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イスラエルの仕業


地図提供 CIA : 日本語化 近藤虎之介

■ イスラエル建国と独立戦争
第2次世界大戦が終結して3年後の1948年5月14日、ユダヤ人の国家建設が国連の決議によって認められ、ユダヤ人民族評議会はイスラエルの建国を宣言しました。

それから24時間もたたないうちに周辺アラブ諸国がイスラエルに攻め込んできたのです。

なぜアラブがイスラエルに攻め込んだのかという事は中東問題とは?の項に譲りまして、とにもかくにもイスラエルは建国と同時に消滅の危機にさらされました。

この中東戦争の第1回目となった戦争を、イスラエルは独立戦争と呼びます。一般的にはこの戦争を第1次中東戦争と呼びます。詳しくは第1次中東戦争をクリック

イスラエルは圧倒的多数のアラブ軍団との戦争を粘りに粘って持ちこたえ、国連が介入し停戦となりました。建国宣言から9ヶ月後の1949年2月23日の事でした。

イスラエルの国土はガザ地区、ウエスト・バンクおよびゴラン高原を除いた上記地図の国境線を確保してついに独立という事になりました。

しかし、聖地エルサレムはヨルダンとイスラエルで分割と言う事になり、聖地があるエルサレム旧市街地(東エルサレム)はヨルダンになってしまいました。

ユダヤ人は東エルサレムにあるユダヤ教の聖地”嘆きの壁”へ行く事が出来なくなったのです。


■ シナイ作戦 1956年10月29日

エジプトで革命が発生し、ナセル大統領が権力を握ります。ナセル大統領は真のアラブ独立に向けて行動を起こしていきます。その1つがイギリス、フランスによって牛耳られているスエズ運河会社の国有化でした。

さらに、ナセル大統領はティラン海峡の封鎖を命じます。ティラン海峡は、スエズ運河を使用できないイスラエルがインド洋へ抜ける唯一のルートです。イスラエルはこのままでは、エジプトの思うがままにされてしまうと危機感を募らせていました。

そんな時です。同じ事を考えていたフランスとイギリス帝国がイスラエルに対してスエズ奪還作戦を持ちかけてきたのでした。

スエズ運河のような超重要拠点は国際的に管理され、一国の利権のために利用されると言う事はあってはなりません。というのは建前ですが、スエズ運河の利権を手放したくないフランスとイギリス帝国は国際世論に叩かれないよう周到な計画をもって、この戦争を始めました。

そして、1956年10月29日、イスラエルが国境を越えエジプトのシナイ半島に攻め込み、この戦争がはじまりました。詳しくは第2次中東戦争の項へ

イスラエルがシナイ作戦(Sinai Campaign)と呼ぶ、スエズ動乱はアメリカとソ連の介入によって停戦となりました。

イスラエルはシナイ半島の大部分を占領していましたが、停戦によってすべて撤収しました。そして、スエズ運河はエジプトが国有化したのです。

 

■ 6日戦争(第3次中東戦争) 1967年6月5日

シリアとエジプトが国境線に軍を集結させていると言う情報をモサドが掴むと、イスラエルは先制攻撃に踏み切りました。

いわゆる、宣戦布告なしの奇襲攻撃です。こんな事をすれば国際世論から叩かれ、アメリカの支持も失うかもしれません。しかし、結局戦争になるのであれば、犠牲の少ないほうがいいのです。

この奇襲は、当たりました。アラブ四ヶ国(シリア、エジプト、イラク、ヨルダン)の空軍力は一日目で壊滅したのです。

イスラエルは開戦2日後の6月7日にヨルダン領となっていた東エルサレムのユダヤ教聖地、嘆きの壁を奪還します。最終的にイスラエルはゴラン高原、シナイ半島、ウエストバンクを占領し、停戦に至りました。詳しくは第3次中東戦争の項へ

占領した土地はイスラエル領に組み込まれました。何より、ウエストバンクにあるユダヤ教の聖地、嘆きの壁がイスラエルの物となったのです。

 

