悔恨録 : 風はいつだってアゲインストだった

無知だった、愚かだった、頼りなくていい加減だった

でも誰でもない、私が一番私らしかった頃の話を少しだけ

主な登場人物

:主人公、情けない怠け者 :三馬鹿トリオの一人、広島は因島の生まれ。YはやくざのYではない。 :三馬鹿トリオの一人、野生児。怪しげな友達が多い九州男児。 Yさん:色白、凸凹のはっきりした美人。 Cさん:Yさんの友達。勝ち気な女の子。 Yちゃん:行き付けのスナックの姉御。Yさんの友達。 M先輩:私の良き飲み仲間。単なるお人好し

◆◆この物語は最初から読むと真の面白さが分かります。または真のつまらなさが分かります。
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第一(笑)寿荘の頃 : 第六部

目次

第五十一話 「春そして三年目」

第五十二話 「1980年」

第五十三話 「埃まみれの英会話教本」

第五十四話 「ボトル百本一番乗り」

第五十五話 「胸の中の焼けた鉄板」

第五十六話 「真夜中の詰まった排水溝」

第五十七話 「迷惑な客、迷惑な土産」

第五十八話 「下駄と風呂屋」

第五十九話 「殺風景な駅前風景」

第六十話 「賑やかな駅前を抜けて」


第五十一話 「春そして三年目」

誕生日が過ぎるとすぐに三年目がやって来た。

桜の花もやってきた。心にはいまだ吹っ切れないものを抱えていたが、それもゆっくりと心の奥底に沈殿し始めていた。この時自分の気持ちをあやふやなまま胸に封印したためにこの後長くYさんという刺を刺したまま生きてゆくことになるのだが、そんなことに気がついたのはずっとずっと後のことだ。

なんたって春である。新人もやってくるのである。先輩面も二回目ともなれば慣れたものである。余裕綽々である。なんたってこちとらは、二年分も偉いのである。これは相当な偉さである。いくら足の速いウサギが入ってきたとしても私を追い抜くには一年では無理である。安心して先輩面が出来る、ってなものである。もし、ものすごく足の速いウサギが入ってきたとしたらどうする。その時はその時。YやOと結託して、足の一本も折ってやる、なんて物騒なことは考えてはいなかったが、自然にけつまずくぐらいは期待していた。先輩なんてそんなものである。

三年目ともなれば風格も身についてくる。入った時から「偉そうだ」とか言われていたのだから、もうこの頃は相当偉そうだったと思う。もちろん、全然偉くはなかったのだが態度が大きいと他人様には映ることが多かったようだ。「そりゃ、他人様が悪い」こんなことを冗談でも言ったりするから誤解されるんだろう、それは分かっているのだが一言多い癖はどうにも止められない。古くて申し訳ないが「かっぱえびせん」みたいなものである。

酒の飲み方も堂々としたものである。行き付けの店以外は居酒屋にしか行かないので、経験値が特に大きく上昇していたわけではないが、それは、それである。ウィスキーもいつのまにか水割りからロックに変わっていた。こっちの方がかっこいいと思ったのだろう、大き目の氷を入れてもらいそれの感触を唇に味わいながらウィスキーを飲むことを常とした。氷が溶けて沈み込む時の氷同士が擦れ合う「カチッ」という音も気に入っていた。でもこれ、きっと誰かの真似、受け売りだね。若さだよね、青さだよね、馬鹿だよね。

なんとたったこれだけである。何がって二年間の修行の成果がである。あの月日は一体なんだったのだろう。大学の4年間もそうだったが、一体私は何をしていたのだろう。何もしないまま時間だけを浪費していたのだろうか。夢を食うバクのように時をひたすら貪り食うバカだったのだろうか。いやいや、そんなに卑下することはない。楽しい時ほど時は早く流れ苦しい時には時間は止まったように思えるものだと、かのアインシュタイン先生も言っていたではないか。きっと、何も無かったと思えるほど充実した楽しい時間だったのだ。そう思うことにしよう。何しろ桜の花咲く春なのだから。そこは一つ、まっ、程々に。

別に楽しくなくても時間は歳とともに早く過ぎて行くこと、桜の花はすぐ散ってしまうことに気づいたのはつい最近のことである。世間には「後の祭り」なんて言葉があるが、気づくのがちょっと遅すぎただろうか。

