無知だった、愚かだった、頼りなくていい加減だった
でも誰でもない、私が一番私らしかった頃の話を少しだけ
主な登場人物
私:主人公、情けない怠け者 Y:三馬鹿トリオの一人、広島は因島の生まれ。YはやくざのYではない。 O:三馬鹿トリオの一人、野生児。怪しげな友達が多い九州男児。 Yさん:色白、凸凹のはっきりした美人。 Cさん:Yさんの友達。勝ち気な女の子。 Yちゃん:行き付けのスナックの姉御。Yさんの友達。 M先輩:私の良き飲み仲間。単なるお人好し
◆◆この物語は最初から読むと真の面白さが分かります。または真のつまらなさが分かります。
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第四十二話 「少しも成長しない」
第四十三話 「ほんのちょっとしたことなんだ」
第四十四話 「冷暖房完備」
第四十五話 「怠惰な暮らし」
第四十六話 「怠惰な年末年始」
第四十七話 「なんとかかんとか、どうにかこうにか」
第四十八話 「何がなんだか、どれがどうだか」
第四十九話 「それがどうした」
第五十話 「誕生日の思い出」
2年目に入っても少しも賢くならなかった。 相変わらず愚か者であった。むしろ筋金入りの愚か者になりつつあった。この頃の私は愚かなことを喜んでいる、そんな風に見えていたかもしれない。プライベートの辛い体験も私を成長させる糧にはならなかった。喉元を過ぎてしまうと熱さを忘れてしまうタイプであった。お陰で自己嫌悪で消滅してしまうこともなく今も在る。 失敗は懲りずに繰り返していた。前に違うコーナーでも書いたのだが例えばこんなことがあった。装置を動かすための電力を供給する電源ボックスを検査していたときだ。この電源は本体の装置とコネクタで接続されているタイプで固定のネジを外せば本体から外すことが出来る。単品での修理や交換が可能となっているわけである。400ボルトという比較的高い電圧を発生するもので、今ではすっかり見かけなくなってしまった真空管が使われていた。電源オンのスイッチを入れてもすぐには必要な電圧にならず、二呼吸おいたくらいからジワーと電圧が上がってくるのが今考えるとかわいい。ここで発生した電圧がコネクタを介して本体の装置に送られるのである。400ボルトと聞いて「おっ、危険!」と頭の中でワーニングが鳴り始めた。そう何度も失敗を繰り返すわけにはいかん、と一応は考えていたのである。電源のスイッチをオフにし、電圧メーターの針が0になるのを見届けてから、丁寧に固定ネジを外し電源ボックスを本体から抜き取った。この時少しこねるように抜いたためにコネクタのどこかに右手の人差し指が触った。 「バチッ」と音がした。火花が飛んだ。痛みが走った。目は点に口は「ホー」の形になったまましばらく固まった。 電源というやつはスイッチをオフにしても一旦溜まった電荷は出力の変動を抑えるために入れられているコンデンサという部品にまだそのまま残っているのである。特にこいつはでっかいコンデンサがのっかっていたのである。相当ため込めそうなでっかいやつが。コンデンサに電荷が溜まる、言われれば「そんなことは知っている」と答えるが「分かってはいなかった」らしい。その溜まった電荷、つまり400ボルトの電圧が私の人差し指の爪から指先の内側の腹にかけて青函トンネルを掘ってくれたのである。何がなんやら、訳が分からん状態を抜け出ししげしげと指を見てみると爪には白い点が指の腹には黒い点があった。これが青函トンネル工事の後である。まったく見事なものである。一瞬である。あっという間である。 そしてその何倍もの速さでもってトホホな気分がやってきた。しかしこちらの方はしばらく立ち去る気配も見せず私の周りをネチネチと遠巻きにしていた。 |
