悔恨録 : 風はいつだってアゲインストだった

無知だった、愚かだった、頼りなくていい加減だった

でも誰でもない、私が一番私らしかった頃の話を少しだけ

主な登場人物

:主人公、情けない怠け者 :三馬鹿トリオの一人、広島は因島の生まれ。YはやくざのYではない。 :三馬鹿トリオの一人、野生児。怪しげな友達が多い九州男児。 Yさん:色白、凸凹のはっきりした美人。 Cさん:Yさんの友達。勝ち気な女の子。 Yちゃん:行き付けのスナックの姉御。Yさんの友達。 M先輩:私の良き飲み仲間。単なるお人好し

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第一(笑)寿荘の頃 第一部(第一話〜十話)

第一話 「寿荘の頃」

第二話 「吊り出しに失敗した夜、コウモリの飛ぶ川」

第三話 「寿荘の頃2」

第四話 「3冊の本、そしてTTL及びカラーコード」

第五話 「一週間の通勤、一ヶ月後の一人暮らし」

第六話 「人違い、彼女はM先輩の知り合いだった」

第七話 「出向先でのスタート、検査を生業として」

第八話 「美しさの無力と温度変化の悪戯」

第九話 「右も左も一時間、月給10万の生活」

第十話 「安上がりの贅沢、豚汁とシーバースリーガル」


第一話「寿荘の頃」

あの頃は年がら年中飲んでいた。

学生ではない、社会人になり立てのあの頃だ。学生の頃は親が下戸のこともあって殆ど飲まなかった。家に酒がなかったことと親の仕事仲間のおじさんがあまり酒癖のよくないこともあって、どちらかというと酒飲みは嫌いであった。
酔ってからまれたりした、そんな思い出が残っている。それなのに社会人になったらいきなり飲みだした。楽しかった。飲むことも友達と騒ぐことも、もちろん酔うことも。会社の隣街に同僚二人が住んでいる汚い、狭い、古いアパートがあった。「寿荘」といった。「ことぶき」とは笑わせてくれる。しゃらくせい! と思わず言いたくなるような共同トイレの安アパートである。今なら学生も住まない、そのアパートの二階に部屋続きで悪友が住んでいた。瀬戸内海は村上水軍、因島のY。九州は熊本のO。この二人がこの頃の私の悪友、飲み友達であった。

その街の駅前にスナックがあった。ここが私たちの溜まり場となる。その外の同僚や先輩、その友達といつも誰かが飲んでいる、そんな溜まり場であった。
見つけてきたのはYだ。偶然入ったスナックのマスターが実は我々の会社の先輩であることがわかり、私とOを連れていった。それからは、週3回ぐらいのペースで通った。3人で共通のボトルをキープし、なくなったら入れておくというルールも自然に出来あがった。二人とものん兵衛だったので割り勘負けする心配は無かった。負けてはならじと私も頑張った。酒を飲むことにさえ頑張ってしまう程無知で愚かだった。飲んではどちらかのアパートに泊まる。土曜、日曜と連チャンで飲むという日々だった。休出した土曜でも律義に飲みに行った。月に二回は休出をする、そんな暮らしをしていても飲むペースは変わらなかった。
でもその頑張りもあってボトルだけは順調に空いていった。ボトルだけは順調に

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第二話「吊り出しに失敗した夜、コウモリの飛ぶ川」

酔い覚ましに散歩に出たのか家に送って行こうとしたのか覚えていない。

今では脳味噌がスカスカになってしまったのではないかと心配になるほど記憶が定かではない。昨日のこともそうだし一年前のこともそうだ。悲しいことにこの頃のこともかなりあやふやである。切れ切れの思い出が多い。これもその一つ。
とにかくいつものスナックで飲んだ後、その頃好きだった同い年の女の子と連れ立って近所の川沿いを歩いている。記憶はここから始まる。もう相当飲んでいたのかも知れない。彼女は女の子というには余りにきれいで、私より余程大人びた、しっかりした人だった。大人びるにはそれなりのわけがある事を知ったのはしばらくしてからのことだ。とにかくその頃は何も知らない単なるバカだった。