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第五十二話 「1980年」

80年代のスタートである

基本的に過ぎ去ったものはいつのまにかどこかに行ってしまうという生き方をしてきたので、1980年がどういう年だったかはよく覚えていない。テレビでは森昌子、桜田淳子、山口百恵なんてところが全盛だったのだろうか。いや、いやそれならピンクレディーでしょ。何を言います、やはり私的にはキャンディーズは押さえておきたいところです。あまーい、玄人はやはり大場久美子です、誰がなんと言っても、なんてことはちっとも話さなかった。オタクもマニアもフェチもみんな、みんな存在しなかった時代である。もしあの頃そんなことを真顔で話す輩がいたら袋叩きの刑である、罪悪である、懺悔である。パンチにキック、コブラツイストてなもんである。アイドルを語るなんて、このくらい大袈裟に騒がなければならない行為のような気がしていた。この頃にはもちろん「さそり固め」なんて荒業はなかったのは幸いであった。でこピンとかほっぺをつねったり、こぶしでこめかみの辺りをグリグリするくらいが適度なスキンシップであった時代である。

なんかこの頃こんなことだけ力説してるような気がする。しょうもないことだけ思い出しているような気がする。これは完璧な懐古趣味ですなあ。しかし、酒の肴としてはこれは極上なのである。信じられないかもしれないけれど極上なのである。飽きが来ないし、何より只だ。年を経るのもそう悪くない。

しかし人はすべからく「みな若くいられる」なんて絵空事を信じて疑わなかったので、課長とかいった人はちょっと近寄り難い別人種だと思っていた。決して自分があちら側の世界の人になるとは思っていなかった。彼我の間には扉が少なくとも2枚はあるような感覚だった。その扉もこちらからとむこうから同時に開けようと思わなければ開かない重い扉に見えた。それなのに齢を重ねるだけでいつのまにかこちら側に来てしまった。どういうこった。「なんてこったい、オリーブ」てなもんだ。
扉を開けてみればなんてこともない、見慣れた何時もの風景だった。扉を開ける時には十分に態勢が整っていた、機は熟していたってことだろう。何も違わなかった。違いは、単に文句を言う立場から言われる立場になった、それだけだった。

生意気な口をきいてばかりいたのでこの頃の私は水を得た魚のように生き生きと文句を言っていた。誰彼かまわず、てなもんである。酔えばお説教である。「大体近頃の若い奴等はだなあ、、、」と自分のことは棚に上げて「いいたかないけど、、、」一体お前は何者だ。酔いが覚めた朝には逆にお説教をされた。「弱いくせにがぶ飲みをするから」なんて友の冷たい視線を浴びた。
まあ、弱くはなかったがなにしろけち臭いのである。もったいないと思ってしまうのである。グラスに注がれた酒は一滴も残さず飲み干すのが努めだと思っていたのである。「変に律義」「無駄に真面目」この頃の私をこんな風に表したとしてもあながち間違ってはいない、と思っている。

80年代の最初の春が始まっていた。寿荘で三馬鹿 トリオが活躍した最後の時代である。

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第五十三話 「埃まみれの英会話教本」

飽きっぽいのである

何に対しても、根気というものが不足しているのである。人並みに意欲はあるのである。やる気はあるのである。例えば英語が喋れればいいな。いや喋れたほうがいいな。喋れなければ話しにならん。という風に話しは進んでいって「そうだ、英語の勉強だ」となってしまうのである。中学、高校、大学と何年やったってちっとも身に着かなかったものがそんなに簡単に身につくと考えるほうがおかしいのだが、若さとはそういうものである。
そういう風にセールストークも出来ている。セールスマンなんてものは信用しないほうがいい。
「今までは只だという気持ちが有ったから駄目だったんです」なるほど。新聞にある宣伝文句にもうその気になっている。「自分のお金を払ったということが今までにない真剣さをもたらすのです」そうかもしれない。かなりその気になっている「社会人一年目の今やらなくていつやるのですか?」そうだ、その通り。三年目になってそんなことを思ったのだろうか。