失敗は人を本当に賢くするのだろうか? その時私は一年目に出向させられた大手電気メーカが受注した自衛隊の比較的大きな航空機の管制システムの検査を担当していた。出向扱いではなかったが、週の大半を大手の電気会社で過ごすことが多かった。システム全体は何十億円とかいう規模のものであった。もっとも私が触らせてもらえるのはその全体の何十分の一、何百分の一どころではない「もっと、もっと、おっとっと」というぐらい小さいものである。システム全体を一頭の象に例えれば私の担当区分は象の後脚に生えてる剛毛のうちの下の方の短めの一本の先っぽ、てなもんだった。それでも少しばかり緊張しながら仕事にいそしんでいた。 二つの離れた装置をつなぐケーブル線の束の検査をやった。何本もの信号線と1ペア・二本の電源ケーブルが一本の太いケーブルの中に入れられていた。長さは15メートルから20メートルといったところだろうか。このケーブルを体育館の床にはわせ、傷や汚れといった概観や長さを測ったりした。それから導通チェックといって、線が断線していないかの試験をした。通常これはテスターという器械を使って行う。簡単に言えば電流を流してその電流をモニターするというものである。電流源は乾電池であり、早い話が電流源を自前で持つ電流計ってことだ。電流が流れればメーターの針が振れ線がつながっていることが分かる。切れていれば電流が流れないからメーターの針はぴくりともせず断線が分かるわけである。 テスターにはプラスとマイナスの端子がありここにプローブというテストピンがつながっている。このプローブを線の両端にそれぞれつなげば、それでOKである。プラスからマイナスに電流が流れ試験は終了である。 さてここで問題である。何しろ計りたい線の長さは20メートルである。線の両端をプローブにつなぐには20メートルの腕の長さが必要である。これは比較的簡単に答えが分かった。当たり前である。これでも大学をでた。二人でやればいいのだ。一人が右端、もう一人が左端の線をプローブにつなげばいい。しかしまだ問題はある。テストピンは伸ばしてもせいぜい2メートルぐらいの長さしかない。20メートルの長さのプローブを作らなければいけない、なんて子供だましの落ちは頂けない。20メートルの長さは直線の場合である。折り曲げてやれば、あら不思議向こうにあった左端がほらほらこっちの右端にくっついちゃった。 そうなれば話しは簡単である。だが事実はもう少し複雑だ。直径5センチ以上もある太くて重いケーブルは簡単には曲げられないのである。一体どうすべえ、とちょっとあせっている私を掴まえて先輩は「向こうの端っこにいって、言われた通りにしてくれる」と言った。とにかく向こうに行けという、しかも手ぶらでである。 言われた通り向こうの端に行く。どう見ても折り曲げられないぞと、しつこくもまだケーブルを見て呟いている私に。 「茶と赤の線をくっつけてくれる」「はっ!くっつけるんですか?」「ああ、線の端子と端子をくっつけてー」 「くっつけましたー」「はーい、離してくれる」なんのこっちゃ? 「離しましたー」「はーい、次は橙と黄色。くっつけてー」「離してー」 こんなことを延々くりかした。全ての線は色分けがされており、どの線が何の信号線かは簡単に分かるようになっている。こっちの赤は向こうの赤につながってなければいけない。それは私にも分かった。しかしどうしてこれで導通チェックが出来るのかは正直分からなかった。戻っておいでといわれ先輩のところに戻ってきた時の私の顔に「訳がわかりません、先輩」と書いてあったのだろう。「こういった時はやっぱりオープン・ショートが一番だよ」と先輩は言った。オープン・ショートって何? 2本の線の先をショート(くっつけて)させれば行って帰っての一本の線として電流が流れるのである。分かってみれば簡単なことである。折り曲げられないよなあ、と頭を抱えていた自分が情けない。これなら全て片側で導通チェックが出来る。なんらかの工事ミスで線と線がたまたまショートしてことがあるといけないのでオープン(離して)にして電流が流れないことも調べていたのである。 誰が考えたのか知らないが賢い、凄い、偉い。こんなことがあるから電気の仕事はやめられないんだって小さく感動していたのである。 |
