無知だった、愚かだった、頼りなくていい加減だった
でも誰でもない、私が一番私らしかった頃の話を少しだけ
主な登場人物
私:主人公、情けない怠け者 Y:三馬鹿トリオの一人、広島は因島の生まれ。YはやくざのYではない。 O:三馬鹿トリオの一人、野生児。怪しげな友達が多い九州男児。 Yさん:色白、凸凹のはっきりした美人。 Cさん:Yさんの友達。勝ち気な女の子。 Yちゃん:行き付けのスナックの姉御。Yさんの友達。 M先輩:私の良き飲み仲間。単なるお人好し
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第二十一話 「君とさんと呼び捨ての仲」
第二十二話 「取っても取っても、火を付けて」
第二十三話 「ゆらゆらとYさんの白い手が揺れていた」
第二十四話 「瀬戸内海、因島の酒宴」
第二十五話 「衣食足りたら、考えよう(食事風景)」
第二十六話 「衣食足りたら、考えよう(服装)」
第二十七話 「M先輩の記憶」
第二十八話 「冷蔵庫目当ての寄り道」
第二十九話 「若さ、滑稽、残酷」
第三十話 「でも、でも、本当は」
第二十一話 「君とさんと呼び捨ての仲」
xxx君。 本当は「君」付けで呼ばれるのは好きではない。会社の同期の女性達にも「さん」を付けて呼んでもらっていた。しかし同学年のYさんは私を「君」で呼ぶ。それも致し方ない。美人は何をしても許されるのだ。これは永遠に変わらない真理なのである。人生は不公平なのだ。 特に嫌な感じはしなかった。むしろしっぽを振ってついていきたい、てなもんだ。情けない。 人に「君」で呼ばれるのはいやなくせに年上のYのことは呼び捨てだ。そりゃそうだ、私たちは同期だ、年上であろうとなかろうと、そんなことは知ったこっちゃない。というわけでは、もちろん無い。素面の時の私は小心者なのだ。 何しろYは開襟シャツなんぞを着てようものなら、ちょっと危ない関係の人と間違われる人相風体である。まあ友達のよしみで百歩譲っても、「目つきが悪い小錦」ってなもんだ。言葉も広島弁だし、声もドスがきいていた。最初はもちろん「さん」付けで呼んだ。年上だと知ってからは気合を入れて「さん」を付けた。でも「お前らしくない。呼び捨てにしろ」と言われた。 昔からどういうわけか他人には私は「無礼者」に見えてしまうらしい。本来無礼なお前が何をかしこまっているんだ、ガハハ。ってことだろうか。 本当は人と人は尊敬の念を持って接するべきだと考えていたのだが、「俺とお前の仲だ」と言われれば致し方ない。それからは呼び捨てだ、もちろん時々年上ということも忘れた。致し方ない。ほどほどが出来ない人間なのだ、昔から。 Oは最初から呼び捨てだ。「ばか者」に尊敬の念を持つ必要はないというのがその頃の私の信条だ。なんてことは、もちろんない。初めは二人ともなんとも座り心地の悪い「君」付けで呼び合った。「xxx君はどんなもんですかねぇ」なんてことを九州弁で言われるのは結構きつい。「いやー、O君。なんてこともないですよぉ」ぐらいに返さないとバランスが悪い。傍から見れば仲が悪く見えてもしょうがない。 誰でも同じように私たちも初めての相手に恐る恐る近づこうとしていたんだ。友達になれるだろうか、なんて思いながら。 悪く言えば、相手の「値踏み」をしてから基本的なスタンスを決めた。ただ、動物で言う「テリトリーの範囲」を決める作業を終えるまでそんなに時間はかからなかった。不況の中、小さな会社に入社した総勢14名の仲間達はそれなりに自分の居心地の良い場所と相手を見つけた。 YはOを介して仲が良くなった。なるべくしてなった友達であり、私にとっては川崎の小さな街のスナックが、三馬鹿トリオが、その場所と仲間だった。 |