私の手元にはいつ購入したか忘れてしまった、英語のカセット教本がおとなしく鎮座ましましている。埃まみれで肩身が狭そうな顔をして。そりゃそうだ、全2巻の豪華版である(1巻は20幾つかのカセットから出来ていた)。2巻目はついに日の目を見なかった。申し訳ない。1巻目の最初で躓いてそのまま闇に葬られてしまった、いや葬ったのである。理由はいくらでもある。カセットがマイクロカセットで普通のカセットで再生できなかった、とても不便だ。(いつでも持ち運びできるようにこのサイズになっています)プレーヤーの電池が単4サイズで一度電池が切れると交換が簡単ではなかった、とても不便だ。(どこでも持ち運びできるようにこのサイズになっています)。カセットサイズが小さくてなんか威厳が感じられなかった、ちょっとかっちょ悪い。(いくらでも持ち運びできるようにこのサイズになっています)。プレーヤーが重たくて持ち運ぶ気にならなかった、大きさに納得できない。(あんた、いいかげんにしなさい)。ちなみにこの教本、マイクロカセットレコーダーとの一式なのである。

だって、勉強嫌いなんだもん。なんてやつだ、我ながら情けない。結局自腹であろうが、大枚であろうがやる気のないやつは何もしないという証明にはなった。やらない為の理由を考える時間だけはたくさん有る、怠け者だから。こうして時は無駄に過ぎていくのである。このときもう少しまじめに英会話をやっておけばもっとまともなエンジニアになれたのに、いつだって後悔は先に立たないのである。ああ、数学もちゃんとしておけばと何度考えたことだろう。微分、積分、せめて行列ぐらいはなんてことも考える。意味もないことである。考えている暇があれば今から勉強を始めればいいことだ。ついでに言えば物理ももっと力入れるべきだったなあ。化学もやっておくにこしたことはなかった。あああ、国語はすべての基本だったんだ、知らなかったぁぁぁ。こんなことばかり考えているのである。

結局怠け者はどうしようもないってことなのだ。ああ、いつかは私もあの山の頂に登りつきたい。あの山の向こうはどうなっているのだろう。新しい地平が広がっているのだろうか。海の色が違うのであろうか。空気はどんな風に流れているのだろうか。ああ、いつかは私もあの山の頂に、、、

ただ、不思議なことにそのために努力するのが嫌なのである。どうしてこうなってしまったのだろう。埃まみれのカセットケースに目を落とす。やらないと分かっていながら何故だか捨てられなかったその理由が少し分かったような気がした。

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第五十四話 「ボトル百本一番乗り」

ボトルだけは順調に空いていった。

春が来て夏が来る。秋が来て冬になる。そしてまた春が来る。季節が休むことなく続いていくように私たち三馬鹿トリオのキープボトルも空き瓶の数を重ねていた。もちろん飲むのはこの頃定番のサントリー「オールド」である。あの「だるま」である。週に三回は飲みに行っていたから、それの三倍の九回が週あたりの三馬鹿トリオの飲み回数である。これでほぼ一本が空く。週に一本のボトルが空になっていく。一年で五十本である。

飲むだけだったのでそれほどの出費にはならなかった。とはいえ、飲食費の半分以上を飲費が占めていたはずだ。今もこの傾向は変わらない。行き付けのスナックにはM先輩の友人グループも常連として名を連ねていた。こちらは私たちよりも古株で構成メンバーも多かった。そのうえM先輩が所属しているバンド仲間もいたりして多彩な顔ぶれを誇っていた。「豪華絢爛、慎み深い飲み仲間」達であった。しみじみ、ゆっくり、と形容されるべき人々達の塊である。
それに比べてこちとらは単純明解、「単なる愚かな飲み助」三人である。ぎゃーぎゃー、わーわー、としか表現できない身の程知らず達であった。比べようもない、ことではある。意味もない、ことではある。しかし人生には往々にして理不尽な出来事が起きるのである。