時が人を賢くするって本当だろうか 社会人生活も2年目になれば段段とまともな暮らし、世間でいわれるところのであるが、になるのが普通であった。それなのに私たち三馬鹿トリオの暮らしはスタート時とほとんど変わらなかった。私にいたっては全然変わらなかったと言っていい。電化製品も生活雑貨も増えなかった。逆にどんどんシンプルになっていくように思えた。借りた扇風機、貰った炬燵の二つが部屋にある唯一の温度調節機構であった。完璧な冷暖房完備である。問題は夏は暖房、冬は冷房である点だ。このわずかな文明の利器と神から授かった体温調節機構の組み合わせで季節を乗り切った。2年目の冬は失恋のショックとともに私の体を容赦なく痛めつけた。何しろ、部屋の外と中の温度差がない部屋と言われるぐらい寒々としていた。冷え冷えととしていた。アパートに変えると気温の低さを肌で感じるなんて嘘みたいな生活をしていた。ジャンパーを脱ぐなんてとんでもないことだった。風をひいてしまう。しかしいくらなんでも部屋の外でも中でも同じ格好では申し訳ない。親の手作りの綿入れを着た。考え様によっては部屋の外よりも重装備と言えるかもしれないが致し方ない。道端に何時間もいることはないが、部屋の 中には何時間もいなければならないからだ。 それでも炬燵の中に体を折り畳みすっぽり隠れていればなんてこともない。さすがに顔は炬燵から出てしまうが幸いにも顔は寒さにめっぽう強い。少なくとも部屋の中で凍えることはない。不思議なことにそうやって数分も我慢すればほんのりと部屋も暖かくなってくるから不思議だ。体温と合わせて数百ワットの熱量でもそれなりになるものなのである。こんな時はやはり暖かい飲み物が欲しくなるものである。一年目の冬はやかんでお湯を沸かしコーヒーとかを飲んだ。寒々しい台所で青いガスの炎をじっと眺めながらお湯が沸くのを待った。なんかやるせなくなるような物悲しさだった。お湯が沸くまで何分もかけて飲むのはたった一杯のインスタントコーヒーだった。やかんのお湯はすぐに冷たくなった。ポットぐらい買ったらどうなんだ、ポットぐらい。そのうち投入する労力と得る安らぎを比べるとどうも割が悪いような気がしてきてお湯を沸かすのは止めた。 別に比べるまでもない。答えは最初から決まっていて自分でお湯を沸かしてまで飲む気がなかったのだ。でも一応理系の性として理屈だけはこねておきたかったのだろう。お湯を沸かすのが面倒くさいというと、みんなに呆れられた。寒さは慣れで我慢できるけれど会社から戻ってまで働きたくないというと、そんな大層なものか、大袈裟だなあ、と余計呆れられた。 夜何にもない部屋の真ん中にしかれた布団に横になるとせっかく暖まった体の熱が一気に奪い取られるような気がした。まるで一生懸命やった仕事を鬼のような先輩から「やり直し」と言われたようなショックだ。小学生の時血圧測定で「血圧がありません」と看護婦さんに言われたくらいの低血圧のために、熱を奪い取られたつま先は朝までキンキンと痛み、「我ここに在り、ゆえに我主張す」とばかりに存在を主張し続けた。厚手の靴下を履いてもさほど効果はなかった。一人暮らしを始めた時に用意した厚手の靴下が低血圧・つま先冷え冷え症候群に対して施された唯一の対処療法だった。寒い、冷たいと唸るばかりで縮こまるようになって眠ることもあった。唸るばかり、このへんがなんとも愚かである。何か手はなかったのだろうか。なんか手が 時は流れた。今では正直に言えばあまり好きではない冷暖房を世間の常識にならって使っている。もちろん夏に冷房、冬には暖房である。しかし、これはこれで情けないような気がするのは何故だろう。たんなる郷愁というものだろうか。 |
