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WHO's WHO in Middle East
中東の人物

■ イスラエル

エフード・オルメルト(オルマート)首相

カディマ党


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 イスラエル外務省

元エルサレム市長です。2000年当時、リクード党のアリエル・シャロン党首が神殿の丘を訪問すると言い出した時、エルサレム市長だったオルメルト市長は、訪問を止めるように泣いて頼みましたが、シャロン党首は決行したという経緯があります。それでも、両者の仲は良かったみたいです。

シャロン首相が倒れると副首相だったオルメルト氏が首相代行とカディマ党の党首代行をしていましたその他の首相についてはこちらをクリック

メイアー・カハネ師 Rabbi Meir Kahane

カハ


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KAHANE.ORG

アメリカ人ユダヤ人のカハネ師はニューヨークでラビ、先生、そしてユダヤ人新聞のライターをしていました。そして1968年には反ユダヤ主義者のいやがらせ攻撃から、ユダヤ人防衛のためのJDL(ユダヤ防衛連合)を設立します。

JDLはユダヤ人は反ユダヤ主義者(例えばブラック・パンサーなどのイスラーム系過激派)に対しては反撃を行うことで、彼らの行動を抑制することに成功しました。

しかし、この過激な行動やモサドの汚い仕事を請け負っていた結果、アメリカの警察から睨まれ始めます。

そして、カハネ師はアメリカを出る事を決め、1971年、イスラエルに移民したのです。移民すると、カハネ師は早速、武装組織カハを設立し、アラブ人ゲリラにに対してJDL同様の報復を行います。当然ながら暴力を行うと警察に逮捕されます。カハネ師は何度も逮捕されています。

また、カハネ師のカハ党は選挙にもチャレンジし、1984年、2回目の挑戦で見事に当選し、カハネ師はクネセトの議員となりました。しかし、過激な言動や行動でアラブ人から憎まれ、1990年11月5日ニューヨークで暗殺されてしまいました。

ベンジャミン・カハネ師 Rabbi Benjamin Kahane

カハネ・ハイ


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KAHANE.ORG

メイアー・カハネ師の四男で、父の死後すぐに、カハの党首となりました。そして、カハは名前を”カハネは生きている”という意味のカハネ・ハイと改めます。

しかし、ベンジャミンも2000年12月31日、ヘブロンを訪問中にパレスチナゲリラの無差別銃撃に遭遇し死亡してしまいます。逮捕された犯人は、取調べ中に”あそこにベンジャミンがいることは知らなかったが、銃弾が彼に当たったのはラッキーだった。”と語りました。

 

ジョナサン・ポラード Jonathan Pollard
アメリカの情報をイスラエルに流したとして、1985年夫人と共にFBIに逮捕されました。イスラエルはすぐさま、”イスラエルはアメリカをスパイしたりしません。それがイスラエルの方針です。”と前置きし、謝罪しました。

イスラエル政府はこのスパイ活動に関与を否定しましたが、アメリカと合同で調査を行いました。その結果、軍情報部やモサドによる(政府が認知している)情報活動によるものではないことが分かりました。つまり、現場の判断でポラードが雇われたという結論に達したのでした。

ポラードはアメリカに反逆する意図によりスパイを行ったわけではないと証言し、盗んだ情報も”アメリカの機密”というよりは、アメリカが持っている”イスラエルに危害を加える可能性ある国の情報”であったということです。しかし、ポラードは裁判の結果、終身刑に処せられました。これはアメリカに捕まったソ連のスパイより重い処分でした。

イスラエルはポラードの件に対して、彼が流した情報の書類などの返還と、彼を雇った現場の責任者に対する厳罰およびその情報収集部隊の解散をアメリカに約束しました。

1998年、ベンジャミン・ネタニヤフ首相がポラードはイスラエルに貢献したとして、市民権を与えたと発表しました。そして、彼の釈放の意を含む慈悲をアメリカに申し入れたのでした。しかし、アメリカは断固として聞き入れようとしませんでした。

 

モルデカイ・バヌヌ Mordechai Vanunu
モロッコから帰還民のバヌヌ氏はイスラエルのディモナ原子力リサーチセンターで働いていたのですが、(おそらくその反体制的な言動によって)センターから解雇されました。