当時このスナックでボトルキープ数が百本になった人、またはグループ、及び団体は存在していなかった。そして店の誰もがM先輩のグループがその栄えある「百本一番乗り」を果たすものだと思っていた。実際構成メンバーの多さ、なじみの長さからダントツのボトル数だった。個人でもっと飲んでいた人はいたと思うがやはり数は強い。そろそろ百本までのカウントダウンでも始めようかという段階でもあった。これが事実である。
それなのに実際の栄誉に輝いたのは私達三馬鹿 トリオであった。これもまた事実である。なんと人生は皮肉に満ちているのであろう。これを歴史の汚点と呼ばずしてなんと呼ぼう。「オーマイゴッド」てなもんだ。
百本の話しを聞いた時からの我々の追い上げはすさまじく瞬く間にその差を縮めゴール間近での大逆転勝利を飾ったのである。なんと後輩の我々が後から来て意地汚く飲み、歌い、騒ぎ、暴れまくった上にトップ賞をさらってしまったのだ。まさに「トンビに油揚げ」状態である。

わずか二年での達成、偉い!このぐらい熱心に勉強もやっていればと後悔している暇はない。お祝いだ、祝杯だ、飲めや歌えである。傍若無人、天上天下唯我独尊てなもんである。そして店からお祝いのトロフィー。誉められた、嬉しかった。賞にはとんと縁が無い人生だったから。

なんでそんなことが栄誉なんだ? そんなことで嬉しいか? てなことを考える人には分からない世界があるのである。そして私たちはあの頃確実にその世界に住んでいた。その世界に住んでいる人もやがて卒業してしまうのを知ったのはしばらくしてからだ。「馬鹿だねー、君たち」てなことを言ってサヨナラをしていくものだと知ったのは。それもまた事実である。その通り、人生は皮肉に満ちているのである。そしてアゲインストの風はいつまでも吹き止まないのである。

今でもその世界から抜け出せない私だが、置き忘れてきてしまったもの、なくしてしまったものを思い出すことがある。
そういえばあのトロフィーはどこにいってしまったのだろう。どこに置き去りにしてしまったのだろう。

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第五十五話 「胸の中の焼けた鉄板」

酒の上での失敗は結構やった。

穴があったらはいりたい、てなもんである。本人は記憶がない、というものもかなりある。これは本人に記憶がないので、本当にあったことかどうかは定かではない。あったような気もするしなかったような気もする。とりあえず「疑わしきは罰せず」にしておこう。

ある時、Oの部屋に泊まった。いつものように酔っ払っていた。酒に飲まれてしまった、お馬鹿な私である。飲みすぎると「気持ちがわるいー」というのがこの頃の口癖だったようで、この夜も「気持ちわるー」と唸っていたらしい。頭はどうか知らないが性格はそう悪くないOが見るに見かねて私に無理矢理薬を飲まさせた。「これ、飲め」と丸薬を口にねじ込んだ。水なしで飲み込まされた。苦かった。「うえっ」ともどしそうになったがなんとか飲み込んだ。「これでもう大丈夫だ」とのOの確信に満ちた言葉を子守り歌にそのまま安らかな眠りについた。

悲劇は朝とともにやって来た。突然のようにやって来た。猛烈な胸焼けである。胸の奥に熱した鉄板が詰まっているような熱さと苦しさである。「み、み、みずー」てなもんである。酔い覚めの水は甘露と言われるくらいに甘くおいいしいものなのに、この時は参った。何しろ水を飲んでも胸が焼けるのである。飲んでも飲んでも焼けるのである。「胸焼け」とは良く言った。今までも何度かは経験があるがこんなひどいやつは初めてであった。なにしろ息をしても焼けるのである。寝てても焼ける。仰向けでも、うつ伏せでも、横向きでも焼けるのである。
思わず胸をあおいでみても意味もない。飯も喉を通らない、もっとも食欲もない。とにかく安静にして自然治癒を待つ、これがこの頃の私の病気に対する基本方針である。今までもそれでなんとか夜には復活していた。この時も同じ対処方針を貫いた。間違っていたかもしれないがこれが私である、致し方ない。