無為に過ごすというほど大したものではなかった 飲み以外はすることもなかった。読書とか音楽鑑賞が趣味です、とは恥ずかしくていえない。でもそれぐらいしかない。でもそれも大そうなものではなかった。暇に任せて読む本は例えば「東海林さだお」であったりした。「星新一」であり「小松左京」であった。SFのショート・ショートか軽い文章を好んだ。このあたりからとにかく長い文章が苦手になってくる。根気がないのである。買った本の半分ぐらいにしか目を通さないのはなんともふざけた本読みである。乱読ではなく、積読(つんどく)と誰かが言ったがそんな感じであった。そして書くのは甘ったるい失恋の詠である。 良く聞いたのは「荒井由美」である。「小椋佳」である。「松山千春」「さだまさし」である。うーん、気持ちが悪い。仕事はエンジニアである。後年「文化系エンジニア」を自称し「歌って踊れるエンジニア」を目指すのだがそれは自分に文化的素養があるとかいったことではなく、どこか工学者として外れていることの自覚のなせる業だったのかもしれない。但しこんななんてこともないことをこれほど大層に言う癖はエンジニアそのもののような気もする。とにかく何もかも中途半端な男であった。 ただ幸運なことに退屈には滅法強かった。怠惰に生きるように出来ているようであった。暑さ、寒さには弱いものの布団に包まっていればなんてことはなかった。ひとり惰眠をむさぼった。過酷な肉体労働のお陰で慢性的な睡眠不足であったこと、眠りつづけるだけの体力がまだ十分に残っていたことで休みの日にはほぼ午後まで寝ていた。もともと8時間睡眠で体が出来ているために月から金で不足した分の睡眠時間を一気に取り戻そうと考えていた。「寝だめ、食いだめは出来ない」とは母親の言であるがそんなことに構ってはいられない。とにかく眠れ、眠れである。至福の時間であった。食うよりも寝ていたいのである。腹が減ってどうしようもなくなって、布団から抜け出し飯を食いに出かける。ビールを飲みその日初めての昼食・晩飯兼用の食事を取る。そういったことも随分やった。出かけるのが面倒くさいので出きるだけ一回で用を済ませようとしていた。もし、今のようにすぐ側にホカ弁があれば、これを買いだめして土・日を過ごしたかもしれない。 電子レンジだけは怠惰な生活の必需品ということで大枚はたいて購入した。随分役に立ってくれた。これだけは家電製品の中で元を取ったと自信がある。後のものはほとんど元を取る前に使わなくなるか、使えなくなった。レトルト品とか冷凍品も随分お世話になった。冷凍焼きおにぎりはこの頃のヒットだった。なんともお寒い生活である。 電気ポットもない暮らしではあったが、カップヌードルもお茶も電子レンジで沸かすという荒業を駆使しながらどうにかこうにか社会人2年目の年が終わろうとしていた。 |
年に一回年末に親元に戻った 年末はOもYも帰省するために仕様がなく横浜の生家に戻った。ほとんど家に戻ることがない私であったが一年に一回ぐらいは戻ったほうがいいだろうとは思っていた。横浜までは時間にして一時間半程度だから戻ろうと思えば何時でも戻れる、そう思うと戻る気にはならなかった。私にとって週末に洗濯物を親元に持ち帰る輩がいるというようなことは理解不能なことであった。偉そうに「情けない」やつらだと思っていた。年を取った今ではそんな非道なことは考えない。ただ「みっともない」と思うだけである。それでも、それも一つの親孝行ではあると思うようにもなった。もっと親に甘えてやれば良かった、と少し後悔している。 わずか一二年一人で生活しただけで、親掛かりで生活していることをとやかく言うのはやはり傲慢であった。若いということは青いということで、青いということは馬鹿だということなのだ。致し方ない。 そんな風に偉そうなことを言ってはいたが、親元に帰ればほとんど何もしなかった。それこそなーんにもしないのである。朝から晩まで、パジャマで炬燵で蜜柑でテレビであった。なんかすればいいじゃないかと思っても、することが見つからない。何より面倒なのである。布団と炬燵、炬燵と布団、時に便所。気が向けば風呂。ううーん、人間もここまで堕落すると動物と呼んだ方がいいかもしれない。