■ 消耗戦争(第4次中東戦争) 1968年9月8日

さて、前中東戦争でこてんぱんにやられた上、イスラエルの脅威が骨身にしみたナセル大統領に対しソ連は新兵器の供与を提案します。まさにKGBの作戦にハマっているエジプトでした。

エジプトはスエズ対岸に大砲を並べ、イスラエル領となっているシナイ半島へ砲撃を始めました。イスラエルは当然これに対しエジプト側へ越境報復爆撃を敢行します。

イスラエルは、占領しているシナイ半島に植民をはじめ、スエズとの国境に陣地を築きました。これは、シナイ半島は占領地ではなく、イスラエルの領土とする意味を持っています。

一方、エジプトにはソ連から続々と最新兵器が到着していました。こうして、ベトナム上空の空中戦と同じ状態がスエズでもおこります。

星は星でもダビデの星をつけたアメリカ製F−4ファントムU戦闘機とソ連製のMig19が激突します。ベトナムのトンキン湾で撃墜されたのは日本陸軍航空隊第64戦隊、加藤隊長の操縦する隼だけではありません。Mig19もミサイルを装備するファントムUに勝てませんでした。そしてエジプトでも同じ事が起こりました。

ベトナム上空でMig19がファントムUの放った赤外線(熱を感知して追尾する)誘導ミサイルを回避する方法としては、地上の水田をめがけて急降下し、急上昇する事によって、ミサイルは水田に映った太陽に命中するという回避方法が採られました。

しかし、ここは中東、水田はありません。結局撃ちまくられたエジプトはソ連に泣きつきます。そして、ついに軍事顧問団のみならず、実戦要員も配備されるのでした。

赤軍パイロットは新型の世界ベストセラー戦闘機Mig21や最新鋭のMig25までも持ってきました。赤軍パイロットとイスラエルパイロットはスエズ上空で死闘を演ますが、勝負はイスラエルの勝ちに終わりました。赤軍パイロットも実戦経験が豊富なイスラエルにはかなわなかったのでした。

イスラエルの勝ちに終わったという表現をしましたが、ソ連は空中戦で勝てないと悟ると、対空ミサイルSA6を配備する事でイスラエル空軍の攻勢を抑えました。

そんななか、エジプトのナセル大統領が亡くなり、後継者のサダト大統領がソ連の軍事顧問団の解任を要求して、この消耗戦争は終わりました。

 

■ ヨムキプール戦争(第5次中東戦争) 1973年10月6日

エジプトのサダト大統領は最近、膨れ上がる国防費を経済に投資し、国内の経済力をあげ国民の生活レベルの向上をはかりたいと常々思っておりました。

そして、イスラエルに対し最後の戦争を仕掛け、有利な形で無期限の停戦、つまり平和条約を結びたいと考えたのです。

サダト大統領は周到な計画のもと、シリアと共にイスラエルに先制攻撃を仕掛けきたのです。まあ、周到と言いましても、なんせイスラエルにはモサドがあります。もちろんこの情報もモサドはつかんでいました。

しかし、政府(ゴルダ・メイア首相)が信じようとせず先制攻撃を許してしまうのです。なんせ、この日はユダヤ教の聖日であるヨム・キプールでありました。

さらに、イスラームのラマダーン(断食月)の時期でもあります。イスラエルはまさかラマダーンに戦争を仕掛けてくるとは思ってなかったのです。詳しくはここをクリック

 

■ ガリラヤ平和作戦(第6次中東戦争) 1982年6月

PLOがレバノンから国境を越えて侵入し、テロ攻撃を行うのにたまりかねて、IDFはレバノンへ侵攻しました。この作戦名はガリラヤ平和作戦と名づけました。

SLAやファランヘとともに、PLOを首都ベイルートまで追いかけ、2ヶ月にわたって包囲攻撃すると、レバノン政府もPLOに対し出て行ってくれと頼みます。8月、アメリカの仲介もありPLOはアラブ8カ国へ分散しました。