ところが、バヌヌ氏は仕事現場を辞める前に内部の写真を撮影していたのです。バヌヌ氏は自分の仕事が核爆弾に関わるものであると気づいたためでした。バヌヌ氏は解雇されると、その写真を持ったままバックパッカーとなり、ネパールやタイなどの仏教国を訪れたということです。

そして、世界のためにこの機密を暴露することを決意し、1986年9月、イギリスのロンドン・サンデータイムス(1986年10月5日分)にディモナの施設で核爆弾の開発が行われていたとリークしたのです。

しかし、国家機密を暴露すれば当然、国家反逆罪です。その結果、1986年9月30日(新聞の発売前!)、ローマにいる所をモサドによって拉致され、イスラエルに連れ帰られました。そして、裁判の結果、18年の禁固刑が言い渡されたのです。

2004年4月11日、バヌヌ氏は釈放されました。釈放現場には支援者や反支援者が集まっていました。バヌヌ氏は出所後も外国メディアのインタビューを受けることを禁じられていました。
当然、当局の監視下に置かれています。2006年4月19日まで、イスラエルから出ることも禁止されました。

 

 

 

■ パレスチナ

ヤセル・アラファト議長 Yasser Arafat

PLO

PLOの2代目議長であり、最大の組織アル・ファタのリーダーで、パレスチナ自治政府(PA)議長です。つまり、パレスチナの最高権威です。
オスロ合意により、イスラエルとの和平が進んだ事に対する功績でノーベル平和賞を受賞しました。

2004.11.11、病気治療のため入院していたパリの病院で死去しました。後任にはムハンマド・アッバス氏が就任しました。アッバス新議長ら、そのほかの人々はこちらをクリック

ムハンマド・アッバス議長(PLO)、アハメド・クレイア首相、ムルワン・バグルティ野戦司令官(タンジーム)、アブ・ニダル野戦司令官(アブ・ニダル)

ジョージ・ハバッシュ George Habash

PFLP


写真提供 PASSIA

PFLPを設立した人です。ハバッシュ議長自身はイスラームではなくギリシャ正教徒です。PFLPの考え方は、共産主義とパレスチナナショナリズムを融合させた国家の設立にあります。
アラファト議長のやり方は生ぬるいと批判し、PLOから離脱した事もありました。
モサドから狙われていましたが、生き延び続けます。そして、2000年5月、PFLP議長を辞任しました。後任の議長や、解放戦線系組織のリーダーはこちらをクリック

アブ・アリ・ムスタファ(PFLP)、アハメド・サダット(PFLP)、アハメド・ジブリル(PFLP−GC)、ナイフ・ハワトメ(DFLP)

 

アハメド・ヤシン師 Sheikh Ahmed Yassin

ハマス


写真提供 PASSIA

イスラーム武装抵抗運動ハマスの設立者です。子供の頃の事故で体が不自由となり、車椅子に乗っています。
和平に向けたPLOの弱腰を非難し、イスラエルに対して徹底抗戦の構えです。
 2004年3月22日の早朝、イスラエル空軍のアタックヘリが発射したミサイルによって暗殺されてしまいました。その他のハマスのメンバーはこちらをクリック

アブドゥルアジス・ランティシ(ハマス)、エマド・アケル野戦司令官(イザディン・アル・カサム軍団)

 

ファティ・シャカキ師 Sheikh Fathi Shaqaki

イスラミック・ジハード


写真提供 PASSIA

イスラミック・ジハードの創始者です。ガザの難民キャンプ生まれでエジプトの大学で学んでいるときにムスリム同胞団に入団します。しかし、程なく脱退し今度はジハードと接触をします。ガザに帰国後イスラミック・ジハードを設立しました。
イスラエルとの闘争の結果、逮捕され国外追放となりました。追放された後にはダマスカスに本部を置き活動しました。

1995年11月1日、攻撃に耐えかねたイスラエルによってマルタ島で暗殺されました。後任のリーダーにはラマダン・アブドゥラ・シャラー博士が就任しました。詳しくはこちらをクリック

 

 