「煙草は良くないよ」 そんなことは分かってるよね、子どもじゃない。大きなお世話だ。でも好きな人が吸っているのを見るとやはり気になった。煙草を吸う彼女は結構かっこ良かったりした。それもかえって気に食わない。 友達のCさんも煙草を吸った。二人とも多分に意識的であったと思う。美人はもちろん何をやってもいいのだけれど、私の前でYさんが煙草を吸うのは許せなかった。「俺が嫌いなことはするな」という傲慢であった。少なくとも彼女はそう感じたと思う。実状は「お願い、体が心配だから止めて」であったのだが。情けない。 その日珍しくYさんは一人だった。珍しく私も一人だったと思う。 「煙草は止めたら」 好きだったから、だから彼女から吸いかけの煙草を奪い取り灰皿に捨てた。 おおっ、ドラマのワンシーンみたいだ。かっちょいい!? でもかなり歪んだ愛情である。情けない。 小学生なんかで、特定の女の子にちょっかいを出すワルガキがいる。好きなことをそういう風にしか表現できないのである。あれが私であった。ちょっかいを出す勇気は持っていなかったが、少なくとも表現方法がいびつであるという点において。 ところがYさんも強情だから、新しい煙草を取り出し火を付けた。もちろん、また、取った。Yさんは「ほっといて」とばかりにまた新しい煙草に火を付けた。こうなりゃ意地だ、また取った。彼女は取られても取られても新しい煙草に火を付けた。いい歳して二人とも何をやっていたんだろう。これじゃドラマじゃなく、コメディーだ。結局私が引き下がった。 これ以上やると怒られと思ったんだ。ますます、情けない。 それでも二人席を替えるでもなくそのまま並んで飲み続けた。いつものことでどんな話をしたか覚えていない。きっと自分勝手に好き放題しゃべくっていたんだろう。彼女は嫌な顔も見せずちゃんと聞いてくれた。 不思議なことにCさんとの会話の方はそれなりに記憶にある。 切れ切れであやふやな記憶の中にこの煙草の話のようにいやに鮮明に残っているシーンがある。一緒に座っていてもそれだけじゃ何も伝わらないことに気付いたのは随分後のことだ。 彼女にとっては気分を害した出来事の一つかもしれない。それでも私が彼女にしてあげた数少ないことのひとつなのだ。だからこそ、きっと今も私の心に、記憶に、しこりのように残っている。 この後、Yさんは私の前では煙草を控えるようになった、と記憶している。いつもの記憶違いでなければいいのだけれど。 |
ガラス越しにゆらゆらとYさんの白い手が揺れていた。 土曜の昼、いつものように飲んで寿荘に泊まった次の日。川崎の小さな街の駅前を歩いていると、二階の喫茶店で誰かが手を振っているのに気が付いた。どうやら、私に向かって手を振っているらしい。どうやら例のかわいこチャン二人組みらしい。手を振りかえすとおいで、おいでをする。ならばと少し緊張しながら二階の喫茶店に上がっていった。 ちなみに私のアパートは東京は23区外、東京都下、多摩川のほとりにひっそりと佇んでいる。 ここは土曜の昼下がり、散策するって感じの町ではなかった。梨園が広がるのんびりしたところではあったが。 二人と素面で会ったのはこれが初めてである。この二人はいつもつるんでいるんだ、って思った。 二人はなにか、しゃれたパンセットを食べていた。衣食住に殆ど無頓着な私は「なんだ、こりゃ」って感じだった。これおいしいんだから、と言われ「へー」とか「ふーん」とか生返事をしたが、結局は同じものを注文したと思う。程なく運ばれて来たパンとコーヒーを一緒に食べた。まっとうな食事に静かで清潔な空間。寿荘とはえらい違いだ。あそこには空間と呼べるものがない、とこの時気付いた。静かで清潔なと形容するべき空間そのものがなかった。もっとも空間があったとしても静かでも清潔でもなかっただろうが。 「おおー」これがしゃれた休日のランチってやつだ、西洋人だ、ハイカラだとちょっと感動した。一体、お前は何者だ。 そうか、しゃれた人はこんな風に休日を過ごすんだと知った。一体、貴様は何者だ。 二人は良くこの店に食事に来るようだった。しかし、私にはちょっと不釣り合いな感じがした。 Yさんは抜けるように白い肌を日焼けで少し赤く染めていた。小麦色に焼けることはないと言った。夏に海に行き過ぎて髪が随分傷んでしまったと言った。自慢の黒髪だった。夏の海に佇む彼女はきっと絵になったろう。そんなことを思いながら目を細めて窓の外に目をやった。夏の日差しより、彼女の瞳の方が私にとっては眩しかった。いつもより少しだけ彼女は饒舌だった。 窓際の席に差し込む日差しはまだ、残暑を思わせる暑い昼下がり。