先ですよ」なんて本当のことを言うほうがたちが悪い。そういうものだ、世の中は。この時少し大人になった気がする。 登るのは大変だったが降りるのは早かった。砂走りというのだろうか。砂とも砂利とも言えない石だらけの急斜面を一気に駆け下りた。とにかく一度走りはじめるとなかなか止まれない。転んだりしたら大変なことになる。ここを野生児のOは嬉々として疾走していった。私のことなど眼中にないという感じだ。もちろん私も負けてはいられない。下手に負けでもしたら後々までうるさく言われることが分かっていたからだ。 何回か小休止をしたが、一時間もしないで降り切ってしまったようだ。記憶がほんとかどうかあまり自信はないのだが、途中誰にも抜かれなかったのだけは確かだ。 無謀である。無知は無茶に、そして無謀へと、とどまることを知らなかった。 下について見ると靴下も靴もぼろぼろになっていた。使い物にならないぐらいのぼこぼこだった。こんなに足が汚れたのは小学生の時ぐらいだってくらいのもんだ。気分は良くて、気持ちが悪かった。早く足を洗いたかった。体中砂だらけだった。鼻の穴の奥ふかくまで砂が潜り込んでいるのに気付いたのは風呂の中であった。よく無事だったと思う。危険だなんて全然思わなかった。いい気なものである。 運が好かっただけでOのおかげではないとあえて断言しておきたい。Oはそう思っているかもしれないが、、、 この後、ピーカンの夏空の下、川崎に帰ってきた。どうってことも無く無事に帰ってきた。坂道に停車中、車内に紛れ込んだ蜂に太股を刺されたOがブレーキを放したため信号待ちの車にぶつけたぐらいのもので、別にどうってことはない。「神の御加護」はなかっただけのことだ。 お釜をほられた車の人は、大したことはないと許してくれたのに、車を私たちに貸した同期のやつは「お前らには二度とかさん」とOだけでなく私まで許してくれなかった。「神の御加護」がなかったというだけの話である。 とにかくえらく疲れたぞってのがあの夏の日の感想である。 |
そのスナックは駅前のY字の分かれ道にあった。 大きな時計が目印だった。ドアを開けて、店長に挨拶して2階に上がる。大抵顔見知りの誰かいたので、軽く挨拶してボトルを出してもらう。ボトルが空の時にぶち当たると、運の悪さを嘆いて新しくボトルを入れる。3バカトリオ共通のボトルである。飲み代は割り勘だった。こんな時は誰か来てくれることをひたすら願うのみだ。一人で勘定することになると結構痛かった。 その頃どんなことを話していたのかあまり記憶はない。埒もないことを、飽きることなく話していたのだろう。 ある時、有線で曲が流れてきた。「広瀬川流れる岸辺、思い出は帰らず」青葉城恋歌である。 それを聞いたOが「これはいい、明日は仙台に行こう」と言い出した。何を馬鹿なことを言ってるのだ。そう言えればいいのだけれど、酔いが我々を後押しし「そうだ、よし、明日は仙台だ」「決めた、広瀬川を見に行くぞ」って話はどんどん大きくなっていく。まあ、青春ってやつだよね。 深夜まで飲んで寿荘に泊まった。次の日「おい、本当に行くのか」「ええっ、まじ」なんて言いながら、手早く身支度を整える。整えるったって着替えのパンツぐらいだ。OとYは問題無いが、一体私は着替えをどうしたのだろう。まあ、青春ってやつだよね。 土曜の昼過ぎ、3バカトリオは勇躍仙台に向けて旅立つのである。季節は秋、行き先は仙台。決まっているのはそれだけ。3人とも仙台は初めてであった。とにかく行けばなんとかなるとはOの言。 私とYは半信半疑だが、取りたてて反論する気もない。なんとか成る気もするし、なんともならないかもしれないとも思う。いや、多分なんともならないよな、あなたもそう思うでしょう?。 Oにはいつも痛い目に合わされていた。でも、そんなこと考えてるより行ってみた方が早い、ってなもんだ。