■ エジプト アラブ共和国
 
ナセル大統領 Gamal Abd al-Nasir

自由将校団


写真提供
エジプト情報省

エジプト王国軍の中佐だったのですが、青年将校を集め秘密結社”自由将校団”を結成します。この自由将校団はクーデーターを起こしてエジプト王制を倒しました

ナセル自身は共和国成立後の1956年6月25日、第2代大統領に就任し、大国に屈しない外交政策で世界に名をとどろかせました。1970年9月28日、過労により病死しました。

 

サダト大統領 Anwar Al-Sadat

自由将校団


写真提供
エジプト情報省

ナセル大統領が急死した後、副大統領のサダトが大統領に就任しました。サダト大統領もナセル大統領とともに自由将校団の一員でした。

サダト大統領は、アラブで最初にイスラエルと平和条約を締結し、その功績によりノーベル平和賞を受賞しました。

1981年10月6日、その平和条約が気に入らないイスラーム原理主義過激派ジハードに暗殺されてしまいます。

 

ムバラク大統領  Hosni Mubarak

写真提供
エジプト情報省

サダト大統領が暗殺されると副大統領のムバラク氏が後を継ぎました。実はムバラク大統領はサダト大統領が暗殺された時、すぐ隣に座っていたのですが、九死に一生を得たのです。

1995年、今度はムバラク大統領自身が狙われ、暗殺されそうになります。エチオピア訪問中の大統領に銃撃が浴びせられました。この暗殺は成功しませんでした。ボディーガードが盾となり、大統領は無事だったのです。これはジハードと同系等の組織、ガマアト・イスラミヤが実行したのでした。

 

オマル・アブドゥル・ラーマン師

ガマアト・イスラミヤ、ジハード

盲目のカリスマ、ラーマン師はガマアト・イスラミヤとジハードの指導者で、サダト大統領暗殺にからんで逮捕されましたが、四年後に釈放となりました。

1990年エジプト国籍を剥奪されアメリカに移住します。よく移住の許可が下りたと思いますが・・・。しかし、今度はムバラク大統領暗殺にからんで逮捕され、現在アメリカで終身刑服役中です。

 

アイマン・ザワヒリ Ayman al-Zawahiri

ジハード

ラーマン師を精神的指導者に抱くジハードのリーダーです。アル・カイダのNo.2でもあり、アメリカから指名手配されています。詳しくはここをクリック

 

 

シリア アラブ共和国
 
ハフェズ・アサド大統領 Hafez Al-Assad

シリアを中東最強の位置まで押し上げた人物でしたが、一度暗殺されかけてからは、秘密警察を用いた恐怖政治で国を支配していました。2000年に死去しました。

 

バシャール・アサド大統領 Bashar Al-Assad


写真提供 SANA Agency

2000年、父の死後、大統領に就任しました。ハフェズ・アサド大統領の次男です。長男は交通事故ですでに亡くなっていました。

おそらく世界で一番若い大統領です。シリア議会はこのバシャール氏を大統領に就任させるため、新たに大統領の年齢制限をバシャール氏の年である38歳に引き下げました。

 

 

ヨルダン・ハーシム王国
 

アブデュラ・ビン・フセイン王 Abdullah bin Al-Hussein
トランスヨルダンの初代国王。ムハマンド直系の名門ハーシム家です。オスマントルコ、メッカの太守フセイン・ビン・アリーの3男で、WWTののち、イギリスの後押しによってトランス・ヨルダン王国を旗揚げされました。
1951年パレスチナアラブ人過激派に暗殺されてしまいます。

 

フセイン・ビン・タラール王 Hussein bin Talal
アブデュラ王陛下のお孫にあたる方です。1999年崩御なさいました。オイルショックのときは日本も大変お世話になりました。

 

アブデュラ・ビン・フセイン2世 Abdullah bin Al-Hussein U
フセイン王陛下崩御に伴い、1999年2月7日国王に就任なさいました。

 

 

レバノン共和国

 
ハッサン・ナスラッラー師  Hassan Nasrallah

ヒズボラ


写真提供 ヒズボラ

イラン革命防衛隊によって作り上げられたヒズボラゲリラの書記長です。ナスラッラー師はホメイニ師の弟子であったという情報もあります。

 

カマル・ジュンブラット Kamal Jumblatt

社会進歩党

レバノン・ドルーズ派の指導者です。政治家で大臣も務めましたが、1977年3月16日、暗殺されました。やったのはシリアの工作員であると後年、息子のワリド・ジュンブラット氏は発表しました。