奇麗どころを前にして、しゃれた時間を無骨な会話で費やした。笑わせなければいけない、そんな感じだった。でも、素面の私は大して面白くないのだ。特に美人にはからっきし弱いのだ。基本的に笑いのパターンが「弱いものいじめ」「重箱の隅攻撃」「自虐」に絞られているので、まっとうな時間にまっとうな顔をして聴くには品とウエットに欠ける代物だったから。 でも沈黙は金ではなく禁であるわけで、次から次へとネタを披露しなければならない。結構きついものがある。こんなことならネタ帳を作っておけばよかった。でも「後悔先に立たず、いつも後から立ち眩み」と誰かが言ったように、今更だよね。 それでも、大きな破たんもなく時は流れていった。 一時間かそこらだと思う。注文したパンセットを食べ終えると、お約束のように「またっ」と言って先に席を立った。 今思えば素面の時こそ、いつも聞けないことを聞いておけばよかったと思う。そんなことも思い付かないほど私はアンポンタンだった。 一体何を見、何を聞き、何を伝えようとしていたのだろう。単なる通りすがり、通行人の役を演じただけで幕が下りてしまうと思いもしないある暑い日、ゆらゆらと彼女の白い手が揺れていた。 私たちの歩く道はくねくねと蛇行していくことを知らないでいた。これ以上近づくこともなく離れていくことをまだ知らないでいた。 |
広島は瀬戸内海、因島(いんのしま)。 Yの生まれ故郷である。大学は大阪、馬術部の部長。あまり細かいことは気にしない。寿荘でギター片手に歌うは「アリス」だった。全然似合わない。完全に浮いている。 そのYの故郷にOと私の二人が夏休みを利用して遊びに行った。大阪で一泊し、まだ卒業出来ないYの同級生と会い、大学で馬にむりやり乗せられた。もちろん初めてである。 「高い」高所恐怖症の私はそれだけでビビッている。「お前なら初めてでも大丈夫だと思った」後でYが言ったが、それは私を買いかぶり過ぎってもんだ。Yの思惑を知ってか知らずか馬は「ウン」でもなければ「スン」でもない。「蹴れ」と脚で馬の腹を叩けと言われても脚が短いせいと怖いために蹴るというよりは触るといった感じで、事態はなんの進展も見せなかった。馬はとても賢い動物で、どうやら私の愚かさに気付いたらしく私を鼻の先であしらっているようだった。馬の鼻はでかい。そのでかい鼻の先であしらわれてしまった。一生の不覚である。Yの後輩(もちろん女性)の前でかっちょ悪いこと甚だしい。「まさに馬脚を現す」だ。 この後尾道だったか三島だったか、フェリーで因島に渡った。今でこそNHKの「本居宣長」で有名だが、その時の私たちは村上水軍の名だけは知っていても、因島がどこにあるのかさえ分からなかった。島の人が聞いたら憤慨するだろうに「陰のうの島」などとほざいておった。実になんとも情けない。こんなことで笑いを取ろうとしたことも取れると思ったことも。 Yの生家はこの島で船舶無線の修理、メンテナンスを行っていた。島は日立造船の島だったのだ。この後、造船不況で船舶関係の仕事が減ることになる。Yが会社を辞め父親の会社に戻ってからは「陸の仕事」にも手を出さざるを得なくなるのだが。 Yの親父さんは、かなり豪快な人でいかにもYと親子だという感じがした。Yは二男坊だったが、そのかわいい二男坊が東京から友達を連れてきた、ってことでかなりのハイテンションだった。昔は一升酒の口だったらしいのだが、この時は体を壊し医者から酒を止められていた。それをYから聞いていた私たちは「酒だ、酒をもってこい」の親父さんの言葉にビビッていた。 「いいのか?飲んで」とYに聞けば、「止めても無駄だから、付き合ってやってくれ」との事。今飲まなくていつ飲むんだ。息子の友達がわざわざ来てくれた今飲まなくて。 そこまで言われれば、断るほどの不人情ではない。いかようにも、いかほどにも、てなもんだ。 少なくとも私は。Oは相変わらず何も考えていないようだった。目の前に酒と飯が出てくれば条件反射で行動するだけの「パブロフの犬」状態だ。 そういうわけでまたもや川崎の夜と同じく飲めや飲め、ちょっと食ってさらに飲めの宴会となってしまった。これでは場所が変わっただけのことだ、と言われてしまいかねない。