それを見てイスラエルも撤退しましたが、南部地域には安全保障と称し国防軍をそのまま駐屯させていました。このイスラエル軍に対し、新たに生まれたイスラーム原理主義シーア派のヒズボラが攻撃を開始しました。

このヒズボラの自爆もいとわぬ攻撃にたまりかねて、1985年イスラエル軍はイスラエルとの国境付近まで後退しましたが、地元住民(レバノン人)の安全保障として占領を続けたのです。しかし、そんな言い逃れを許さないヒズボラはゲリラ戦で戦いを続けました。

 

■ ラビン首相暗殺 1995年11月4日 ユダヤ人過激派

イスラエルのラビン首相がパレスチナアラブ人とイスラエル人の前で演説をした後、車に乗りこむところを撃たれました。殺ったのはユダヤ人過激派イーガル・アミーYigal Amir 25歳。理由は”ラビンは我々の国をアラブに渡そうとしているからだ。”と語った。

 

■ 怒りのぶどう作戦 1996年4月10日

ヒズボラがレバノン国境越しに発射するロケット攻撃にたまりかね、レバノン安全保障地帯を越えてイスラエル国防軍がヒズボラを攻撃しました。

レバノンはPLOが出て行ってからもイスラエルの攻撃にさらされています。まったくかわいそうとしかいえません。しかも、レバノン人口の約半分をしめるキリスト教徒にとってはイスラエルは敵でもなんでもないし、イスラーム原理主義過激派のヒズボラがイスラエルを攻撃する事も報復を招くだけであり、迷惑至極でしょう。

4月26日アメリカの仲裁で停戦に至り、イスラエルは安全保障地帯まで後退しますが、ヒズボラは依然としてイスラエルに攻撃をしかけてきました。もともと、アメリカを最大の敵とするイランのバックアップであるヒズボラがアメリカの言う事を聞くはずがありません。

 

■ イスラエル国防軍、レバノンから最終撤退 2000年5月26日

国内外の世論により、イスラエル軍はレバノン南部の安全保障地帯から撤退しました。元陸軍中将のバラク首相はレバノンからの撤退を公約として掲げていたのです。

これによりヒズボラゲリラとの戦闘は終結したと思われましたが、ナスラッラー師は『まだ戦いが終わったわけじゃない。』と物騒な事をうそぶいています。

 

■ アル・アクサ・インティファーダ始まる 2000年10月

イスラエル最大与党リクード党のアリエル・シャロン党首が労働党バラク首相とアラファト議長のキャンプデービット2000失敗の後、パフォーマンスの一環としてイスラームの礼拝堂アル・アクサ・モスクを訪問しました。

もちろん周り中から反対され、エルサレムの警察長官も安全の保障が出来ないので、頼むから止めてくださいと進言しました。

しかし、シャロン氏はブルドーザーと異名をとる人です。アラブ人が騒ぎ出したら警察が押さえとけ、と言わんばかりに反対を押し切って強行訪問したのです。

どうなるかは誰の目にも明らかでした。イスラームの礼拝の時間を外して訪れたのですが、イスラームの人々が騒ぎ出し、身の危険を感じたシャロン氏は早々に引き上げたのでした。

しかし、収まらないのはイスラームの人々です。神に対する侮辱を受けた彼らは、とりあえず丘の下で壁に向かって礼拝をしているユダヤ人に石を投げ始めます。

こうして、暴動へと発展していきました。おかげでこの騒ぎを静められない労働党はえらいとばっちりを食わされ、バラク内閣は崩壊してしまいました。

 

■ ゼエビ観光大臣暗殺 2001年10月17日

右翼政党国民連盟の党首、ゼエビ観光大臣がPFLPによって射殺されました。大臣は夫人とともにエルサレムのハイアットホテルに宿泊中でした。レストランで朝食をすませ部屋に帰ったとき待ち伏せていたPFLPのゲリラによって銃弾3発を撃ち込まれたのです。

PFLPは声明を出し、イスラエルが8月にムスタファ議長を暗殺した事に対する報復だと発表しました。

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