普段無理して動き回っている分疲れが溜まると言うか、怠け者のエネルギーが有り余っているのである。従ってその「怠け者エネルギー」を消費するために年末年始の一週間はひたすらぐーたらしなければならないのだ。不思議なことにこの「怠け者エネルギー」は負の値を持つために働いてはいけないのである。とにかく何もしないで「暇だ、暇だ」と言うことで始めて消費されるのである。酒などかっ食らえばさらにベターである。 それでも正月三が日は成人式の祝いに母に作ってもらった着物を着て過ごした。帯は父のものを借りていたがそれでもそれなりに、そこそこ正月気分である。一年に一回だけ袖を通す着物を着て偉そうな顔をして部屋の真ん中に鎮座ましましていた。そしてひたすらぐーたらした。三が日は何もしないでこの一年を思うためにあるのである。そう考えるとどうころんでもまたまた忙しい一年になると考えざるを得ず、それなら出来る時にぐーたらしておかなければならないという結論が導き出されるのである。「ねばならない」と考えると結構大変で実際少し焦りながらぐーたらするのであった。まあ、理由は何とでもつけられるのである。過ぎたことはどんな風にも言えるのである。誰も知らないことは何とでも作れるのである。怠けるのに理由はいらない。正直に言えばそれが好きだったのだ。 それでも、たまにしか会わない親は「めし」「さけ」「ふろ」としか言わないこの馬鹿息子に腹を立てるでもなくもてなしてくれたのである。子供のために何か出来るのが嬉しいとばかりに、いそいそと世話をやいてくれたのである。 |
年があけ、ついに二年目も残すところあとわずかになった。 思えば新入社員の頃、専務の自宅(大森のマンションに住んでいた)に同期14人全員が呼ばれた時の失敗に挫折することもなくなんとかかんとか生きていた。どうにか、こうにか会社員を続けていた。もう少しでまるまる二年になる。随分失敗をやらかしてきた。気が小さいくせに短気なものだから時にとんでもないことをしでかしたりした。仕事が出来ない上に口の利き方がぞんざいなので色々なところで反感を買った。しかし、自分で言うのもなんだが、最後の一線でぎりぎり踏みとどまっていたのは基本的には憎めない愚か者であったからだろう。これで頭が良かったらほんとに嫌なやつだと思う。そういった意味ではOもYも憎めない愚か者であった。類は友を呼ぶのである。それとも朱に交われば赤くなるのであろうか。三人のうち誰が朱であるかは言わないでおこう、もめる元である。 入った時には将来を嘱望されていた我々14人の同期も、それぞれにメッキがはがれたり息が上がったりしてそれなりにバラけてきていた。もちろん我々三馬鹿トリオは自他ともに着実に自分たちの地歩を固めつつあった。私は押しも押されもしない働き者として(この際効率の善し悪しはおいておくとしての話だが)認知されていた。まあ、元気なだけってことだね。Oは出向先で眼鏡に目を書きいれて居眠りに精を出しているとのまことしやかなうわさが流れるほど出向先に溶け込んでいた。本人は出向先には随分気を遣っているとの発言を繰り返していたが、もはや誰もまともに取り合うことはなかったと記憶している。Yはその人相・風体のみで同じく出向先で恐れられていた。しかし不思議なことに二人ともそれなりに「出来る」と評価されていた。捨てる神有れば拾う神有りである。なんのこっちゃ!? よく3日3月3年などと言われる。仕事を辞めたくなる時期の総称である。いくらなんでも3日はないだろうと思っていたが後に転職後の会社で、そう言っていい事例を目の当たりにする。聞けば何年かに一人はそういう度はずれた人が出るらしい。3年目を向かえ、我々の脳裏にも次の人生がかすめるようになるのだがそうなるのはもう少し先のこと。まだ、そんなことはちーとも考えない、アンポンタンの私がいた。失恋のショックはまだ尾を引いていた。昔から、ぐずぐず、ウダウダと何時までもうな垂れている軟弱な男だったのだが、この時もかなり長く引きずってしまう。