でも、実際は結構違うんだ。少なくとも私たち三馬鹿トリオにとっては。同じように見えても同じではない、忘れ得ぬ酒宴の一つなのだ。 親父さんが嬉しかった分私たちも嬉しかった。その分心に深く染み込む酒だったのだ。深く染み込み過ぎて脳細胞が破壊され、細かいことは例の如く覚えていないのがたまに傷である。 海の育ちを思わせる浅黒い肌と、どすの効いた声。豪快で人懐っこい笑顔の持ち主が育った島は持ち主と同じように私とOを受け入れてくれた。車で回ればあっという間に一周出来てしまう小さな島は、ついこの間知り合ったばかりの私たち二人のよそ者を温かく包んでくれた。波も風も潮の臭いも、異国にいることを教えてくれたが、同時に妙に安らぐ懐かしさに似たけだるい時間を与えてくれた。 与えられるばかりで何も与えない私の人生がこの後も続いていく。私一人が何も変わらないかのように。 |
「xxx君、急がないと」 入社してすぐ出向させられた会社では、昼食時間になるとみんな走って食堂に行く。 最初は何がなんだかわからなかった私はまわりの人に催促されて、慌ててみんなと一緒に食堂に駆け込んだ。どうも遅く行くとものすごく混むこと、メニューが無くなってしまうことから我先の競争となっているらしかった。 私の働く工場は比較的食堂に近いこともあり、駆ければかなり早く食堂にたどり着けることが出来た。 でもだからどうだってんだ。何しろ麺類を除けば定食が2、3種類。アラカルトもあったと思うが何しろまともに食えるものが殆ど無い。揚げ物が多く、しかも使いふるしの油を使ったのではないかと思うほどしつこく胃にもたれる。変わり映えのしないメニューと味の濃さに辟易しすぐに昼飯は食堂で食べなくなった。 あんなものを金出して食えるか、ってなもんだ。何が悲しくて、ってなもんだ。走ってまで食えるか、ってなもんだ。じゃあ一体何を食べていたんだと言えば、おにぎり2つに牛乳一本。これが入社一年目の私の昼食の定番となる。みすぼらしい。別に自分では悲しくも哀れとも感じないから良かったが、味にうるさいグルメとやらだったらとてもやっていられなかっただろう。 2年目は自社に戻り働きはじめた。 こちらは200人ばかりの中小企業、食堂などあるわけがない。昼食は仕出し弁当だった。日替わりで2種類あったように記憶している。朝方その日の昼食の確認が行われる。数を確認して注文。昼にはちゃんとほかほかご飯で配達されるといった案配だった。味は結構なものだった。おにぎり2個から考えれば偉い出世だ。 昼飯タイムになると仕事を終え、グループ毎にテーブルに集まり食事会となる。和やかなもんだ。テーブルはある時は会議机に、ある時は作業場所に、もちろん物置場所にもなる優れものだ。スペースの有効活用から言えば専用の食堂の数十倍偉いってことになる。 親の躾が良かったせいか、単に意地汚いせいかは考える必要はない。ご飯一粒残さずたいらげたという結果が重要だ。若い時の私は「本当に美味しそうに食べる」と誉められるくらい、幸せに食事をしていたらしい。 「うん、うん」とか「うまい、うまい」とか一人で納得しながらの食事風景となる。幼すぎるかもしれないが、まずそうに食べるよりは数百倍偉いってことになる。 殆ど毎日残業をするのだが、さすがに夕食まで仕出しというわけにはいかなかった。いや、私はそれでも構わないのだが、弁当屋と会社がそれでは困るらしかった。しょうがない、近所の食堂に連れ立って食べに行く。確か会社から食事の補助が食券という形で支給されていたと思う。 行き付けの店ではこれが金券として利用できた。利用できるとこしか行かなかったという方が正しいかもしれない。普通の店に食事に行くので、注文した品やその日の混み具合によっては、休み時間(会社が認めているのは20分だった)に間に合わないことがあった。なんとも、ばつの悪いことである。味も分からぬほど急いで夕飯をかっ食らって会社に取って返す。そんなことも何度かあったはずだ。もちろん、時間がかからない「おすすめ」や「定食」を主に注文するのだが、それでも時には不運にみまわれることもある。それが人生である。 