一人じゃなんともならなくても、3人ならなんとかなるさ。 金曜の夜飲みながら、話した。土曜の朝寝ぼけながら、身支度を整えた。昼過ぎには広瀬川の橋の上から水の流れを眺めてました。 「なんじゃ、こりゃ」が感想。うーん、こんなもんだよね現実は。青葉城だ、次は青葉城なのだ。ふんふん、なるほど。伊達正宗がいた。「じゃ、次」てなもんだよ。 さて、今日どうするってことになって、観光案内の地図を見ながら「そりゃあ、温泉でしょう。なんてったって温泉」 異論なし。「じゃあ、この秋保温泉ってのは」「おお、秋保温泉」「温泉、温泉、ワーイ・ワーイ」てなもんで決定。バスに乗ってズンズン進む、ドンドン進む。紅葉が奇麗だ、と言ってはワーイ。川が流れている、と言ってはワーイ。そんなこんなで、ワイワイはしゃいでいるうちに無事にバスは温泉郷に着く。 着くには着いたが、なんかバス停だけがぽつんとある感じだ。でも向こうに幾つか宿があるじゃないか、と歩き出す。Oは相変わらず何にも考えてない。 私は早くも不安になる。来る前に電話で予約をしておくべきだった。もう悔やみはじめている。心配だけは手回しのいいことで。 「いっぱいなんですよー」「そうですか」を幾つか繰り返す。「おい、本当に大丈夫か?」Yも少し焦りはじめる。Oは相変わらずなんとかなるとのたまってる。 「この時期予約無しじゃ、無理だねぇ」と言われてしまい、さすがにちょっと青ざめる。 「どげんしてくれるの、ねえちょっと、どげんしてくれるの」てなもんだ。 「どうするんだよー。引き返した方がいいんじゃないか」今なら仙台市内に戻って泊まることも可能だと思われた。バスは極端に便数が少ないので下手すると仙台市内に戻ることだけでも大変なのだ。 「もう、一軒向こうにある。あすこに行ってみよう」 確かに他の宿から少し離れている所に宿があった。何もない殺風景な道をその宿目指して3バカが歩く。結構疲れていた。仙台に行くんだの気合はとっくに失せていた。 なんと、ちらちらと雪が舞ってきた。「ああ、奇麗だ」なんて余裕はなかった。急げ急げ、早く歩けだ。 でっかい玄関に入り恐る恐る今日3人で泊まれるでしょうか、と聞けば。 「あらー運がいいね、お客さん」聞けばキャンセルが入り、部屋が空いているとの事。助かった。 「だから、心配することないって言ったじゃないか」とはOの発言。このやろう、後で見てろ。 でもまず冷えた体を温めたいのね。風呂で体を休めたいのね。その後お酒を飲みたいのね。美味いものを腹いっぱい食べたいのね。出来ればおいしい鍋を食べたいのね。 風呂は狭かった。でも窓を開けると様相は一変した。湯気が流れ冷気が入り込む。 「うー寒い」窓から下を覗き込めば断崖絶壁、底には深い色した川が流れている。向こう側には色づき始めた木々が見える。寒い、でもいい感じ。寒さに我慢しきれなくなって温泉にドボン。 「うーい」てなもんだ。苦労したかいがあった。Oも許してやろう。なんて心が広いんだ、俺。てなもんだ。 鍋は鹿肉とか入っていたと思う。何だって、うまいんだこんな時はなんていうと料理してくれた人に申し訳ないけれど、実際何だってうまいんだ。こんな時は。 ビールを、グイグイ。熱燗、オットット。も一つどうぞ、遠慮なく。そういうあなたも遠慮なく。もちろんOは遠慮もしない。そんなこんなで秋の夜はふけていった。 翌日は比較的早く宿をたった。仙台見学もしないで、一路川崎に向かった。あっという間の仙台観光である。 この後も何度か旅をしたが、そのたびに強く思うようになった。 私たちの旅は結局いつもと同じメンバーが、いつもと違う場所で飲むことなんだと。飲むために場所を変える。そんなことが楽しかったんだ。 |
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