小説
アドニス・ブルー(3)
マーガレット・グレース
第1章(下)
(第1章<上>はこちらから)
校門の外で徹(とおる)はようやく彼に追いついた。
「ごめん」徹は詫びた。
「お前のせいやあらへん」彼は言った。
「でもほんとはいい奴らなんだ」
2人は歩き出した。
「そんなの分こうてる」
「でも…」
「気にせんでええ。いつものことや」
「あっ」
徹は突然立ち止まった。
「俺んち来いよ,な」
徹は驚いている彼の手を掴んで小走りに駆け出した。
1時間後,2人は徹の父親が経営する美容室の中の鏡の前に立っていた。
父親の腕前で少年の伸び放題になっていた髪がきれいに整えられ,それと同時に今まで考えていたのとは桁違いに美しく見え始める少年を,徹は父親の傍らでわくわくしながら見ていた。
「凄ぇ,流石親父だ,こんなにカッコよくなるなんて」
「馬鹿言うな」父親は軽く返したが,内心こんなにやりがいのある客は滅多にいない,と手応えを感じていた。
「あっそうだ,Jeanne,ちょっと待ってろ,俺自分の服持ってくるから。
更にイイ男にしてやる」
徹はそう言って,店の奥に駆け込んでいった。
「あいつのセンスもまだまだだが」そう父親は独り呟いた。
徹のいなくなった店内で,父親はふと無造作に置かれた紙の上に似顔絵が描かれているのを見つけた。
鏡越しに見ると,どうやら息子の顔らしい。
「あの絵…君が描いたのか」
父親は目の前の鏡に対しているお客の少年に話しかけた。
「はい」
「よく描けてるな,素人の域じゃない。何処で習った?」
「ただ,思いつくまま描いてるだけです。
ある日,道端で通行人の笑顔絵描いて売ってる人見つけて,これなら俺にもできるかなって」
「商売してるのか?」
「まぁ,そんなとこです」
「まだ若いのに。学生だろ?」
「学校には,行ってません」
そのとき徹が息を切らして戻ってきた。
「どうだ,親父,こんなのこいつに合うだろうって」
「お前そんなの持ってたのか? 似合わねぇな」
「一目見て衝動買いしちゃったけど,着てみてもどうも俺の柄じゃなかった」
カットを終えて徹の持ってきた服を着ると,少年は見違えるほどに目映い美少年へと姿を変えた。
その夜彼は徹の家族と食卓を囲んだ。
いつも焼酎1缶をあおって外で寝るだけの彼は久しぶりに温かい,滋養のある食物にありついた。
夕食の後は徹の部屋で深夜まで話し込んだ。
徹は高校を卒業したら町を出てメイクアップアーティストになりたいんだと言った。
「うちの親父さぁ,頭固くて俺には才能ないって言ってるけど,いつか成功してやる」
徹の家に居候するようになって数日経ったある午後,彼はいつものように画材道具の入ったブリーフケースを提げて川の堤防を歩いていた。
向こうの方から澄んだ歌声が聞こえてきた。
彼が歩き続けていくと,川岸で歌っている少女の姿があった。
彼はそこまで歩いて立ち止まり,その歌を聴いていた。
ふとした拍子に少女は後ろを振り返り,彼の姿に気づいてひどく驚いて歌うのを止めた。
「あっ,すみません,人がいたなんてちっとも気づかなくて」
少女はやや取り乱していた。
「お構いなく。歌が聞こえたから」
「こんなまずい歌,人に聞かせるようなものじゃなくて」
彼女は腕を組んだ。
その様子で彼は徹が教室で視線を送っていた少女だということに気づいた。
「んなことあらへん」
彼のその言葉に少女は首を横に振った。
「いいえ,あたしに才能なんてないの」
彼は堤防にぺたんと腰を下ろした。
「ふーん,なかなかのものやと思うんやけど。
何か自分を安く見積もり過ぎてるんとちゃう?」
「な」彼女は彼の顔を見た。彼は少し舌を出した。
「あっ,この前徹が教室に連れてきた…」
「その通り」
「何だか感じが全然違ってて気づかなかった。
あのときの絵は正直なかなかって思ったの。
だけど徹はあんなにカッコよくない」
彼は笑い出した。
「あれはわざと描いたんや。
あいつおもろい奴やなぁ,ちょっとからかおう思うて」
彼女はくすりと笑った。
「なるほどね,それで道理がついた」
笑顔を見せると彼女はなかなか魅力的に見える。
思ったよりええ子やな,なるほど,徹はこの子に憧れてるんのやな。
「あたしはきららっていう名前。鉱石(いし)の名前ってわけ。そちらは?」
「Jeanne d'Arc」
「えっ,女の子の名前じゃない?
しかもジャンヌ=ダルクっていえばフランスの危機を救った英雄的少女の…」
「そうらしいな。でも俺は歴とした男や」
「どうしてそんな名前?」
「分からへん。ある日気づいたら,この名前と,16歳っていう自分の年のことしか記憶の中に残ってなかった。
本名なのかどうかも分からへん」
「親がつけたの?」
「さぁな。親なんて知らへん。
おったかもしれへんけど,記憶にもないし聞いたことあらへん」
「そうなの。まぁ親なんてもの幻想に過ぎないから」
「そう」
「子供にはこの親が確かに自分のこと産んだって,何も証明できやしない」
「仰る通りでございます…お前さん頭ええな」
「お世辞をありがとうございます」
きららは冷たく答えた。
「この俗世界にはうんざりしてるの」
「あたしね,強くなりたいの」
そんな言葉が川の堤防に彼と腰掛けた彼女の口を衝いて出た。
「誰よりも強く」
「負けず嫌いやな」
彼は水面を見ながら言った。
「頑張りすぎていろいろ背負ってるで」
きららは驚いて彼の顔を見た。
「あんたって変わってるわね。今までそんな男子に会ったことなかったわ。
男子といえば臆病で情けなくって」
「あぁ俺は変わり者や」
彼は苦笑した。
「もっと肩の力抜けばええやん,もともと自由なんやから。
そすれは今まで見えなかったものが見えるようになる―」
「Jeanne」
背中の方から声がして2人は振り向くと,徹が立っていた。
徹はきららに気づくと顔を赤らめた。
「あ,あ,Jeanne,ご,ご飯だよ」
それから1週間後,徹は家に慌てて帰ると彼を探した。
「おーいJeanne,Jeanne,何だと思う?ねぇ聞いてよ!俺やったよ!カノジョできたんだ!
Jeanne,何処にいるんだよ?あのさ,きららだよ,俺がずっと好きだった!
ねぇJeanne!」
そのとき彼は駅のプラットホームに立っていた。
電車が来て彼は乗り込み,ドアが閉まった。
彼は席に着き,列車は動き出した。
外の景色が見えると,彼はブリーフケースを開け,豊かな緑に覆われた山のスケッチをコンテで描き始めた。
彼がそのスケッチを水彩絵具で塗り始めたとき,美大生らしき少女が彼の席の前にやってきた。
「絵,描かれるんですか?」
その声に彼は顔を上げて彼女を見た。
彼女が手にしていた本が音を立てて落ちた。
(続く)
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小説「アドニス・ブルー」
序章
第1章(上・下)
第2章
第3章
第4章
終章
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