 

イマム・ムーサー・サドル師 Imam Musa Sadr

アマル

レバノン最大の民兵組織”アマル”の設立者です。レバノンに風雲急が告げられると、シーア派指導者であったサドル師は武装組織を立ち上げ、シーア派の安全を守る事にしました。
このサドル師はリビアを訪問中に行方不明になりました。つまり、何者かに消されてしまったのです。

 

フセイン・ムサウィ

イスラミック・アマル

アマルから独立分派したイスラミック・アマルの指導者です。

 

バシール・ジェマイエル Bachir Gemayel

レバノン・フォース


写真提供 レバノンフォース

キリスト教マロン派政党ファランヘの2代目で、レバノンフォースの初代司令官です。レバノン戦争時にはイスラエルと同盟してPLOを追い出し、’82.8.23付けで大統領となりました。
しかし、2週間後に暗殺されました。まだ就任式も行っていませんでした。暗殺犯はシリア・ムハバラートの工作員だと言われています。

その他、シャミー・ジェアジェア野戦司令官、エリー・ホベイカ、アブ・アルツ、ドニー・チャモーン等、レバノンフォースの人々はここをクリック

 

サード・ハダット少佐 Sa'ad Hadat

SLA


写真提供 イスラエルGPO

レバノン正規軍の少佐で東部軍管区司令として派遣されていましたが、PLOと戦うため自由レバノン軍を旗揚げしました。この自由レバノン軍は後に南レバノン軍(SLA)となります。

その他ラハド准将など、詳しくはここをクリック

 

ミッシェル・アウン Michel Awn

自由愛国党

レバノン正規軍の将軍で時のアミン・ジェマイエル大統領(バシール・ジェマイエルの弟)により首相に任命されました。
そして生きて任期満了となったアミン大統領が交代すると、新大統領は暗殺され、またも新しい大統領が誕生しました。アウン将軍はこの親シリアの大統領と折り合いがあわず決別し、アウン将軍はシリア軍を攻撃します(レバノン正規軍としてではありません。マロン派キリスト教系の民兵組織です)。
しかし、1991年にバックアップしていたイラクが湾岸戦争で敗れると、アウン将軍も降伏し、フランスに亡命しました。

 

 

■ サウジアラビア 写真提供 サウジアラビアインフォメーションオフィス ワシントン
 
アブドゥル・アジース国王 King Abdul Aziz Bin Abdul Rahman Al-Saud

サウジアラビアを建国の王アブドゥル・アジーズ陛下は、戦闘民族ベドウィーンとして幾多の戦いを制し、アラビア半島を統一する事に成功しました。
そして、国名をサウード家のアラビアと言う意味のサウジ アラビアと名づけたのです。

砂漠の豹と呼ばれたアブドゥル・アジーズ陛下も、1953年11月9日崩御しました。

 

サウード国王 King Saud bin Abdul Aziz  Al-Saud

サウジアラビア第2代国王です。アブドゥル・アジーズ陛下の数多い息子の1人です。

国王就任後の失政を問われて、ファイサル首相(後の国王)と仲が悪くなります。親衛隊動員して戦闘寸前まで行きましたが、最高ウラマー会議の決定で退位となり、謹んで受けました。1964年10月、ギリシャに亡命しました。

 

ファイサル国王 King Faisal bin Abdul Aziz Al-Saud 

サウジアラビア第3代国王です。兄との戦い(戦闘には発展しなかった)を制し、国王に就任します。

ファイサル陛下は王国の近代化を進めます。イスラエルとの戦いでも積極的にアラブのリーダーシップを取り、王国を地位を高めました。

1975年3月25日、甥のムサーイド殿下に暗殺されてしまいます。

 

ハーリド国王 King Khalid bin Abdul Aziz Al-Saud 

サウジアラビア第4代国王です。ハーリド陛下はおとなしい性格でありましたが、世の中はそうはいきませんでした。

ソ連のアフガン侵攻、イラン・イラク戦争と大変な思いをされたのでした。1982年6月13日、崩御しました。

 