情けないことではある。 それでも仕事は待った無しだった。わけも分からず目の前を仕事が通り過ぎていく、という時期はとうに過ぎていた。この頃には何にも分からずに目の前を通り過ぎていくという、一段高いレベルに入っていた。なにしろ何も分かっていないということは十分すぎるほど分かっていたので、ちょっと参った。「こりゃ、あかん」てなもんである。そう言えば本も新人の時に買った以外はとんと買った記憶が無い。うーん「こりゃ、いかん」のである。ちっとは勉強せいと我ながら思う。君はやれば出来るんだから、ほんとだよ。やらないからいけないいんだよ。そんなことを言って自分を叱咤激励してあげたくなるくらい、アンポンタンだったなあ、私って。 そうそう新入社員の時の専務の自宅での失敗ってやつは結構笑える。もちろん当時は笑い話になんかならないほどショックを受けたのだが。御呼ばれはしたものの、緊張のあまりほとんど誰も口をきかない、笑顔が引きつる。そんな雰囲気を何とか和らげようと専務が一生懸命に仕事と無関係な話をしてくれるのだが、一向に座は盛り上がらない。「僕はさだまさし、なんかも聴くんだよ」なんて言われてもみんな「どうか自分がさされませんように」なんて苦手の授業を受けているように固まっていたから、、益々いけない。 話がどんどん仕事に近くなってきた。いやな予感がしたときに今は別府に住んでいるEが専務の質問に答えて「親はなくても子は育つ」などと飛んでもないことをのたまった。問題発言である。これが元教育者の専務の機嫌を悪くした。それでも向こうも大人である。叱責するとか威嚇するとかはしなかった。ただ、険悪な空気が流れたことだけは確かである。「どうか当たりませんように」なんてことを考えていると当たるのは苦手な授業と同じで「ところでxxx君、君は何のために働くのかね」と個人の価値判断を根底から問い掛けるような質問が私に飛んだ。自慢ではないが「人はパンのみにて生きるにあらず」というのがそのころの私の信条である。「こちとら金のために働いてるんではねえんですぜ」てなもんだ。それをそのまま言えばいいのに、まずは一般論とばかりに「そうですね。やはりお金は重要ですよね」と答えた。すぐ続けて「でもお金だけで働くのはつまらないですよね」と決めるはずだった。でもその一番大切な後半の決め台詞は、前半の発言のために永遠に喋る機会を奪われてしまう。これが専務の逆鱗に触れたのだ。結局残ったのは哀れ、問題発言その2だけである。 どうも専務は、私がそんなことを言うとは思っていなかったようで、先ほどのEの発言で溜まっていたものもあり、とうとう堪忍袋の緒が切れてしまったのだ。それから、延々とお説教である。「いや、専務。お金で働く気はないんです」と言う一言が言えないまま時間だけが過ぎていったのである。この時逆鱗の端緒になった不穏当発言をしたEはちゃっかり専務の息子を連れて近くの公園に遊びに行ってしまって居なかったことを付け加えておこう。お説教の嵐の後、何食わぬ顔で戻ってきたEは「みんなどうしたの」とすっとぼけていたのである。 「お前のせいだ」今でも思う。E、お前のせいでみんな怒られたんだ。本当にそう思う。自分のことは棚においてのことだが。みんな若かった時の忘れようもない思い出ではある。 |
少し見えてきたような気がした。 例えば自分の能力がである。例えば自分の才能がである。例えば自分の限界がである。もちろん単なる勘違い、思い違い、甚だしい誤解ではあるが。なーんとなくそんな気がしてくるのである。多分自信過剰と自信喪失の行ったり来たりで何がなんだか、どれがどうだか分からなくなってきたことへの反動なんだろうね。何も見えないことはアンポンタンの私にもちょっとばかり不安なものだから、分かったような気がしていたかったんだ。もっとも自分の限界なんて大学の頃から十分に認識はしていたが。 友がみな我より偉く見える日よ、であったり。友がみな我と同じに見える日よ、であったり。