基本的に二日酔いは水気を取る、取る、取る、である。もちろんミネラルだ、果糖だ、トマトジュースだ。向かい酒でごまかせ、風呂に入って汗で流せ、と対策は色々あるだろうがとにかく不足した水分を取り、体の中の毒素を小水の形にして体外に放出する。これが基本でその上のプラスαだと考えていた。ただトマトジュースだけはどうしても飲めないかったのだが。しかし夜になっても一向に回復の兆しが見えない。とても頑固な胸焼け、二日酔いなのである。未だ胸の中には焼けた鉄板が居座っていた。食欲はないがなにも食わないわけにもいかないので軽く腹に入れれば、それがまた鉄板を熱く焼いてくれるのである。三日目もその状態が続いた。ひどくしつこい胸焼けなのである。これがうわさに聞いた三日酔いか。なんてもの凄いものだろう、と思った。でもどうしてこんなにひどい胸焼けをしたのだろう。なんか変なものでも食ったんだろうか。傷んでいたとか、食べあわせが悪かったとかなんだろうか、と頭を捻ってはみたものの原因は分からなかった。

そう言えばあの夜Oに飲まされた薬は全然効かなかったなあ、とOに何の薬かたずねたところ「正露丸だ」と言われた。!!!。やはり原因はあった。原因はOだった。なんてこった、てなもんである。「バカヤロー、そんなもん飲ませるから胸焼けになるんだ」と怒ると、「馬鹿、正露丸は何にでも効くんだ」とシラッとしてOが答えた。
だから九州人って…

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第五十六話 「真夜中の詰まった排水溝」

酒の上での失敗は随分やった。

いつものように許容限界を越えて前後不覚、上下不定となってOの部屋に倒れ込むように押しかける。狭くて殺風景なこの部屋も慣れればそれなりに見えてくる。酔えば多少のことには驚かなくなる。
驚くのは飲みすぎた後に襲ってくる罰の方だ。この日は運悪く「気持ちわるー」の独り言だけではおさまらず夜中に起き出し半畳ほどの流しに行って吐いた。行くと言っても4畳半一間のボロアパートの一室である。起きればそこが流しみたいなもんである。結構もどした。この頃の私はせっかく頂戴したものはもったいないなくて吐く気にはならいなどとのたまっていたのだが、致し方ない。経験された方はご存知だろうがあの突き上げてくる感じは抗らいがたき衝動なのである。意外と素直な私。

躊躇せず流しにもどした、のはいいのだが。何しろ安アパート。流しの口も小さい、小さい。みるみる間に流しの口に詰まって吐しゃ物が堆積していく。おおー、どんどん積もる。こりゃ、凄い。しかし、一旦出始めたものはどうしようもない。覆水盆に帰らず、てなもんだ。さすがにこれは「やばいなぁ」と思った私。真夜中、友のアパートの流しに詰まった吐しゃ物の掃除を始めたのである。「どうすべえ」水で流せばいい、なんてことを考えるのはずぶの素人である。
でもこの頃教科書に載せたいくらいのずぶの素人の私。何の躊躇もなく水を流した。最初はゆっくり、そのうち急激に水かさが増してきた。まずい、のである。「こりはいかん」もう酔っているから言葉も変。
慌てて蛇口を閉めたものの、後には惨澹たる風景。底には意地悪な吐しゃ物、水面には何やら細々とした何かの切れ端、油の膜。「ううーん」なのである。

しばし呆然、かなりの唖然、てなもんである。仕方ない。意を決して指で排水溝に詰まった吐しゃ物をほじくりだす作業を開始したのである。最初の一撃は見事成功した。しかし、二の矢三の矢が続かない。糠に釘、暖簾に腕押し、二階から目薬、Oに理屈。てなもんである。
ほじくるのは諦らめて押し込むことに方針変更。しかしこれは一の矢も続かない。「ううーん、もひとつ、うううーん」である。困った、とても困った。指も手もドロドロのぬるぬるなのに事態は一向に改善されない。この頃の東京財政みたいなもんだ。致し方ない、諦らめよう。ちょっと気が引けたが蛇口をちょっとだけ開きささっと手を洗ってそのまま寝た。手を洗った分確実に水かさは増したが、知っているのは私だけだ。この際大したことではない。

翌朝目が覚めると、もうOは起きていた。ぼんやりする頭で夕べの体たらくを報告せねばならないだろう、と考えながら流しを見ると、何もなかったかのような普段のままの流しがそこに有った。ドキッとした、ズキッとした。
何も言えないまま、何も言われぬまま時が過ぎ自分のアパートに帰っていった。