夕飯一つとってもあの時の私には人生の深さ、重さ、苦しさを経験できる貴重な時であったのだ。もっともそれに気づくことはなかったのだが。それが今の私のこの「体たらく」につながったのだろう。しかしたった20分の食事時間でそれに気づく人が何人いるのだろう。せめて30分は欲しかった。 30分あれば少なくとも食後のお茶を飲む時間が取れた。えっ、何? 人生の深さ。そんな事を考えてたら飯がまずくなるでしょ。 人生の深さを知ることと美味しく食事することと比べれば答えは一つ。 「比べようがないものを比べるのは愚か者の暴挙である」だから比べてはいけない。しいて言えば食事して、腹がくちてから、人生について考えてもいいんじゃない。 「衣食足りて礼節を知る」のは恥ずかしいことではないのだ。少なくともあの時の私にとっては。 少なくとも悪友のOよりは数千倍まともだったと信じている。 |
夏はTシャツが多かった。 半ば肉体労働みたいな所もあったし、ネクタイは首を締め付けられるようで嫌いだった。あの時は好き嫌いで人生が生きられると思う年頃だった。着るものに無頓着な所もあり、いつもワンパターンで通した。3年通った中でスーツを着たのは入社式だけかもしれない。リクルートスーツは結局入社後袖を通すことはなかった。 世の中には入社式での靴の色、靴下の色、髪の毛の長さまで指示される会社もあったわけで、随分恵まれていた。オイルショックを引きずった不況の中、会社始まって以来の14名もの大卒社員の大量入社ということもあり、少し甘やかされていたところもあったのかもしれない。 もっとも、こんなふざけた格好をしていたのは私ぐらいだったかもしれない。そう言えば出向先に行く時はみんなネクタイをしていた記憶がある。自社に来る時は軽装でくる同期もちゃんと出先との使い分けをしていたようだ。 もちろん私は裏表のない人間と言われていたのでそんな、姑息な真似はしない。もっともみんなに言わせれば「これがTPOというものだ」ってところか。確かにお客さんの所に出向くのにTシャツはまずいよね。でもその頃の私はネクタイを強制されるぐらいなら会社を辞めるなんてあほなことを考えていた。ほんと、ため息がでるね、我ながら。 出向先での思い出は、向こうの係長に「今度お客さんの歓迎会に出てもらうけど、服装はちょっと気を遣ってね」と言われたことだ。この言葉で係長が私の服装に気を遣っていたことが解った。きっと堅苦しい大会社だったので「なんだ、あいつは」くらいの指摘はあったのだろう。そう言われた時は確か真っ赤なTシャツだった。さすがに自分でもこれは少し仕事場にはそぐわないのではないかと思っていたやつだ。でも着るものがないのでしょうがない。破けてもいないのに捨てるなんて非国民的なことは出来ない性分なのだ。 今思い出してみるとあの職場でネクタイをしていなかったのは私と女性たちだけだった、ようだ。検査という職種も関係があったのかもしれないが、確かに思い出してみれば、、、私だけが浮いていたかもしれない。 もう一つの思い出は自社でのことだ。 金曜の夜いつものように川崎で飲み、寿荘に止まった。翌日は休出する予定であった。予定ではあったのだが、運悪くTシャツに下駄履きだった。「うーん、下駄はまずいか」と思ったものの靴を取りにアパートに帰る気は毛頭無い。もちろん、靴を買うなんてことは思いもつかない。 結局、ずるずるそのまま出社となった。どうせ社内では作業靴に履き替えるのだし、誰も来ていないだろうし、というのが私の目論見だ。でもこういう時に限って、お偉いさんがひょっと顔を出したりするんだよね。まるではかったように。 この時も確か経理かなにかの部長が顔を出した。運悪くばったり顔を合わせてしまい「おお、楽なかっこでいいな」と言われた。「ええ、部長もどうですか」と最悪の返事を返した。この部長が現場のエンジニアにはあまり評判の良くないこともあったのかもしれない、少しつっけんどんに答えた。自らの首を絞める行為である。 もしかしたら部長の方が正しいのかも? いや、正しいとか、正しくないとかそんな問題は向こうの方に置いといても、少なくとも目上の人に対する態度ではなかったと思う。どなられないだけありがたいと思わなければいけない。それとも叱ることを諦められるほど当時の私は出来が悪い社員だったのだろうか。 今も服装に金をかけることにある種の恥ずかしさを覚える。いや、別にだから汚い格好をしていいということにはならない。不快感を与えていいことにもならない。ただ、そんなことはどうでもいいじゃないか、って思ったりもするんだ。 |