どんな話をしたのかは忘れた。多分覚えていないのではなく忘れたのだ。月明かりの、いやに明るい夜だった。小さく汚い川沿いを私たちは歩いていた。「寿荘」に向かう道でもあった。大きな蛾かなにか、変な鳥みたいなものが不思議に群れ飛んでいた。突然、相当突然私は彼女を抱き上げた。今思うと抱き上げるというより相撲の「吊り出し」みたいなものだ。多分彼女にとっても突然の二乗ぐらいの「吊り出し」だ。酔うとわけがわからなくなるのはもう有名だったので、「またかっ!」と思ったのかも知れない。彼女は特に騒ぐわけでもなくおとなしくしていた。苦しくて声を出せなかったのではない、と思う。なんか胸がわくわくする展開だ。それなのに、あの馬鹿が、、、
突然闇の中から「おい、なにしてるんだ」といつもの九州なまりの声とともに、Oが電信柱の向こう側から姿を現した。スローモーションのように現れた。哀れ「吊り出しは」失敗に終わったのだ。

私は「いや、別に」とかなんとか言って彼女をそっと降ろした。
記憶はここで終わっている。それで終わりである。これが全てである。
多分、その後は「寿荘」に戻ってOと飲み直したんだと思う。彼女とはアパートの前で別れたんだと思う。この後この夜のことを彼女は何も言わなかった。私も何も言わなかった。二人が会うのはいつも飲み屋だけで、私たちはすぐに会えなくなってしまったから、そんな機会もなかった。もちろん私は振られたのだが。
あの時あいつがもう少し気を利かしてくれていたら、あの後私は何をしたのだろう。一体「吊り出し」た後何をしたのだろう。何かをするにはあまりいい場所ではなかったあの川沿いで。

あの頃の私は、好きな娘を優しく抱きしめたりすることも出来ない程無知だったんだ。彼女の大人びているわけも知らない程、いや気付かないほど愚かだったんだ。
多分夏に向かう時期の、希望に満ちていた、そんな頃の忘れられない夜の思い出だ。
しばらくしてあの群れ飛んでいた不思議な鳥のようなものはコウモリだと知った。教えてくれたのはOだった。

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第三話「寿荘の頃2」

学生の頃もそうだが基本的に社会人になっても怠け者であることに変わりはなかった。

勉強が嫌いで大学院にいこうと思ったものの試験があると知って諦めたぐらいに無知で愚かだったのだが、まさか会社に入ってまで勉強しなければならないとは思わなかった。それでも悪戦苦闘と呼べば呼べないことはないけれど、どちらかといえば嬉々として仕事にいそしんでいた。もちろん怠け者のつけは確実にやってくるのだけれど。
とにかく入社そうそう上記のY、Oと三バカトリオを組むことになる。もっともこう言ってるのは私だけで後の二人は自分を抜かして大馬鹿コンビとでも思っていたのだろうが。でも仕事は一生懸命やった。少なくとも私とYは。職場が離れてしまったOは、直接見たわけではないが何人かの話を総合するとどうもまっとうな働きはしていないようであった。まあ、それなりにってことにしておこう。ちなみにこんなやつでもいまや大会社の課長に納まっている。これをみても年功序列が厳然と存在していたことが理解できる。

後に示し合わせたように3人ともこの小さな電気会社を転職することになる。最初にYがついで私が、一年遅れてOが。行きつけのスナックも潰れ、この街に通うこともなくなる。わずか3年程度の短い季節のことである。

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第四話「3冊の本、そしてTTL及びカラーコード」
「君は何冊本を読みました?」