済まぬ、O。実はあの時の吐しゃ物は私のものだったのだ。今だから白状するがあれは私のせいなのだ。
本当に済まぬ、許せ。

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第五十七話 「迷惑な客、迷惑な土産」

酒の上での失敗を繰り返した。

あまり他所の街に行って飲むということはなかったのだが、何かの弾みで繁華街でYとOと飲んだ。結構したたかに酔ってしまった。私がではない、Oがである。Yは飲んで乱れるということはほとんどなかったがOも私と同じように時に酒に飲まれることがあった。まあ、私よりはましだったが。

その時もちょっと潰れ気味になってしまったOをYと二人で介抱しながら最終電車も近い東横線に乗り込んだ。乗ってしまえば30分程度の距離である。なんとかなるさ、と高をくくっていた。それほど混んではいなかったが、それでも座ることは出来なかった。電車の揺れに同期しながら右に左に、前に後ろに重心を移動させるO。電車の揺れとOの揺れの二つに対処する私とY。結構しんどい帰り道である。酔いつぶれた人間は重いのである。
いつもは反対に自分がやっていることなので仕様がない、なんてことは思わない。「なんだこの野郎潰れやがって」てなもんである。酒飲みは独善なのである。自分はいつだって正しいのである。それでも日ごろちょっとは世話になっていることもあり、じっと我慢の30分である。

おとなしく潰れていればいいものを、どうしてこういう時に限って起き出すんだろう、不思議だ。いや不思議でもなんでもない、気持ちが悪くなって目を覚ましたのだ。勘弁してくれO、電車の中だぞ。私が窓から吐いた、ローカル線の南武線ではない、オシャレな東急東横線だぞ。分かってるかO、東横線なんだぞ。オシャレなんだぞ、って分かるわけがない。何しろあの突き上げる感じは「どないもならん」ものなのである。もう少しだから辛抱しろ、と言った。後ちょっとだからな、とYも言った。もちろん嘘である。まだ目的駅までは結構有る。しかしそんなことは言っちゃおれない。こんなとこでもどされでもしたら目も当てられない。ポケットからさりげなくハンカチを出す。それとなくOの体の向きを変える。最悪の事態を想定してのことである。幸い酔っ払い三人衆は周りの客から避けられていたこともあり、比較的空間の余裕はあった。

しかし時間的余裕はなかった。次の駅までは持つだろうとの期待も、せめて次の駅までは持ってくれの願いのどちらも空しく悲劇は起こった。我慢のガの字も見せることなく予定通りと言わんばかりの傲慢さでOが吐いた。「やった」ハンカチを当てたが一瞬遅く、一部は床に落ちた。さらに一部は前の客のズボンのすそににかかった。「やばい」量が少なかったので気づいていない「しめた」。駅に着いた。「今だ」Yと二人Oを担いで素早く降りた。口はハンカチで塞いだままである。窒息してもいいからもう吐くな、と思いながらハンカチを押さえる手に力を込めて電車から引きずり降ろした。幸い吐いたこともありほどなくOが復帰した。復帰しなかったのは吐しゃ物まみれの私のハンカチとズボンのすそに迷惑なお土産をもらったお客さんである。ハンカチはホームの水道で洗って済ませた。お客さんのことは忘れることで済ませた。

本当にごめんなさい、あの時の迷惑なお土産の主はOだったのです。知らん振りをしたのは私達だったのです。

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第五十八話 「下駄と風呂屋」

仕事で帰れば風呂屋は閉まっていた。

そんなことが多かった。11時には閉めてしまうのでそれまでに帰らなければならない。もっと正確に言えばそれまでに風呂を終わらせなければならない。体を洗い、体を温めるのには30分は欲しかった。10時にアパートに着けば問題はなかったが10時を過ぎると結構しんどかった。アパートのドアを開ける。そのまま風呂道具を持って風呂屋に直行する。風呂屋までは5分程度だったのは助かった。10時半を過ぎるとふざけたことに暖簾をしまってしまう、という強行手段に出る商売嫌いの風呂屋だった。それをものともせずお金を払って男湯に突入だ。すぐに服を脱ぎ、さっと体に湯を浴びる。まずは体を温める。ひーふーみー。三つ数えて湯からでる。なんて世話しない湯の漬かり方だ、泣けてくる。しかし泣いている場合ではない。急いで体を洗わなければならない。なにしろ最後にもう一度湯にゆっくり漬かりたいのだから。私だってもう、流しで体を洗うのは嫌なのだ。