漠然とした将来への不安感を感じていた。検査という職種にも少し飽いてきた。熱しにくく冷めやすいという私の欠点がニョキニョキと頭をもたげ始めていた。仕事はほとんど注文生産に近いので同じ仕事を毎日毎日やるといったことはなかった。それでも、大きな差はないようにも思われた。理論で組み立てていくタイプではなく実際の手仕事でなんとか目の前の問題をこなしていくタイプの私にとって初めの頃のわくわく感が失われつつあった。誰が悪いわけではない、何がいけないわけではない。ただ、そんな時期に差し掛かっていた。 でも、そんなことくらいで飲んで騒ぐペースは崩れなかった。三馬鹿 トリオは行き付けのスナックで順調にサントリーの売り上げに貢献しつづけていた。ボトルはしっかり、ちゃっかり週一のペースで空いていった。誰がしっかりなのか、どいつがちゃっかりなのか良く分からなかったが、今考えれば店の店長がしっかり、ちゃっかりなんだろうね。 「だるま」と言われたオールドというウィスキーがその頃の定番であった。オールドは10のうち8から9の店で出される定番中の定番であった。その頃リザーブなんて酒は高級品で、しがないエンジニアの私たちには縁のない酒であった。ビールはキリンのラガー。これも定番中の定番である。それしか店においてないのであるから、他の選択肢はない。否応なしである、有無を言わさずである。致し方ないのである。私たちは大海原に浮かぶ枯れ葉、その枯れ葉にしがみつく三匹の蟻みたいなものである。いいも悪いもない、のである。居酒屋で飲めば「あたりめ」「えいひれ」「煮込み」「冷やしトマト」なんて安上がりなんだろう。金が無いからではなく、それが好きだから、益々嬉しくなってしまう もちろんこの頃グルメなんて言葉はなく、大の男が「これはちょっと」とか「出来ればあっちのほうが」なんてことは言わないもの、それがルールなのであった。「食えりゃいいんだ、酔っちまえばみんな同じだ」こんな暴言を吐いていたのだから職人さんには大変申し訳ないのである。今では「やっぱ、地ビールだね」なんていっぱしのことを言っているのだからチャンチャラおかしい。そもそもこんなあほなことを言うのが「いっぱしのこと」だなんて思っているのだからまったくもって馬鹿は死ななきゃ直らない、のである。 |
スタートダッシュでつまずいて序盤の出遅れを悩む若者たちよ。心配するな 私もOも今でも何とかエンジニアの道を歩いている、歩いていけてる。入社3ヶ月目で感じた落ちこぼれ感覚はもうこの頃には動かしようもない実感となっていた。それでもOがいるから安心だ、と高を括っていた。多分Oも私のことを頼りにしていたことだろう。持つべきものは友である。それも自分よりちょっとだけ後ろを歩いてくれる友である。ここまでくると呑気というより愚かと表現すべきだろうが、愚か者が怠け者の服を着ているような男なのでこの時期になってもちっとも勉強なんかしなかった。学校でてまで勉強したいと思う変わり者ではないというのがこの頃の私の偽らざる心境である。それでも回りにはとても優秀な技術者がいて、そのことが適当に後ろから背中を刺激し、最初の遅れを取り戻すことは出来ないまでもなんとか2番手グループに食らいついていた。もっとも2番手グループと言っても私とOぐらいのものだったかもしれないが。そのうえひょっとしたら周回遅れだったかもしれないが「それがどうした」である。 相変わらず飲むだけで建設的な事はなんもしない暮らしではあった。春が近づいてくれば嬉しくなるという程度の季節感であった。それでも確実に時は流れていった。 なにやら後輩なんてものも気がつけばその辺をフラフラと浮遊している。去年の新人君もどうやら人並みの仕事ができるようになったようだ、と本人だけが勘違いを始めるぐらいには成長していた。私の部署には二人の新人君が入っていた。中肉中背のNと長身細身のHである。なかなかに味わいのある二人である。特にNの方はそのキャラクターからみんなのおもちゃと化していた。