専務に聞かれたのは試用期間が過ぎ正社員になったときの懇談会でのことだったか。大卒社員14名、これでも創立以来の最多の期待の星の入社であった。東横線から建物の一部がちょっとだけ見える、総勢200人程の一部木造の残る会社であった。
この専務が元教師ということもあって新人育成には特に熱心であった。もちろんこの場合の「本」は技術書やノウハウ書といった「専門的な書物」のことである。普通は専門書というのだろうが、私の場合はもう少し範囲を広げて「専門的な書物」としてもらわないと専務のいう最低3冊にならなかった。確かマイコン入門書、ロジックICの技術書、後の一冊が何かは忘れた。それでも数合わせだけは何とか出来た。他のやつの話を聞いていると例の三バカトリオは大した事はない。特にOは私と似たりよったりだった。Yには少しばかし先を越されたかな! てなもんだったが、ソフトウェアを担当する同僚達には「これはやられた」って感じだった。中にはなんか知らない難しいプログラムに関する技術書を原文で読んでいるやつまでいた。

これが入社3ヶ月後のことである。わずか3ヶ月でこんなに差がつくわけが無い。あいつらとはスタート地点が違うのだと、この時私は信じていた。無知だった。3ヶ月もあればこの程度の差は簡単に着いてしまうのだと知ったのは大分たってからである。知識はいつだって遅れてやってくる。知恵は必要としているときには身に着いていない。こんな初歩的なことも後になって気付いた。手後れだったけどね。
この時の受け答えが如実に示したように私とOは主流の「設計」ではなく「検査」という傍流セクションに配属されていた。成る程、会社のお偉方は伊達に歳を取っていなかったのである。入ってきて直ぐに私の可能性を見極めていたのだ。いつか専務に「3ヶ月もみればその人がどこまでいけるか大体わかります」といわれたことを思い出す。その専務に入社3ヶ月後の懇談会で言葉使いまで直されたのだから傍から見たらいわゆる「落第生」みたいなものだったのだろう。

でも本人は一向に気にすることもなく(なにしろ何も気付いていなかったのだから、気にしようがなかっただけなのだが)楽しく仕事を続けていた。何も知らないために毎日が知る喜びで溢れていた。ちょっと専門的になってしまうけど先輩に「TTL(ティーティーエル)はわかるよね?」って聞かれて「TTLって何ですか?」と聞いたのだから如何にアンポンタンだったのかと、我ながら情けない。(TTL: ICとかLSIとか呼ばれる論理素子の一種のこと)
これが大学の電子通信科をでた男の言うことだろうか。でも言ってしまったのだ。しょうがない。これ以降検査の先輩は私にはとても優しく教えてくれるようになった。もし逆の立場だったらどうだろう。きっと「怒りの鉄拳」が飛ぶだろう。私はそれほど寛大ではない。でもあの時の先輩は「カラーコードって何ですか?」というアンポンタンの二乗の質問に少し腰砕けになりながらも丁寧に教えてくれた。(カラーコード:抵抗だとかコンデンサだとかの部品の値を示すもので色と数字が1対1で対応している。これが読めないと検査業務そのものが成り立たない)逆の立場だったら「真空飛び膝蹴り」ではすまないかもしれない。私はそれほどお人好しではない。

「ああっそういえば、カラーコードは大学でならった」と思い出したのはその年の暮れも押詰まった頃のことである。いつだって知識は遅れてやってくる。少なくとも思い出した時には遅すぎることを知った。罪と言えるほどの無知だったんだ。あの頃の私は。社会人一年生の未来だけがやけに大きく見えた頃の思い出である。