ファハド国王 Fahd Bin Abdul Aziz Al-Saud

ハーリド国王崩御と同時に皇太子であるファハド王子がサウジアラビア第5代国王(現国王)に就任しました。

1986年10月より、ファハド国王陛下は尊称を”サウジアラビア国王”から”2聖地の守護者”と改められました。

2005年8月1日崩御なさいました。

 

 

イラク共和国
 

サダム フセイン大統領 Sadam Hussein
共和制のイラクで独裁政治を行っていました。1990年クウェートの石油を狙って侵攻しましたが、アメリカ軍を中心とする多国籍軍によって追い払われてしまいます。しかし、多国籍軍はイラクの占領までは行なわなかったのでフセイン政権はそのまま継続しました。

アメリカはフセイン政権を倒すため、戦後は経済制裁を課し、自滅する事を期待していました。しかし、まったく揺らがないこの政権を自ら倒す事を画策し、再度イラクに侵攻しました。
2003年3月20日、イラク戦争(第2次湾岸戦争)が始まり、約一ヵ月後にバグダッドは陥落し、アメリカが占領しました。

フセイン大統領は逃亡しましたが、2003年12月13日、逃亡先の隠れ家をアメリカ軍に急襲され逮捕されてしまいました。

 

ウダイ フセイン Odai Hussein
フセイン大統領の長男です。肩書きはイラクサッカー協会会長。1996年12月に銃撃を受けて足が不自由になると事実上後継者から外れてしまいます。

24歳の時に使用人を撲殺し逮捕されますが、フセイン大統領の公正な裁きをとの発言もむなしく、さっさと釈放されてしまいました。さらにウダイ氏はフセイン大統領の異父弟ワトバン・イブラヒム内務大臣(バルザンの弟)に発砲し、負傷させました。

暴れん坊だったウダイ氏もアメリカ軍がイラクを占領後に、潜伏先のモスル(と言う町)で発見され2003年7月24日、銃撃戦によって弟のクサイ氏と共に射殺されました。 

 

クサイ・フセイン Qusai Hussein
フセイン大統領の次男です。兄のウダイ氏が銃撃後に左足が不自由となると、急にフセイン大統領の後継者のスポットライトがあたりました。

 

フセイン・カミル Hussein Kamel
フセイン大統領の甥で長女のラドガさんを娶っています。同じく弟のサダム・カミルもフセイン大統領の次女ラナさんを娶っています。この2人の夫婦はヨルダンに亡命します。しかし、フセイン・カミル氏は突如自主帰国し、処刑されてしまいます。

 

ムスタファ・バルザーニ

クルド民主党(KDP)

イラクのクルド人指導者です。スンニー派です。

イラクがイギリスに支配されていた当時、ムスタファは兄のアハメドと共にクルドの独立のために戦っていました。しかし、反乱軍はイラク軍によって制圧され、バルザーニ兄弟はイランに亡命しました。

1945年、クルディスタン民主党(KDP)を設立しました。後に兄はイラクに帰国しますが、弟はソ連に亡命します。イランで建国されたクルド人民共和国にイランが侵攻し、イランにもクルド人の安住の地はなくなったからでした。

1958年、イラクでクーデターが発生し、革命政権はムスタファの帰国を許可しました。イラク革命政府はクルド問題に理解を示し、自治権まで認めるといったのですが、バルザーニは領土が不服として政府と決別、またも戦闘へと発展しました。

1975年、イラクのクルド人をバックアップしていたイランがイラクとの外交問題でクルド人を裏切り、バルザーニはアメリカへ亡命します。イラクで新たに大統領となったフセイン大統領はクルド人に対しさらなる理解を示しましたが、結局は決裂し、今度は化学兵器さえ使った攻撃を受けました。

 

ジャラール・タラバーニ

クルド愛国同盟(PUK)

KDPから分離独立したクルディスタン愛国同盟 The Patriotic Union of Kurdistanを率いています。イラク統治評議会(イラク暫定政府)に参加しています。

新生イラク政府の初代大統領となりました。

 

アフマド・チャラビ

イラク国民会議(INC)

バグダッド陥落後にイラクに一番乗りした、イラク国民会議の議長です。イラク統治評議会に参加しています。イラク国民会議はアメリカのバックアップで設立されました。

チャラビ氏はヨルダンで銀行を経営していましたが、倒産させてしまいます。この時、国外に逃亡します。そして、ヨルダンはチャラビ氏を横領罪で告訴し、欠席裁判で有罪となりました。