三馬鹿トリオと飲むほかにも定期的に集まって飲むことがあった。 お人好しのM先輩と同期のIとだ。他に会社の、その頃は若かった女性人3人とだ。うち二人はちょっと年上で旦那持ちの女性である。一人が年下の独身女性。M先輩や同期のIはどうもこの娘(こ)が目当てらしかった。私はもちろん大人の魅力の人妻を両隣に侍らして飲めや歌えが目当てであった。 この6人に、他にはM先輩の友達のSさんも常連の口だった。人妻たちは時々旦那さんも連れてきた。 殆ど自由が丘で飲んだ。みんなが集まるのに具合が良かったことが主な理由であるが、小奇麗でいてそれで嫌味の少ない街の雰囲気が気に入ってもいた。今はどうなっているかしらないが メンバーに女性がいるということで、同じ飲み会でもこちらの方が華やいだ雰囲気があった。でも性格が変わるわけではないので飲みゃ同じ、ってな具合であった。しかし、こちらも気の置けない楽しい飲み会であった。 大体2月に一回ぐらいの感じだったと思う。500円程の、高くても1000円までの小物を買ってみんなでプレゼントの交換をしたりもしていた。大学を出て何をしているんだと言われれば、恥じ入るしかない。恥じ入るしかないが結構楽しかったんだ。こちらの方は会社をかわってもしばらく続いていた。でも子どもが出来た、結婚した、離婚したと女性陣に人生の大波が襲ってきて段々会えなくなった。定例会も年に一度になっていき、そして最近ではほとんど会っていない。もうかなりの年なので(お互いにです。もちろん)会わない方がいいかなあと思ったりもする。 でもM先輩や同期のIとは今でも続いている。二人とも私と同じく転職したこともあり、以前のように頻繁には会えないけれど、それでも切れることなく続いている。肉体関係もなく、続いているのである。偉いもんだ。 M先輩なんて人がいいだけの取り柄のない人だったのに、世間の荒波にもまれ、転職どころか転々職までしてしまい、あろうことか結婚だけでは飽き足らず離婚までしてしまった。人がいいだけではなかなかこうはいかない。 誰にでも取り柄はあるものだとつくづく思う。 もちろん、今でも優しさだけはあり余るほど持っていて、実際使い道がなくて困っているようだが、見た目も10歳は若く見える好青年なのだ、今も変わらず。 いい加減でアンポンタン、その上無礼者の私と変わらず付き合ってくれる貴重な友人・先輩なのである。二人で飲んでいるとまるでここだけがこの10年間、時が止まっていたような錯覚を覚えることがある。 先輩の優しさは、無関心の裏返しだと憎まれ口の一つもたたいてみたくなることもある。 仕事の関係でアメリカに赴任していった時、空港まで見送りにいったかどうかは忘れてしまったが、帰国した時空港まで出迎えに行っていないことは覚えている。そしてその帰国した夜、東京のホテルに泊まる先輩と飲んだことも覚えている。ホテルを取ったのが私だったことも覚えている。命令されて嫌々だったのも覚えている。 「あれ、前会ったのは何時でしたっけ」と聞いても、お互いにこの2年間ぐらいの記憶は順不同でしか取り出せず、結局「何時だったけなあ、暑くなかったか」「そうでしたっけ」と、そんなことさえも思い出せないのに。 一度でいいから赴任中に遊びに行けば良かったと今更ながら悔やんでいる。何度も誘われたのに、どうして行かなかったんだ、このアンポンタンめ。 |
