2002/9/1
『アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない恥辱のあまり崩れ落ちたのだ 』(モフセン・マフマルバフ、武井みゆき・渡部良子訳/現代企画室 )読了。
このインパクトのあるタイトルと、白地にタイトルのみのインパクトのあるブックデザインに引かれて手に取った。
著者はイラン人で作家になった後、映画監督となった。10代の頃パフラヴィ(パーレビー)国王打倒の地下活動に身を投じ、4年半に渡る獄中生活を送った体験の持ち主。
中近東の政治情勢の只中を生きてきた人だ。
だからといって、書いてある内容に素直にうなずくことが出来ないのは、私がひねくれているせいか。
このタイトルは、本文の要旨そのままで、「アフガニスタンの人々の現状を嘆いているのは、バーミヤンの仏像ただひとりだった」ということ。
いや、ちょっと待て。
日本からは、あの緒方貞子さんが難民キャンプを視察に行っているぞ。救援募金も募っている。会議だって行われた。
そんな出来事にも著者は冷ややかである。視察に来た日本人女性は何もわかっちゃいいない、と、いうのだ。
近隣の諸国の無関心によってアフガニスタンは貧困にあえいでいる。
そう主張するのはいい。それでも、援助のために差し延べられている手を無視して嘆くことは、かなり失礼な話なのではないか?
確かに日本でアフガン事情に通じている人間は少ない。それは遠いせいもある。そして宗教が違うせいもある。人種だって違う。注意喚起をするのはかまわない。日本人だって、自分の豊かさに溺れて、それほど運に恵まれていない国に冷ややかなところだってあるのは知っている。
バーミヤンの仏像の破壊を嘆くのはいけないことなのか?
あのプロバカンダで私達は知ったではないか。アフガニスタンは、世界の孤児なのだと。どんなに優しい言葉や、ためになる叱る言葉も受け入れないほど、かたくなで切羽つまっていて、かんしゃくで大切なおもちゃを木っ端微塵に壊してしまうような子供。
カンダハルの陥落から、報道ドキュメントで以前よりアフガニスタンの生活が私達に触れるようになった。それを見て胸を痛めているのは私だけではないと思う。
色々すっきりしない後味の(私の場合は)本だが、アメリカ人でもヨーロッパ人でもない人のアフガニスタンへの視点が読めたのはとても貴重なことだ。文化と宗教の隔たりは大きいなあ、と、今更ながら思う。
とりあえず、苦難にあえぐアフガニスタン事情早分かりと言う点ではとても優れた本。
まず、理解しようとつとめること。
たぶん一気には何もできないので、それが第一歩。……なんて、こういうことを思うあたり、憤りながら、まんまと著者の意図にはめられてるのかもしれない。それでもかまわない。
この本を読むのに必要なのは、だいたい1時間。本の折り返しによると、その間に12人がアフガニスタンで死んでいっているという。
要は今も生死の境にいる人のためになればなんでもいいのだ。