アメリカ・イギリスと渡り歩いた後、イラクのアルビルへ舞い戻り、反フセイン組織INCを設立します。アルビルのINCはフセイン大統領の攻撃で壊滅しました。

チャラビ氏は基本的にビジネスマンであり、ゲリラでもなんでもありませんでした。そのため、CIAも付き合い安いと考えたのでしょう。ちなみにシーア派です。

イラク統治評議会に参加していましたが、2004年イランへのスパイ容疑で家宅捜索を受けたあげく、アメリカからのバックアップが止められました。

 

イヤド・アラウィ Iyad Allawi

イラク国民合意(INA)シーア派

バグダッド生まれのアラウィは若い頃にバース党に入ります。その後、医学の勉強のためロンドンへ留学します。医学の勉強の傍ら、ヨーロッパでのバース党員としての政治活動も行っていました。

しかし、アラウィは突如バース党を脱退します。人材の確保が重要だと知っていたフセイン大統領はアラウィに考え直すよう説得しましたが、アラウィは結局バース党に帰ることはありませんでした。アラウィの考えが変わらないと悟ったフセイン大統領はロンドンに刺客を送り込みます。裏切り者には死あるのみと言うことです。
イラクの工作員によって寝ているところを斧で襲われたアラウィは重症を負いながらも一命を取り留めました。暗殺は失敗したのでした。

時は進んで、1990年の湾岸危機が訪れます。アラウィはこの時、元バース党党員や元ムハバラート要員を集めてINAを設立します。反フセイン大統領の政治組織です。当然、イラク国内で組織したのではすぐに摘発され消されてしまうため、隣国のヨルダンに本部を置きました。
ヨルダンはイラク情報部員の巣窟となっていますが、逆にフセイン大統領を裏切った人々もヨルダンに逃れてきているのです。そして、フセイン大統領も仲の良いヨルダンに対しては、暗殺者を送り込むなどと言うことはしないのです。

2003年、今度はアメリカがイラクを占領するとアラウィはINAを率いてバグダッドへ入城したのでした。そして、フセイン大統領に続くイラクのリーダーとしてイラク暫定政権の首相に就任しました。

 

ムハンマド・バキル・ハキム師

SCIRI

イラクのシーア派最大手、SCIRIことイスラーム革命最高評議会を率いるハキム師は、イランに亡命していましたが、アメリカがイラクを攻め落とし戦闘終結宣言を出した直後の5月10日、イラクに帰国しました。

しかし、帰国から数ヶ月後の8月29日、ハキム師は暗殺されてしまいます。聖地ナジャフにあるイマーム・アリ・モスクで金曜日の礼拝を終え車を走らせた直後、付近に停車していた車が爆発し、ハキム師は死亡しました。この攻撃によって87人が死亡し、200人以上が負傷しました。

ハキム家はイスラーム・シーア派の名門で、バキル・ハキム師の従兄弟はアヤトラーをやっています。このアヤトラー・サイード・ムハンマド・サイード・アル・ハキム師のナジャフにある本部事務所でも8月24日に爆弾攻撃があり、ボディーガード3人が死亡、本人が負傷という事件がありました。

 

アブドゥル・アジズ・ハキム師 Abdul Aziz al-Hakim

ファイラク・バデル

イラク・シーア派最大手のイラク・イスラーム革命最高評議会ムハンマド・バキル・アル・ハキム師の弟で軍事部門”ファイラク・バデル”を率いています。
 イスラーム革命最高評議会はイラクの新政権であるイラク統治評議会にこのアジズ・ハキム師(弟)を送りました。 

 

ムクタダ・サドル師 Moqtada Sadr

シーア派マハディ軍

1999年、ムクタダ・サドル師の父アヤトラー・ムハンマド・サーデク・サドル師が暗殺されました。アヤトラーの中では飛び抜けて人気のあった人物です。なぜならサドル家はフセイン政権から逃げないでイラクに留まりがんばっていたからです。 フセイン政権が倒れると、サダムシティーもサドルシティーと名を変えました。その息子のムクタダ・サドル師も反米組織として人気があります。