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第五話「一週間の通勤、一ヶ月後の一人暮らし

検査に配属された私は一週間もしないで、出向させられる。

取引先の大手電気メーカに一年間の、今でいえば派遣社員みたいなものだ。新入社員の教育を向こうにやってもらって結構な金まで取るのだから、楽な商売と言えなくもない。そうやって行きっぱなしになっている先輩も結構いた。YもOも結局は同じように出向させられることになる。なんのことはない、同期の半分以上が出向した。場所は違っても全てその大手だった。売り上げの殆どをそこに依存していたこともあったし、うちの会社は技術力があるという評価も得ていたからだと思う。人によってはそのメーカーの名刺をもちそこの社員と全く同じに働いている人もあった。
私はここでもちょっとみんなと違う道を歩く。アメリカ空軍に納める航空機管制システムとかの検査を一年限定で行う。なんか季節労働者みたいだね。でもメーカーの人は結構優しかった。区別はもちろんあったけど、差別などは無かったし、色々教えてくれた。自分のところの新入社員と同じに扱ってくれた。わずか一週間しか行かなかった自分の会社より大手のメーカーに親しみを覚えることもあった。

通勤距離が伸びてしまったこともあり、体がシンドイということで1ヶ月もしたらアパートを借りて一人暮らしを始めていた。自分の会社と出向先の中間地点の、多摩川の河川敷の側の木造2階建てのアパートだ。家賃は安かった。六畳、四畳半で二万五千円だった。台所だって2畳ぐらいあったのではないだろうか。但し風呂は無、トイレは汲み取り。顔をしかめる友達もいたが私にとっては天国だった。ここが今までで一番広い生活空間である。恥ずかしながらこの時の栄光を再び手に入れることもなく、現在に至っている。「広さより近さ」が最近の信条なので、もう栄光は諦めざるを得ないのかもしれないが。初めての一人暮らしであった。

最初はパンの朝食を摂った。トーストにする時間があった。そのうちそのまま食べざるを得なくなった。直ぐに牛乳だけになった。最後は会社で牛乳を飲むようになった。最後にはなんて随分大袈裟だけどこうなるまで多分2週間はかからなかった。買ったトースターは置物になった。買った炊飯器もオブジェになった。親が必要だと言って持たしてくれた食器類の殆どは小物入れや小銭入れに転用された。
始めは腹が減ってしょうがなかったが、直ぐ慣れた。出向先の食堂は品数、質とも落第点だったので、おにぎりを買って庭で食べるようになった。あんなものは金を稼ぐ人が食うものではないといって、牛乳とおにぎりの生活を続けた。会社で売っているおにぎりがまずいと時々通勤途上の出張販売店で買うこともあったが、殆どは会社のおにぎりであった。天気のいい日はそのまま芝生に横になってうつらうつらした。時々寝過ごした。まったくいい加減なサラリーマンであった。

もっとも自分では一度もサラリーマンだと思ったことは無かった。自分が何者かは分からないがサラリーマンではないとかたくなに決めていた。そんなに長く勤めてゆく自信もなかったし、その気もなかった。
そのくせ自分でも不思議だったのだが、エンジニアの仕事は楽しかった。後に、かなり後に天職だと思うようになるのだが。

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第六話「人違い、彼女はM先輩の知り合いだった」

それは単純な人違いだった。

彼女の知り合いの人と私を間違って声をかけたのだ。
溜まり場のスナックの一階、カウンターで飲んでいた女性二人に声をかけられた。どうも、誰かと間違えたらしい。名前は聞き取れなかった。というより何を言ってるのかわからなかった。どうも私に向かって何かいったみたいなのだが、どう対応していいかわからないでオロオロしていたら店の女の子が助け船を出してくれた。「Mさんじゃないわよ」「御免なさい、彼女目が悪いの」

よかった。何か悪いことをやってしまったわけじゃないんだ。ほっとしてカウンターに座り直した。昔から自分に変に自信がないところがあるので、悪くなくてもすぐ謝ってしまう癖があり、この時もとにかく御免なさいをしておこうかと思っていたので、本当に助かった。その時はYもOもまだ来ていなかった。私も店に来たばっかりで殆ど酔っていなかった。素面の私は単なる小心者ものだ。

