文学雑誌「メランジュ」web版

メランジュ第7号 2003年4月

編集室より
芸術家とは」[英]


あなたのやうな」[英]

夜に咲く花[日]」/flower of the night[英]」

最終号特別座談会 (1) (2) (3) (4) [英]

小説
「アドニス・ブルー」
第4章 ()()
終章 ()(下)

リレー小説
カフェ・エバーグリーン」[

作家陣について

 

アドニス・ブルー(7)
メグ・グレース著

終章(下)

(終章<>はこちら

 雪奈はそのとき丁度ビルの前に差しかかりその声を聞いた。
その前に遠くで一目散にビルに突進する彼の姿に気づいていた。

 彼女は急いでビルの中に入った。
沢山の人だかりができているのを押し分けて,彼の許に駆け寄って,膝をついた。

「Jeanneさん…」
「おう,雪奈か」
 彼は彼女の方を見ると,弱々しく答えた。

 雪奈は彼の手を取って,両手で包み込んだ。
「どうしたの,一体,何があったの」
 感電し変わり果てた姿になっている彼を見つめた。
あの頃と変わらない,一点の曇りもない,純粋な,まっすぐな瞳。

「雪奈,俺は人殺しや。これで2度目や」
 彼女は首を横に振った。
「俺はこのビルを,この国を,この世界を爆破しようとした」
 彼女の優しい手の温もりが伝わってくる。
少女の可愛らしい掌の,柔らかな感触。

「この世界は狂うてると思った。
こんな社会なんて消えてしまえばええ。
この目の前に落ちてる得に爆弾しかけて,向かいのビルからそれが爆発するの見届けよう思うて,待ち構えてた。
 けど,雪奈が歩いて来るの見つけたとき,気づいた。この世界にはお前がおる。このまま爆発させたら,俺こそ,この狂った歯車の一部や。これはあかん,そう思うて止めに来た」

 彼の傍らで,彼女の白いワンピースが微かに震えている。

「雪奈,俺な,ずっと流れに身を任せて生きてきたんや。
全部周りから押しつけられたもんそのまんま受け取って,成り行き任せ」

 雪奈の姿が次第にぼやけて,白くぼうっとした光のように彼の衰弱した視界に映った。
握られている手の感触すら徐々に失われていった。

「だけど俺初めて自分の意志でこれを止めに走ったんや。
 初めて,自分の人生自分で動かした。
 もう俺は,これまでの俺やなくて,誰かに押しつけられた名前みたいなもんも必要あらへん。
俺はもうJeanne d'Arcやあらへん」

 意識が次第に遠のいていく。
これで堪忍やな,と彼は思って,ずっと見られなかった雪奈の瞳を真正面から見つめ,最後の力を振り絞り,肩で息をしながら僅かに声を出した。

「ごめんな雪奈,俺もうあかんわ,雪奈の結婚式出て雪奈の花嫁姿見てあげる約束果たせへん…」

 涙の止まらない雪奈は声にならずに首をぶんぶん横に振ることしかできなかった。

 そのときの彼の瞳は,今までで最も美しかった。
「雪奈…会えてよかった…」
 そう言うと,彼は静かに目を閉じた。
 彼女は自分の手の中で小さなろうそくの灯りが1つ消えるのを感じた。
自分たちの取り巻きの外側で,危機を救った英雄的少年という声が聞こえた。

 

 雪奈は自分の外界がどんどんどん遠ざかっていく気がした。ここが都会の一角にあるビルの中だというのも意識から薄れていった。

 

 辺りが明るく透明な光で覆われていた。

 この世のものとは思えぬ芳しい香りがして,突然天女の羽衣のような白い絹を身に纏った長い髪の美しい女性が目の前に降りてきた。

 女性は彼を抱きかかえ,悲しみに暮れた表情を見せ涙を一粒零した。
 茫然としている雪奈の前で,女性は彼を抱えたままふわりと舞い上がり──消えた。

 

 自分の目の前で起きた出来事に驚愕の余り身動き一つできなかった雪奈がはっと我に返って彼の手を包み込んでいたままの自分の両掌を離すと,鮮やかな碧色の小さな蝶が現れ,彼女の前を一旋回したあと,何処かへ飛び去った。

 

 


Adonis Blue (アドニス・ブルー) シジミ科の青色をした小さな蝶。学名Lysandra bellargus。その名は,ギリシア神話に登場する,美の女神アフロディーテに愛されたが獣の牙にかかって命を落とした美少年,Adonis (アドニス)からつけられた。

(終)

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小説「アドニス・ブルー」
序章
第1章
第2章
第3章
第4章
終章

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