もちろん今のような陰湿な「いじめ」ではなく堂々としたものであほ!とか馬鹿!とかなにやってんだ!とかのお小言を各方面から頂戴していた。遠慮会釈なく、そのうえ途切れること無く頂戴しまくっていた。女性陣からも分け隔てなく頂戴するというりっぱさであった。そんな時決まって私に甘えてくる軟弱者のNを優しく守ってやるほど私はお人好しではない。ここぞとばかりにさらに痛めつけてやった。それが人生というものである。 「そんなに苛めないで下さいよ」なんて言われるともっと苛めてやると思うのだから人間は始末が悪い。私だけではない。人間とはそういうものだ。でもNもさる者引っかく者である。拗ねたりいじけたりなんかしない、堂々とした苛められっこである。「それがどうした」なのである。勉強は私より数段出来たであろうに、なんの因果で私なんかの下についてしまったのであろう。Nにしてみれば時代が悪かったと諦らめざるを得ない。 でもそんな事は大したことではない。みんな今よりもっと品のある顔をしていたと思う。何もないこと、持たざること、それは欠点ではなかった。私たちはどちらかといえば追い越すことより追い越されることの方が多い者達だったかもしれないが「それがどうした」である。 風は爽やかだった。公害が今よりも激しい時代だったから単なる勘違いかもしれないが街に吹く風は確かに春の気配を運んで来た。そう自然に信じられるほどの透明感にあふれていたのである。 |
’80年と記されている。 Cさんにもらった誕生日プレゼントにだ。裏地にコテで焦がしながら書いたものである。しゃれた革のペンシル入れだ。結構重宝して使っている。そう、今も出張の時とかに使っているのである。物持ちがいいのが私の数少ないいいところなのである。仕事の関係で手慣れたもので彼女の手作り品だった。「へへー」とありがたくいただいた。もらえるものは借金と苦情以外は遠慮なくがこのころの私のポリシーだった。もちろん私も彼女の誕生日にはちゃんとプレゼントをした。安物の大学ノートに自筆のつたない詩を7つか8つである。夜酒を飲みながら、1時間程度で書きあげた。コストは限りなく只にちかい。うーん、穴があったら入りたい。 一月の終わりはYさんの誕生日だった。この頃にはもうスナックには顔を出さなくなっていたために、「おめでとう」の一言も掛けてあげれなかった。そういえば一回も優しい言葉を掛けなかった。そして2ヶ月後に私の誕生日がやってきた。Yさんの友達のCさんは前と変わらず飲みにやってきていた。顔を合わせれば前と同じように馬鹿な話しをして飲んだ。そんな中での贈り物だった。嬉しく、恥ずかしく、ちょっと罪の意識がした。 Yさんの誕生日にもきっとCさんは何かしらプレゼントをしたのだろう。みんなが集まるこのスナック以外の場所で。まるで、私が彼女たちから憩いの場所や飲み仲間を奪ってしまったような気がした。 もちろん、酔った深夜最終電車を待つ冬のホームとか、やけに早く目覚めた二日酔いの朝とかに、なんとなく、キレギレにではあったが。それでも十分私の心を苦しめた。 それなのに大学ノートに自作の詩である。一時間である。人非人と言われても甘んじて受けるしかない。我ながらトホホである。愚かの二乗だなあ。あの頃はそれがかっこいい、と思っていたのだろうか。きっとそうなのだろう。誰もかっこ悪いことを好き好んでやったりはしないよね。私は時々やったりするけど、あれは多分、、、違うと思う。 あの時のちょっと胸が焼けこげるような気持ちに包まれる誕生日をその後経験しないまま今にいたってしまった。確信はないものの裏切ってしまった悔恨に少し似ているようなそんな胸の苦しさだ。今では、飲み過ぎで本当に胸が焼けこげるだけのどうということもない日々を送っている。こちらの方ははっきりと後悔の味そのものであると確信しているのだが、どうにも止められない。 |
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