「奇麗なひとだ」と思った。本当は複数形でなければいけないのだが、許してもらおう。店はそれほど明るくなく私の視力も悪かったので、その時にはっきりしたことがわかったとは思わないのだが、間違いでも声をかけてくれたので美人だと思いたかったのだろう。実際二人ともかなりのもので、特に向こう側に座っていた女性は私にとってはかなりの二乗で奇麗だった。いや、多分誰にとっても。私の審美眼は少し変わっているところがあるが、彼女の場合は一般的な意味での美人の部類に入っていた。小柄だが凸凹のしっかりした点もとても喜ばしいことだった。このへんは個人差があるかもしれないが、私にとってはとても喜ばしいことだった。
この時、人違いされたMさんとは、よく一緒に飲んだ会社のM先輩だとその時知った。店長がMさんと私が同じ会社だと教えてくれたのだ。M先輩は人のよさが唯一の欠点と言われるようなお人好しで、私にとってとても運がいいことに彼女たちとも仲がよかった。二人はよく店に飲みに来た。

私たちがちゃんと出会うまでもう少し、後一年程待たなければならなかった。

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第七話「出向先でのスタート、検査を生業として」

検査とは文字通り製品の検査を指す。

完成品の概観検査(傷が付いてないか、汚れてないかとか)もそうだし、性能試験や回路の調整(決められた仕様の通りに機能するか、変な動きはしないかとか)、性能が出なければ時には改造、設計変更もする。
製品の仕様を決めるのがユーザーでそれを実現するための図面(回路)を書くのが設計、図面を実際に形に起こしてゆくのが製造だとすれば、検査はその仲立ちをし品質管理にまで立ち入る結構重要な仕事であった。もっともそんなことはどうでもよく、ようは面白いか面白くないかだ。
悪くはなかった。幸い出向先の工場にはYもいたし会社の先輩もかなりいて淋しい思いはしなかった。出向先で初めて出会う先輩も多かった。一応今年の新人の情報は伝わっているらしく「ああっ、君が今年の新人の、、、」って感じだった。出向先というよその会社で初対面の挨拶をする不思議な先輩後輩なのであった。もっとも変な感じがしたのは私だけで先輩達は別にどうってこともないようであった。

検査は論理より実践といった趣があり手仕事が好きな私にとっては入りやすかった。理論が駄目だった事もあるけど、まあ深くは考えないようにしよう。そんな検査にも後に不満を抱くようになるのだが、とにかく結構あっていた。設計と製造の仲介役ではあるが、主として製造サイドで仕事をしていた。そんなこともあって製造のオネエ様がたにも可愛がってもらった。昔から適齢期以外の女性には不思議に人気があった。年を取れば取るほど、または若ければ若いほど寄ってきた。女性運の殆どを「10年後に会いましょう」か「10年前に会いたかった」方面に使い果たしていた。

セクハラなんて言葉のない時代で、みんな堂々と私を可愛がってくれた。どう考えても彼女らの方が力を持っているような気がした。下手をすればパシリになりかねないところだが、業務的には私が指導する立場にあった。一年目の、よその会社の、若造に、偉そうに言われて腹がたったこともあるだろうなぁと思う。でも、誰も仕事で文句はつけなかった。プロ意識があったからだが、時代も良かったのかもしれない。みんなが私の些細なミスを大目に見てくれていた、そんな風だった。

学生の時だけではなく社会人としても失敗だらけの人生をおくる、その舞台の幕が上がったばかりの、夏に向かう時期の頃の話である

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第八話「美しさの無力と温度変化の悪戯」

テレビで言えばチューナーのようなものだ。

電波受信装置の一部、見たところ銀色に光る弁当箱のようなものがその日の立ち会い検査の対象だった。担当していたアメリカ空軍に納入する設備の立ち会い検査のために、一年の赴任でアメリカから検査官がやってきていた。名前は忘れたが小太りの気の良さそうなおっちゃんだった。いつもはどこに居るのか分からないが、(宿舎で寝ているか酒を飲んでいると噂されていた)週に一回程、各工程から製品を選択し性能チェックを行うのだ。普通はそんなことを新人にやらせたりしないのだろうけど、向こうの係長が気を遣ってくれ、あろうことか私が抜てきされた。