2003年10月10日、ムクタダ・サドル師は米軍指導のイラク統治評議会とは全く別に政府組織を作ることを宣言しました。アメリカ軍と戦闘を行っているのはスンニー派の人々だけではありません。シーア派のムクタダ・サドル師の民兵マハディ軍もアメリカ軍や穏健派のシーア派組織と戦っています。バックアップはイランです。

 

アブドゥル・マジド・アル・ホエイ師 Abdul Majid al-Khoei

シーア派

大アヤトラー・アブドゥル・カシム・アル・ホエイ師の息子で湾岸戦争直後の蜂起失敗で父が逮捕されると、フセイン政権から逃れロンドンへ亡命していました。連合軍との協力を宣言し、2003年4月5日アメリカ軍を伴い帰国します。

帰国してすぐの2003年4月10日、ナジャフで起こっていたフセイン政権でのナジャフ管理官とムクタダ・サドル師のトラブル解決のため仲介に当たったのですが、喧嘩になり殺されてしまいました。

 

サイード・アリ・シスタニ師 Sayyid Ali Hussein al-Sistani

シーア派

イランのマシュハド生まれのシスタニ師は、イラクのナジャフへ留学し上記、ホエイ師の父のもとイスラームの修行に励んでいました。大アヤトラーのホエイ師がフセイン大統領によって逮捕され、病死すると、お葬式を取り仕切り、ホエイ師の後継者である事を印象付けます。

しかし、フセイン政権下で敵性扱いされていたシーア派の権威であったため、長年にわたって自宅軟禁状態にありました。当然フセイン大統領の抹殺リストにも載っているわけです。この抹殺優先順位からシスタニ師のライバルに当たるサーデク・サドル師(ムクタダ・サドル氏の父)が暗殺されたため、自動的にシーア派の最高権威となりました。

そして、連合軍によるイラク侵攻で聖地ナジャフが解放され、シスタニ師も自由の身となりました。当のシスタニ師は政治結社を持っている訳ではありません。あくまで宗教家ですが、シーア派に対しての影響力が絶大なため、連合軍としても放っておく訳にはいきません。とはいえ、シスタニ師は外国軍がイラクに入ること自体、嫌っているようです。 

 

ザルカウィ野戦司令官 Abu Musab Al-Zarqawi

アル・カイダ

ヨルダン人のザルカウィ司令官はイラクで国際旅団を率いて反アメリカゲリラ闘争をしています。アフガン帰りのムジャヒディンで、ラディン師のライバルとも言われています。 
ラディン師と同様にアメリカによって賞金2,500万ドル(法律の上限額つまり最高額)を掛けられています。詳しくはここをクリック

 

 

イラン イスラム共和国
 

ルーホッラー・ムーサヴィ・ホメイニ師 
宗教指導者の息子に生まれたホメイニ師は、自身も宗教家を目指し聖地コムで神学校へ進みます。そして、ホメイニ師はそのカリスマ性を発揮し、イランでのシーア派最高指導者へとなります。
そして、パフラヴィー国王に対抗して、国王を糾弾するメッセージを発信し続けます。秘密警察で持っていた王国も、もしホメイニ師を殺してしまうと国民が暴動を起しかねませんそのため、暗殺する事が出来ず、結局国外追放にされてしまいます。
ホメイニ師はイラクへ追放されていましたが、国王を糾弾する説教は止めませんでした。ホメイニ師の説教はテープに吹き込まれ王国へ密輸されました。
その結果、イランで革命が発生し、ホメイニ師はイランに舞い戻り、今度は国の最高指導者となりました。

 

アヤトラー・ハメネイ師 Ayatollah Khamenei
ホメイニ師の親衛隊、イラン革命防衛隊(パスダラン)の初代司令官です。ホメイニ師の死後、最高指導者となりました。イランにも大統領はいますが、この人の意向なくして意思決定はありません。

 

ムハンマド・ハタミ師 Mohammad Khatami
1997年5月、大統領に当選しました。ハタミ大統領は改革路線を標榜していました。2005年まで大統領を務めました。

 

ムハンマド・アハマディネジャド大統領 Mahmoud Ahmadinejad
2005年6月24日、選挙によって大統領に選ばれた元テヘラン市長です。アハマディネジャド大統領は元パスダランの隊員です。いわゆる保守派で、バックにはハメネイ師が付いています。