時間によってはほとんど人がいなかった。この辺の人(東京都下)は夜が早いのね、てなもんである。昼風呂で人が少ないのは気持ちいのいいものだが仕舞い湯間近で人が少ないのは侘びしいのだ。
それまではあたふたしていた人も終了間際にドアを開けた私の存在に腰を落ち着けて洗い始める。やれやれ、これでどうやら最後の一人の汚名は着なくて済む、助かった。後は君の責任だとでも言うように。最後の一人になって頭なんか洗っている時に、タイルの掃除なんか始められてみなさい、そりゃ惨めなものです。涙が出てきます。それでも社会人として苦労した分、すぐ終わらせますからなんて愛想笑いの一つも返すだけの分別を身につけてはいた。我ながら成長したものである。足りないことで知ることがある。歳を経て分かることの一つなのである。

風呂には下駄で行った。カラン、カランと鳴ったかどうかは分からない。それでもちょっとした私の贅沢だった。夏の風呂上がり、そぞろに歩く。耳に下駄の音が心地よい。鼻歌一つ、聞きかじりの流行り歌、てなもんである。相変わらずの貧乏性だな、私って。
大概休日はサンダルか下駄で過ごした。靴を履くことはあまり無かった。歩き方が下手なのか下駄の歯の減り方が変だった。歯の減り方が均一ではなく斜めに減っていくのだ。最初は四角だった下駄の歯が台形になりやがて三角に近づいていくのである。時々左右逆にする、交互に履けば減り方は均一になると聞いたのだが、申し訳ないそれさえも面倒くさくて嫌なのだ。致し方ない、斜めに減りついには完璧な三角形になる。まあ、それでも履いて履けないことはない。下駄の先が地面に直接接触するようにはなるが、どうってことはない。多少は見ても変だろうが、大丈夫多少は歩いてても変なのである。その意味でバランスは取れている。下駄の先、親指の先あたりの部分にすぐひびが入り、やがて割れる。一旦割れると加速度がつく。それでもそのまま履く。履き潰す。

日々崩壊する下駄を見て本当に下駄が木で出来ていることが実感できる。こういう時の感想は決まっている。「生きてて良かった」または「日本人に生まれて良かった」である。唐突である。取りたてて意味もない。が、お約束である、致し方ない。まあ、愚かの見本だね。

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第五十九話 「殺風景な駅前風景」

南武線の駅はうらぶれていた。

もちろん今ではそんなことはないのだろうが、私が暮らしていた頃は小さな駅、小さな改札、まばらな乗客だった。土日になるとさらに淋しげな風情に磨きをかけていた。年も押しつまれば、木枯らし吹き新聞が舞い上がる、てな風情だった。駅前も、ロータリーとか商店街といったものは見当たらず、改札を出た右手に薬屋、左手は踏み切り。この踏み切りを渡って線路と直角に進むとあっというまに多摩川にぶつかる。ぶつかったところが街の端っこだった。踏み切りの反対側は逆にどこまでも続いている。梨園がどこまでも続いている、そんな感じの街だった

車が2台やっと通れるような狭い駅前の道の向こう側にくたびれた感じの食堂がある。その側の2階にはこれも寂れた感じの焼き肉屋があった。飲み屋は踏み切りを渡った所に汚い居酒屋があり、何度か利用した。飲み屋街といったものももちろん存在しなかった。点在といったらいいのだろうか、ポツンポツンとまばらに商店が存在し、決して線に繋がらなかった。私が住んでいる間に特に大きく街が変貌することはなく、点はあくまで点でついに線になることはなかった。何かひっそりと眠りについている、忘れ去られたようだった。

それでも生活はしっかりと存在していた。道行く人の顔も別に暗くはなかった。
三馬鹿 トリオで飲まない週末は一人静かに過ごすことが多かった。遅く起きて早めの夕食。ビールをつまみに食事をした。あのくたびれた食堂や、あの寂れた焼き肉屋だったりした。冬でも生ビールを置いてあるのが嬉しかった。特に早めに風呂に行きまだ日暮れにはたっぷり時間がある時のビールと焼き肉は私のささやかな贅沢だった。毎度で申し訳ないのだが、ほんと、ささやかな暮らしぶりである。