まあ、今だから分かるけど普通にやれば難なくパスする簡単な試験だった。「とりあえず一度やらしてみよう」ってな感じだったのだろう。アメリカ空軍の品質、性能に対する厳しさは半端じゃなかった。もっとも下手をすればそれこそ命に関わるので真剣なのだろう。従って「間違いました、もう一度」とはいかないのである。
係長に「気楽に」とは言われたが失敗してはいけないとのプレッシャーは相当あった。検査項目は概観一般から始まる、もちろん素手で触るなんてことは許されない。手袋着用で仕事をしていた。傷、汚れ、部品の欠損等のチェックが終わったら、最後は性能検査である。
なんの為の機能であったかはもう忘れたので説明しないが、S(エス)字特性というアルファベットのSの形になっているかのチェックである。この時に重要なのはおおざっぱに言えばSの字の大きさである。ある決められた範囲以上の幅を持っていなければいけないのである。前日から準備に入った私は、数台のセットの中から自信の一台を選び出し、念入りに磨き立てた。何度か立ち会い検査の予習もした。用意した数台のどれでも問題無く受かるはずであったが、少しでも性能のいいものをと、S字の大きさだけでなくS字の美しさも考慮に入れたのである。左右の形のぴったりそろっているものを選んだのである。もちろん試験の採点には関係ない。問題は「大きさ」で「美しさ」ではない。
私は当日の朝、早めに準備を済ませ再度特性の確認を行った。係長に「大丈夫?」と聞かれても自信満々であった。何しろほれぼれするS字カーブの美しさなのである。ちなみにこの特性はリング状になっているコイルと呼ばれている部品を伸ばしたり縮めたりして調整するのである。職人技なのである。

恥ずかしいことに立ち会い検査は落ちた。S字の大きさが必要な幅に達しなかったのである。一度目の試験で判定点ギリギリ、自分の顔が歪んでゆくのがわかった。しかしにっこり笑って「Once more」。もう一度入力、設定をゆっくり再確認。「ええと、入力信号は規定の大きさになっているかな」「スイッチの設定ミスはないかな」と慎重に、慎重に測定し直したら、今度は明らかにNGだった。見上げるように立ち会い官を振りかえると首を横に振っていた。
「ねっ、形は奇麗でしょ。ほら、ほらこんなに奇麗でしょ」とは言えなかった。言いたかったけど言えなかった。事前に準備していた英語のリストには入っていなかったから。英語は殆ど出来なかった。「シェーン、カムバック」という気力も無かった。
本来ならこの手の立ち会い検査はNG一つでそれ以外も全て(無条件に)NGと言われてもしょうがないことなのだが、係長がうまく取り成してくれたらしい。もっとも試験管にしたら子供にしか見えない私の失敗を大袈裟に騒ぎ立てる気はなかっただろうが。
さすがに消沈した私に「気にしないで」と係長はいってくれたが、「試験に落ちました」と報告した時は相当慌てていた。悪いことをしてしまった。ほんとに。

落ちたことが許せなかった。あんなにチェックしたのに、一番いいやつを選らんだのに。問題は「大きさ」で「美しさ」ではないってことが理解出来なかったんだ。もう一度言おう。問題は「大きさ」で「美しさ」ではなかったんだ。
報告がすんでから「なんで駄目だった」のか、もう一度測定し直してみると、どういう事だ。昨日確認したのと同じ特性を示した。合格ラインである。
後にこのセットは温まると特性が変化してくることが分かった。試験の前準備でずーっと電源を入れておいたのが災いしたのだ。試験終了後に電源を落としておいた間に冷えて特性が回復したのだ。温特(おんとく)という温度による特性の変化があるのを初めて実感した。確かに人間も風呂に入ると体の一部分がダラーとするな、って冗談を言えるようになるまでには少し時間がかかった。