 

 

社会主義人民リビア アラブ国
 

カダフィ大佐 Moammar Gadhafi
リビア自由将校団を率いて無血クーデターを起こし、政権を取りました。その後、アメリカとやり合いましたが、現在は主要ポストから退いています。

大佐の息子さんはイタリアのサッカーリーグ”セリエA”でプレーするサッカー選手です。

 

 

■ スーダン共和国
 

ガーファー・ムハンマド・ヌメイリ Gaafar Muhammad Muneiry
クーデターで政権を取り、長く続いていた第1次内戦を収めました。スーダンをイスラーム法によって統治すると言ったのはこの大統領が最初です。

 

ハッサン・トゥラビ師 Hussan Turabi
ムスリム同胞団スーダン支部を立ち上げたトゥラビ師は、何度も逮捕されましたが、革命の後にスーダンがイスラーム原理主義化すると政府の実力者にのし上がりました。

トゥラビ師はフランスソルボンヌ大学卒で極端なイスラーム原理主義ではなくまあ、いわゆるサウジアラビアくらいのイスラーム国家を目指しました。もちろん共和制の国です。

1999年にバシャール大統領によって自宅軟禁状態となりましたが、2003年に解放されました。

 

ジョン・ガラン中佐 John Garang
エチオピアでスーダン反政府組織SPLAを立ち上げた人物です。黒人キリスト教徒で、アメリカの大学を卒業し、軍事訓練もアメリカで受けています。

1962年に第1次の内戦が始まると、ガランは”アニャニャ”に入隊します。第1次内戦が終わると政府軍に入隊します。

1978年に第2次内戦が始まると、(石油が発見された)南部の独立を目指して、反政府軍SPLAを組織したのです。

2005年1月に政府軍と停戦合意がなされ、7月9日には副大統領になることが決定しましたが、8月1日乗っていたヘリが墜落し、死亡してしまいました。

 

サリバ・キール Salva Kiir
SPLAの副司令官でガラン中佐が死亡すると、司令官になりました。そして、副大統領職も受け継ぐ事になりました。

 

オマル・ハッサン・バシャール Omar Hussan al-Bashier
1989年、クーデターで政権を取った現大統領です。クーデター直後はトゥラビ師を逮捕し反イスラームかと思われましたが、その後はトゥラビ師も解放しどんどんイスラーム原理主義化していきました。しかし、現在はトゥラビ師と手を切りました。そのため元国会議長トゥラビ師は失脚してしまいました。

 

 

その他
 
オサマ・ビン・ラディン師 Osama bin Laden

アル・カイダ

サウジアラビアの大金持ちでアメリカが最も敵視しているイスラーム過激派アル・カイダの指導者です。活動範囲は世界中です。アメリカのWTCビルやアメリカ駆逐艦コールへの神風アタックはラディン師の命令ではないかと思われています。詳しくはここをクリック

 

イディ・アミン大統領 Idi Amin

ウガンダ

クーデターによってウガンダの政権をにぎった元陸軍参謀総長アミン大統領は国内からのユダヤ人の追放や、敵対勢力の虐殺などで悪名をはせました。政治はソ連よりでした。

このため、イスラエルと武装闘争をしているパレスチナゲリラが接触し、なんとハイジャックに一つの国家があからさまに協力しました。エール・フランス機ハイジャック

結局、恐怖政治では国が治まらず、隣国タンザニアの協力を取り付けた反政府ゲリラによって追放されてしまいました。

 

 アンドレアス・バーダー Andreas Baader

バーダー・マインホフ


写真提供
This is Baader-Meinhof

ドイツ人のバーダーはマルクスレーニン主義に傾倒し、反政府テロ活動を行なっていました。官憲に追われる身となったバーダーに協力者が現れます。それは左翼新聞の記者ウルリケ マインホフです。

彼女の協力でバーダーはバーダー・マインホフを設立し、官憲の追っ手から逃れつつテロ活動や強盗などを行なっていました。

1972年6月1日、フランクフルトで銃乱射を起こし、そのまま逮捕され刑務所に収監されました。

ドイツ最狂のテロリスト、バーダーは1977年8月18日、刑務所内で謎の死を遂げました。

 

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