店はいつも空いていた。時間帯が早すぎることも原因の一つだろうが、基本的にこの街の店の中における人口密度は低かった。一体人はどこに行ってしまったのだろう、と思うこともしばしばだった。待たされることの嫌いな私向きの展開ではあるが、あまり殺風景なのもいただけなかった。これで飯がまずければ最悪なのだろうが、それはそれ。うまからず、まずからず、許容範囲の端っこに何とか引っかかっているといった感じだった。店員もなんとなく「やる気がありません」といった風情で、もそっと注文を聞き、どっこいしょと注文の品を持ってきた。これじゃ、流行らないよな、てなもんだ。何故だか覇気がない飲食店ばかりだった。別に嫌な感じはしなかったのは不思議だが、その意味では見事なまでに街全体が「かったるい」感で統一されていた。

何かの陰謀だったのだろうか? まさか、ね。

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第六十話 「賑やかな駅前を抜けて」

東横線の駅は華やいでいた。

私の住む南武線とは明らかな違いがあった。飲んだ時の宿泊所と化した寿荘はうらびれていて、私のテーストにマッチしていたが駅前は賑やかで華やいでいた。駅前では少し浮いた感じの三馬鹿トリオであったかしれない。特にOはダサかった。Yは怖かった。私は、、、コメントを控えさせていただく。

会社からも南部線との乗り換え駅の武蔵小杉からもすぐだったという点でとても便利な街だった。東横線のハイソな方々に混じりホームから階段を降り改札を抜ける。右手に行けばより大きな商店街が続いている。こちらの方が街の中心でよりしゃれた雰囲気を持っていた。そちら側には目もくれず左手の階段をかけ上がれば見慣れた商店街が広がっている。目の前に続く道はすぐ先でY字に別れる。その分岐点の三角地帯に行き付けのスナックがあった。大きな時計が目印の店だった。結構遠くからでも時刻が分かる立派なもので良く目立った。
その店は今考えると飲み仲間が飲むために集まる、ただそれだけの場所を提供する、そんな感じの店だった。それでも時流には逆らえずカラオケで騒ぐ客も段々多くなった。

三馬鹿 トリオも最初は敬遠していたはずなのに後には率先してカラオケで騒ぐ客になってしまい迷惑をかけていた。どうもその頃から少し店の雰囲気が変わったような気がする。人の流れも変わったのかもしれない。
後に店をたたむ事になるのだがもしかしたら私たちの馬鹿騒ぎも原因の一つだったのかもしれない。
忘れよう、昔のことだ。

Y字の道を直進すればスナック、左に曲がりば寿荘である。左に曲がり道沿いに歩けばすぐ交通量の多い道にぶつかる。ぶつかれば、そこをさらに左に曲がり小さな川沿に進む。またすぐ右に曲がりと、ようはウネウネと曲がりくねりながら奥へと進んでいけばそこに見慣れた木造アパートがひっそりと建っている。何十年も前からここに居ます、てな具合に建っている。いつも私を優しく包んでくれた寿荘である。昼なお暗いというと大袈裟かもしれないが、夏でもひんやりとした雰囲気のアパートで、空調なんて物は見たことも聞いたこともない、少なくとも自分とは縁が無いといった人々が目立たない様に暮らしている、そんなアパートであった。小説風に書けばこうなるのだろうか。でもあの頃空調なんてものは大きな建物、会社、役所、デパートとかにしかないのが普通だった。恥ずかしながら我が大学にもついていない教室の方が多かったと記憶している。

ドアは古びた分威厳と歴史を感じさせる引き戸である。鍵は錠前と呼ぶとぴったり来るような、小学校の用務員さんが束でもっているような金色の厚手のやつで、それを少しひん曲がった鍵穴に差込右に2回ぐらい回して開ける、Yの部屋は少しこつがありよいしょといった感じで少し引き戸を持ち上げながら開く。これが私の記憶なのだけれど、どこかで「作ってない?」という声が聞こえてくる。いや、作ったりなんかしていない。華やかさの裏の現実はしょせんこんなものだったんだ。

これが青春ってやつなんだ。

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