この失敗がありこのセットは温度変化対策が盛り込まれ完成度をますのだが、所詮私の苦い失敗を埋めてくれるものではなかった。何しろ求められていたのは美しさではなく、マージンの広さなのだということも分からない程愚かで無知だったのだから。これ以後も何度も何度も自分の愚かさを知らされる失敗を繰り返す。それでも誰かがフォーローしてくれた優しい時代のことである

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第九話「右も左も一時間、月給10万の生活」

南武線の沿線にアパートを借りた。

多摩川の河原に一分で行けた。駅までは2分ぐらいだった。初めての一人暮らしだった。
寝に帰るだけにはぴったりの所だった。府中にある出向先へも川崎の自社へも大体一時間かかった。8時半始まりだから、7時半には電車に乗っていないと遅刻した。最初は6時台の電車だったのが、少しずつ電車の時間が遅くなっていった。
それでもちょっとだけ時間の余裕があるように職場には入った。仕事を始める前に下準備をしたかったからだ。ドライバーだとかペンチだとかの工具類を出し半田(はんだ)ごてという、電気部品を接続するための半田(接着剤)を溶かす「こて」を温めたりする時間が必要だった。

あの頃はタイムカードだった。出向先の工場の門を抜け、職場である平屋の工場に入りそこでタイムカードを押したと思う。あまり自信はないのだが。
工場は遅くても夜は9時半で終了であった。電気代が勿体無いのでそれ以上は残れないようになっていた。9時半が近づくといっせいに片づけが始まり、あっという間に電気が消えた。みんな我先に家路に急ぐ、歩いて15分か20分の駅に向かうという生活を送っていた。水曜だけは定時間日ということで残業は出来なかった。毎日判で押したような繰り返しであった。8時半から9時半の。一日4時間、週に16時間、結局月で65時間ぐらいが普通の残業量だったのだろうか。これに土曜の休出が加わった。大変疲れたが、とても元気だった。

通勤電車は苦手であった。混雑が嫌だった。でもその電車に乗ってわざわざ川崎に住むYとOの所まで飲みに通った。一時間もかけて飲みにいくのは面倒くさかったが、せっせと通った。酔って電車に乗って帰っても来た。でも、帰るのが面倒くさくてよくYとOの部屋に泊まった。大抵どちらかは部屋にいて快く泊まらせてくれた。もっともこっちは酔っ払っているので、追い返すわけにもいかなかったと思う。
最初から泊まる予定で飲むことも多かった。ひどいときには一週間の半分以上が「寿荘」の仮住まいであった。4畳半一間の狭い部屋に男二人である。愛が芽生えても不思議ではなかったが、運良くそういう展開にはならなかった。土曜は自社で働くことも多かった。月に2回の休出がノルマのような会社であった。

「すみません、今週の土曜は休みたいんですが」「何か用があるの?」「ええ、ちょっと」これが週休2日を誇る会社の実態であった。いやぁ、本当に懐かしい。
「土曜出るなら」ってんで金曜の夜から飲みに出かけた。それでもって、深夜まで飲んで翌朝会社に行って、夜はまた飲んだ。もちろん自分のアパートに帰るのは無駄が多いのでYかOの部屋に泊まった。本当に自分のアパートは引き払おうかと考えたりした。
平日飲んでそのままYと一緒に出向先に出勤することもあった。もちろん、盆暮れの付け届けとかお土産だとかの心遣いはしなかった。儀礼廃止が私のポリシーだった。金で片がつくとも思っていなかった。
結局かなり図々しかったということだ。みんな金は無かった。なにしろ月給10万円の頃である。あるわけがない。でもピーピーはしていなかった。3人とも物をあまり買わなかった。買いたくても買う金はなかったけど、買いたいとも思わなかった。

