文学雑誌「メランジュ」web版

メランジュ第7号 2003年4月

編集室より
芸術家とは」[英]


あなたのやうな」[英]

夜に咲く花[日]」/flower of the night[英]」

最終号特別座談会 (1) (2) (3) (4) [英]

小説
「アドニス・ブルー」
第4章 ()(下)
終章 ()()

リレー小説
カフェ・エバーグリーン」[

作家陣について

アドニス・ブルー(6)
メグ・グレース著

第4章 (下)

(第4章「上」はこちら

 

 ある日路上に店を開きながらJeanneが言った。
「俺は欠けてる人間や」

「なんで」
大和は煙草を口にしながら聞いた。

「俺は本当の名前も知らへん。
Jeanne d'Arcは記憶のなかった俺の頭に残ってた唯一の言葉だったんや」

「そうか」

「親がいたかどうかも知らへん」

「俺も知らん」

 Jeanneは大和を見た。

「俺は孤児院で育った。
誰も宛てにできる奴なんておらんかった。
信じられるのは自分だけ。路上が俺の帰る場所」

 大和は素知らぬ顔で煙草を吹かし続けていた。

 

 ある時公園のベンチで満面の星空を見ていた大和は酔っぱらってJeanneに言った。
「Jeanne,俺らずーっとこうして暮らしてけたらええなぁ」
「まぁな」

「俺はシルバー売って,お前は絵を売る。そいつで稼いだ金で酒と煙草を買う。まぁ女はこんなに安い金じゃ買えねぇけどな。
 どっかの金持ちみたいに学校行ったり,学校出たら会社なんか入ってサラリーマンになったり,社会の常識とかいう奴に縛られたりなんて何も考えずに,その日暮らし,この路上で,俺たちの世界で気ままに楽しくやってけたら,この世界なんて平和よ」
「あぁ」
「それが最高の幸せ者って奴」

 大和はあまり酒に弱くはないが,飲むとすぐ上機嫌になって大きなことを語ろうとする。

「俺は駄目人間」大和は笑った。
「尤もお前は違うけどな。お前はいい奴だ。
絵の才能はあるし,顔はいいし。
お前みたいな顔俺が持ってたらもっと得してたろうな」

「大和」

「何」

「俺な,人殺したんや」

「そう」

「女が川の真ん中に浮いてた。朝だった。そのとき妊娠してたって知った」

「お前が殺ったのか」

 大和はベンチで仰向けになって星を見上げていた。

「別れ話をして喧嘩になって家を出た翌朝だった。川の堤防に人が集まって,女を引き上げようとしてるのが見えた。女は既に死んでるのに,腹だけ時々ぴくっぴくって動くんだ」

「それはお前が殺ったとは言わん」

「殺ったも同然や。あの日の夜あいつは身を投げた」

「女の心の闇なんて,男には一生読めない」
大和は新しい煙草に火をつけた。
「死んだ理由がお前との別れ話だったなんて限らんだろ。死んじまったのなら尚更,そいつ以外誰も知らない。
 女はいつも男には見せない影,闇を抱えてる。女の闇の底は,深すぎて男には届きやしない」

 Jeanneは口を噤んだ。

「その女のこと,愛してたか」
大和が訊いた。

「いや」
Jeanneは首を横に振った。

「それが俺の頭ん中の最初の記憶や。
その前には何もあらへん」

「Jeanne,俺前から聞きたかったんだけどさ」
「何や」
「お前恋してるだろ」

 Jeanneは酔いが醒めた思いがして,星空を見つめた。
三日月の辺りにだけ雲がかかって輪郭がぼやけて見えた。

「お前を初めて見たとき,心の中に既に誰かがいた」
大和は煙草の煙を夜空に向かってふーっと吹きかけた。
「でもそいつじゃないな」

「最後に出会った」
Jeanneは手元に残っていた缶の中身をぐいっと飲み干した。
「…あれは,…最初で最後や」

「いい星空だな」
大和は目を閉じた。

 それ以降,Jeanneがあの悪夢を見ることはなかった。

 

 ある日の夜,彼ら2人が店を出していた近くで花見の宴が開かれていた。
2人の前に1人の修道女が駆け寄ってくるのを見て,大和は目を輝かせた。
「シスターだ。俺がいた孤児院の。
悪い,ちょっと話してくる。今日は店畳んで先にそこら辺で寝ててくれ」

 大和は片づけ終わっていた店を離れて彼女たちの方へ向かって走っていった。

 Jeanneは大和のそんな顔を見たのは初めてだった。
 何だ大和にだって身内がいるじゃないか,そう思いながら彼は公園のベンチで1人眠った。

 

 翌朝,Jeanneは目を醒ました。

 陽は既に高く昇っている。
 昨日彼が置いた場所と同じところに彼の描画道具も大和の商売道具も置いてあった。

「大和」
 Jeanneは辺りを見回した。

 朝の公園は昼過ぎや宴の夜と違って誰もいない。

――そうかあいつ昨日宴会に行ってたな――
 Jeanneは昨夜のことを思い出した。

――何処で寝たのかな,あいつ。
 でもここに荷物があるからまだ店開いてないな――

 Jeanneは立ち上がって,公園の中を歩き始めた。

 大和は何処にもいない。

――シスターたちについていったのか?――
 そんな思いが一瞬Jeanneの頭を掠めた。

 彼には家族がある。自分のことを育ててくれた人が自分を大切に思ってくれている。
 Jeanneには解らない感覚だった。

 

 Jeaaneはしばらく公園をぶらついた。

 桜の花びらが風に吹かれて舞っている。

 小鳥たちがやかましいくらいに木々の間を飛び交い囀っている。

 いつもと何一つ変わらない静かな朝だ。

 

 広い公園の中の小高い丘まで来て,彼は立ち止まった。

 大和だ。

 丘の上の1本の大きな桜の木の枝に,大和は首をくくって吊り下がっていた。

 

 今まで数多くの自分を慕ってくれた人の元を去ってきたJeanneは,初めて自分が慕った人の方から自分の元を去られた。

 

 彼は大和の屍をその桜の大木の下に埋めると,その満開の桜の絵を描いた。

 その間,桜の木からは花びらが幾枚も舞い降りて,一心不乱に書き続ける彼の上に降り注いだ。

「自殺は,罪が重いんやで」

 彼は誰に言って聞かせるともなくそう言った。

 彼は絵を描き上げると,大和の商売道具と自分の絵筆と画材を全てその場に置いて,その場所を離れた。

 

 彼は例の場所へ向かった。時は既に迫っていた。

終章に続く)

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小説「アドニス・ブルー」
序章
第1章
第2章
第3章
第4章
終章

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