「おーい、ビール冷えてるか?」 こんな電話が時々、Yからかかってくるようになった。仕事帰りに、私のアパートに寄って、私の冷蔵庫の中のビールで酔ってみようという魂胆であった。これには、先輩のKさんが絡んでいた。Kさんが、Yと同じく(以前私も出向していた)大手電気メーカーの設計担当の職場に行き始めたのだ。もともとは私と同じ検査ブロックの人だったのだが、優秀だからかどうかは分からないがちょっとばかり出世したのである。それでなくても偉そうなのに、さらに偉そうになってしまった。仕事帰りに軽く一杯やっていくか。どうせなら私のところで只ビールでもご馳走になるかといった具合なのである。 「おおー、冷えてるぞ」残念なことにビールだけはいつも冷えていた。嘘をつくだけの度胸はなかった。 「じゃ、これからKさんと行くからつまみ用意しておけ」一時間もしないうちに二人がやってくる。まともな家具が何もないこともあり、私のガランとした6畳間に新聞を広げ、つまみとグラスを置き、さあ飲めである。こうして三人してビールをどんどん空けることになる。 こういう時のあの二人は遠慮を知らない豪傑になってしまうので「軽く飲む」とかいっておきながら大ビンが6、7本空になったりする。傍若無人である。言語道断である。 薫製のイカや煎餅、柿の種といった、定番のつまみでいつもグイグイやっていた。KさんもYも飲んだ後自分のアパートに帰るわけで、ご苦労様としか言いようがなかった。もっとも私も逆の立場のことをやっているわけでやってる本人にとっては、それほど大したことではないのかもしれないが。Yは一時間、Kさんは30分ちょっとの時間で帰宅できただろうか。飲むだけ飲んで吠えるだけ吠えた後、ほろ酔いで仲良く帰って行った。 最初の頃は、帰りにちょっと寄ってみる、から始まったのだろうが二人とも慣れてくるといつしか、「今日帰りに寄るからビール冷やしておけ」と命令形になった。Kさんは先輩なのでしょうがないにしても、同期のYにまで私の冷蔵庫を我が物顔で使われる筋合いはなかった。しかし、いつも我が物顔でYのアパートを宿泊所にしていることもありとりあえずお互い様ということにしておこう。 しかし、時には毎週のようにただ酒を飲みに来襲し、この宴会のためだけでビール1ケースはやはり図々しすぎるのではないだろうか。 自分のことは棚に上げてそう思うのである。 |
彼女は誰にでも気さくに話し掛けた。 そして誰にも心を開かなかった。もちろん、私にも。私は私で、そんなものなのかもしれないと考えていた。もちろん凸凹のはっきりした、あの色白のYさんのことだ。アンポンタンは死ぬまで直らないものだ。それでも余り他の人と楽しそうに話すのを見るのは嬉しいものではなかった。 だから、「他の男と話すな」などとふざけたことを言ったりもした。もちろん彼女は100%のシカトである。当たり前だ、私もそれを前提に話している。その方がいい、気が楽というものだ。Yさんの心は、私の心の裏返しであり、鏡に映った私の意気地のなさそのものであった。振られることを前提に付合うことで傷つかないでいたいという、意気地の無さだった。 「お前、本気なのか」とか「お前には合わないぞ」とかYにも言われた。Oはほとんど無関心だった。もちろん本気だったし、そんなことは余計なお世話であった。何も変えようとしないのだから変わりようもなく、そんな風に飲み屋で会うだけの二人だった。 いい加減に生きてきたことは、しょうがないことだと思っている。でも、もう少し何とかなったんじゃないかとも思う。いい加減なままでももう少しは。 Yさんにはあんなことを言っておきながら、私は飲めば陽気に「どうぞみなさん、御一緒に」てなもので、奇麗な娘には当然のように、そうでない娘には当たり前のように愛想を振りまいていた。全方位外交がその頃の私の基本姿勢だったのだ。誰かに深入りすることもなかった。私こそ誰にも心を開かなかったのだ。開くべき人はYさんしか居なかったことに気づくこともなかった。 ある時、いつもの飲み屋でいつものように飲んでいて、右に同期のT、左にYさん。どんな話をしていたかはよく覚えていないけど、Tとリスクについての議論になったことがある。坂の上から大きな石がごろごろ転がり落ちてくる中をどう進んでいけばいいか、そんな話をしていた。 危険はいつだって、そこにある。だから危険を避けるために歩みを止めてはいけない。危険を言い訳にしてはいけない。そんな青臭い意見を声高に叫んでいた。まるで自分だけが正しいように、決め付けるように。 少しの沈黙があった後、Yさんが「あまり、興奮しないで」と心配そうに声をかけてくれた。