飲む以外は買うも打つもしなかった。一体何の為の青春だったんだろう。馬鹿を言って馬鹿をやってバカバカシク暮らしていた。若さだけがたっぷりあった。

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第十話「安上がりの贅沢、豚汁とシーバースリーガル」

あまり味にはうるさくない私だが、この頃に贅沢の味を覚える。

「寿荘」に泊まった時の昼飯で今も思い出すのが駅前のカツ定屋である。ここの豚汁がめちゃ美味かった。具も多く味も気に入った。特に豚肉と大根が良かった。
「もっと、もっと大根をおねげえしますだ」って感じの目で店員さんを見つめてたのに、気づいてもくれなかった。 Yもここが気に入っていた。Oには味は分からないようだった。3人で良く食べにいった。

網に入った出汁用の野菜が崩れるくらいに煮込んであった。もしかしたらあの味は野菜の甘みだったのかもしれない。
もちろん私たちはそういうことには疎かった。美味ければ良かったのだ。グルメなんて言葉はまだ無かった。そんな事を得々と言おうものなら「この非国民め」と蹴りの一発も入れなければならない。そのぐらいしなければ恥ずかしくて生きていけない。そういった時代だったのだ。いや、大袈裟でなく。もちろん私たちの周りだけだった可能性はあるが、、、
この野菜は最後はしゃもじで粉々にされて出汁の中に吸収されるのだがその仕事を眺めるのも楽しかった。手仕事を見るのは昔から好きだったから。ただ哀しかったのはカツの大きさと豚汁の量が年々少なくなっていくことだった。

最初の頃は「これでもか」といった感じの大盛りでこちらも思わず「へへー、まいりました」の「これでもか、へへー、まいりました」の上下関係だったのに。最後には「こんなもんでひとつご勘弁を。あー! こんなもんですかねぇ」の下上関係になってしまった。
これなら値上げをしてくれたほうがいいって思ったこともあったけど、実際値上げされたら行かなくなっただろう。とにかくここで食べるカツ定はちょっとした贅沢だった。500円か600円だったと思う。全く安上がりに出来ていた。親に感謝しなければいけない。後の二人も安上がりだった。安上がりトリオであった。

この頃覚えたもう一つの贅沢が「シーバースリーガル」である。これを飲んだ時、初めて心からウイスキーを美味いと思った。これは行き付けのスナックで飲んだ。飲んだ瞬間「うまい」と思った。独特の樽の「焦げた」香りがした。本当は何の香りか分からないのだが、勝手にそう思っている。実際、香りなのか味なのかも判然としない。だけど好きになった。但し、こちらはこの頃酒屋でも6千円以上したと思う。店で飲むとなるとちょっと大変である。かなりきつい。相当やばい。大枚が2枚は飛んだりしたかもしれない。
じゃあ、初めの一杯はどうしたかって、それがよく覚えていない。誰かに奢ってもらったんだろうか。決して自分で注文したとは思えないけど。もちろんボトルは入れてないはずだ。回顧録を書いてみて確信したのだが、私の記憶はかなり壊れてしまっている。酒のせいかもしれない。もちろん「老人でもないのに痴呆症」症候群は大学の頃から始まっているので、それが原因かもしれない。

時々酒屋で買って大切に愛情を込めて飲んでいた。年に4本ぐらいじゃないだろうか。後に会社を変わって海外出張するようになると必ずお土産に買ってきた。限度いっぱいの3本を「シーバースリーガル」にしたこともあった。免税店で20ドルぐらいだった。今では酒屋なら二千円台で買えるようになった。
これは時間がたって良かったことの数少ない一つである。今でも自分で買って飲むウイスキーはこの「シーバースリーガル」だけである。月に1、2本ぐらいのペースである。金額にするとあの頃と殆ど変わっていない。時間がここだけ止まっているようなものだ。

他の酒に浮気しないのは、この酒が思い出と、ささやかな贅沢の両方を味わさせてくれるからである。安上がりに育ててくれた親に感謝しないといけない。

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