リスクのなんたるかも知らない、木偶の坊が一人で興奮しているのは、今思えば噴飯ものだ。そして、あの若さでリスクを、少なくともある種のコンプレックスとともにハンディを背負わされていたYさんの深い淋しさを知らないでいた。あの時、彼女はどんな気持ちで私たちの議論を聞いていたのだろう。どんな思いで私を優しく諭したのだろう。Tとの議論に飽きると、何事も無かったように、左隣のYさんと話を続けた。いつものように彼女は大して面白くもない私の独り言に飽きることなく耳を傾けてくれた。 本当は少しだけ怒っていたのではないだろうか。まったく、いい加減で勝手な男だと、呆れていたのではないだろうか。 そう言えば、この後他の娘に愛想を振り撒いている私に腹を立てたのだろうか、「私には他の男と口をきくなと言っておきながら」と両手で首を絞められたことがあった。「他の娘と口をきくな」と左右に揺すられたことがあった。呼吸が出来なくなる程強くなく、そっと両手を添えるようにして揺すられた。いかにもYさんらしい、首の絞め方になんだか随分照れくさかったことを覚えている。 当然そういう態度は友の反発を招くこともあった。それが、本気なのかの質問になったのだろう。実際Yさんも私の心を計りあぐねていたようだ。振られるくらいなら好きになってほしくないと思っていたこともあって、分からなければ分からないでもいいなんて、思っていた。嫌になるくらいの愚かさだ。 もう、何万回も繰り返してきたことだけど、どうしてこんなに愚かに生きられるのだろう。それが、若さだというなら余りに滑稽だ。余りに残酷だ。 |
「本気なの?」 行き付けのスナックで店の女の娘に聞かれた。Yちゃんだ。多分私より幾つか年上の姉御肌の女性だ。Yさんの友達でもある。店の客として知り合ったのだろうが、Cさんも含めて三人は仲が良かった。何かと相談にのったりする、そんな立場だったのだろう。 「もちろん、本気だよ」嘘ではなかった。Yさんのことは好きだった。でも、手の届かない高嶺の花だと思っていたのも確かだった。 「ちゃんとしないと駄目だよ」一瞬意味が分からず、Yちゃんの目を見た。 「あの娘のこと、ちゃんとしないと駄目だからね」重ねてYちゃんはそう言った。 「ちゃんとしてる」いい加減に生きているくせに、いい加減と言われると、「うるせーな」って思う男だったこともあって、少しつっけんどんに答えた。 「今のままじゃ駄目だからね」 確かに碌でもない男であることは重々承知してはいたが、これほど駄目だと言われたことも珍しい。 「あの娘、淋しいって言ってたよ。誰も自分を見てくれないって言ってたよ」 こんな風に堅い話が何より苦手な私は、何とか雰囲気を変えようと思ったのだが、結局何も言えなかった。 「xxx君がいるじゃない。そう言っても、xxx君は本気じゃないからって言ってたよ。そう言ってたよ」 何も言えなかった。その通りだった。そう思われてもしょうがなかった。そう振る舞っていた。 でも、でも、本当は。違う、違う、本当に。 「今、ちゃんとしないとあの娘他の人に取られちゃうよ」えっ 聞けば最近付合い始めた人がいるという。YちゃんやCさんは付合うことに反対したらしい。その人は、あまり女性陣には評判がよくなかったようだ。(でも、もし私が女性陣に評判が良かったとしたら、あまり彼女らの評判は当てにはならないと思う)人は結局表面上のことしか、見てはいないのだ。私がYさんの何も見ていなかったように、誰も私の本当を見てはいなかった。本当の私は、現実から逃げていれば、傷つくことはないと思っているどうしようも無いアンポンタンだった。 でも、時は私に日和見な生き方を許さない、背を向けることも逃げることも。 隠れることを許さないとばかりに風が私に吹き付けていた。意地悪なアゲインストの風が吹き始めていた。 この夜、Yさんの悲しみを聞かされることになる。同い年の、幼さのまだ少し残る、負けず嫌いの少女には重過ぎる悲しみを聞かされる。ショックだった。何も出来ない自分の幼さを知った。 |
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